私に眠る高貴な血(1/1)
まさかの言葉に声が出なかった。
この聖域には確かに「主」と呼ばれる存在がいる。でも、それが私? 私が聖域の主?
「そんな……あり得ないわ」
私は額を押さえながら、やっとのことでそれだけ言った。
「テオから聞いたわ。千年前、主は聖域を出て地上に行ったって。それが本当なら、私が主のはずがないでしょう? 人間は千年も生きられないわよ」
「それでも、血に宿る記憶と意思は消えないものじゃ」
チェルシーは、いつだったかテオが言ったのと同じ言葉を使った。
「千年間の主とご主人様は同一人物ではない。チェルシーが言いたいのは、ご主人様は高貴な血脈を宿しておるということじゃ。それは聖域の主の血。ご主人様の祖先は、この地を治めていた者たちだったのじゃよ」
――わたくしたちには尊い血が流れているのです。
おばあ様の言葉が蘇ってくる。
私はそのセリフを一度も本気にしたことはなかった。でも、おばあ様は正しかったというの? 本当に……本当に私は聖域の主の血を引いているの?
「チェルシーは部屋の外にはあまり出たことがない。じゃが、想像はつくぞ。ご主人様はきっとこの空中庭園に来た時から、皆に好かれておったのではないか?」
チェルシーの質問に、私はおずおずと頷いた。「やはりのう」と彼女は納得顔になる。
「血に宿った記憶は容易には失われぬ。聖域の住民は、何代も何代もこの地に住んできた者ばかりじゃ。彼らは本能で察していたのじゃよ。自分たちの主人が帰ってきた、と。だから皆、ご主人様が好きなのじゃ」
「そんな事情があったの……」
私は呆然と呟く。
「皆、やたらと私に好意的だからちょっと面食らってはいたんだけど……」
「まあ、血筋うんぬん関係なく、ご主人様生来の魅力のせいかもしれんがのう!」
チェルシーは、どっちでも構わないと言いたげに笑い声を上げた。
「もしきちんとした証拠が欲しいなら、宝物庫へ行くとよいぞ」
「宝物庫? 本島の北東にある森の中の洞窟のこと? 確か、聖域の主はあそこに宝をしまい込んだって聞いたけど……」
「もしご主人様がご主人様なら、その宝を見つけられるはずじゃ! あそこは主のための場所じゃからのう。どうじゃ? 今から確かめてみないか?」
私自身も知らなかった、私の秘密。この体に流れる血の謎。
分からないなら分からないで済ませてしまうこともできそうだ。でも……知らなければいけないような気がした。忘れ去られてしまった真実の全てを。
「行くわ」
肩に力を入れながら返事をした。チェルシーは「よし、決まりじゃ!」と私の膝からぴょんと立ち上がる。
再び防寒具を身につけた私は、チェルシーに手を引かれて正面の大きな扉から外に出た。そこから伸びていたのは長く、これまた天井の高い通路。石を彫って作られており、まるで炭坑の中のようだ。
そこを進むと、行く手には空が見えた。
通路の突き当たりに穴が空いていたのだ。
「これ……どうなってるの?」
私はあんぐりと口を開けてしまう。
見えていたのはただの空じゃない。視線の先に広がっているのは雲海だった。
恐る恐る首を伸ばして上を見ると、今度はゴツゴツした岩がどこまでも伸びているのが目に入る。
「地面が空になって、空が地面になっちゃってるわ! 何が起こってるの!?」
「あははは! ご主人様は面白いことを言うのう! ……ちょっと離れているんじゃぞ」
私が壁際まで後退すると、チェルシーの姿が変わり始める。背中からは翼が、頭には角が生えてきた。腕は太くなり、鋭利な爪が伸びてくる。体も巨大になっていき、私の身長などとっくに追い越してしまった。
「さあ、乗るがよい」
チェルシーが変身したのは、二階建ての建物くらいの大きさのドラゴンだった。人間の時の面影はほとんど残っていないけれど、飴色の目だけはそのままだ。
私は「すごいわ……」と口元を押さえる。
「この空中庭園には色々な住民がいるけど、ドラゴンになれる人には初めて会ったわ」
「それはそうじゃよ。チェルシーしかいないんじゃから」
騎乗しやすいように屈んでくれたチェルシーの背中にまたがる。……チェルシーには悪いけど、乗り心地はおーちゃんの方がいいわね。この子の体、固い鱗で覆われてるからあっという間にお尻が痛くなっちゃいそうだわ。
「しっかりつかまっているんじゃぞ、ご主人様! チェルシーの飛行は荒っぽいのじゃ!」
助走をつけ、チェルシーは空に飛び立った。その速度がぐんぐんと上がっていく。
「ご主人様、まだ乗っかっているか?」
「もちろんよ」
おーちゃんのトップスピードと比べれば、これくらい止まっているのと同じだ。もっと飛ばしてもらったって余裕で耐えられるだろう。
ただ、チェルシーの飛行が荒いというのは私も認めざるを得なかった。だって彼女、辺りに浮かんでいる岩を一切避けようとしないんだもの。平気で激突して粉々にしていくのよ?
そんなことをしてもドラゴンのチェルシーは蚊に刺されたほどにしか感じないんだろうけど、私としてはたまったものじゃなかった。彼女の首に腕を回し、できるだけ姿勢を低くして身を守るほかない。
不意に上空の岩の天井が途切れた。チェルシーは今度は体を垂直にして、上昇を開始する。下を見た私は、眼下に空中庭園が広がっているのに気付いた。
「天地がひっくり返ったんじゃなかったのね!」
私は謎が解けた気分になった。
「私たち、どこかの島の下にいたんだわ」
「本島じゃよ」
「つまり……本島は逆三角形の形をしてるのね。私たちが飛び立った穴は、その頂点の辺りに空いていたんだわ。ということは、チェルシーは本島の地下に住んでるの?」
「そのとおりじゃ。ご主人様は聡明じゃのう」
チェルシーは洞窟のある森の手前で私を降ろすと、人の姿に戻った。彼女と手を繋ぎ、木々の間を歩く。前に来た時と同じで、ここを住処としている精霊たちは私を見て楽しそうにしていた。
この子たちは、私でさえ知らなかった秘密に反応しているのかもしれない。この体に流れる高貴な血。聖域の主の血統。私の祖先は本当にここを治めていたんだろうか?
洞窟に着いた。「さて……」とチェルシーは期待を込めた顔になる。
「ご主人様、この先は一人で行くのじゃ」
「え、何で?」
てっきり何か手助けをしてくれると思っていた私は、当てが外れて拍子抜けしてしまう。けれどチェルシーは「そういうものだからじゃ」と平然とした顔だ。
「ご主人様は、自分が金庫を開けて中身を確認しているところを他人に見られたいか? 嫌じゃろう? チェルシーなら、開け方も中に入っているものも秘密にしておくのじゃ。それに、ご主人様の祖先たちもそうしていたからのう!」
「祖先たちはよくここに来ていたの?」
「まあ、人によりけりじゃな。生涯の内、片手で数えるほどしか来たことがない者もいれば、入り浸りだった者もいるぞ」
「ふーん……。……あら? ちょっと待って?」
奇妙なことに気付き、私は首を傾げる。
「あなた、随分詳しいのね。まるで見てきたみたいだわ」
「見てきたからのう」
チェルシーは何気ない口調で言った。
「チェルシーはご主人様よりもちょっとだけお姉さんじゃからの。色々なことを知っておるのじゃ。……さあ、行くがよい! 『幸福』がご主人様を待っておるぞ!」
私はぐいぐい背中を押され、洞窟の中に入った。
どう見ても幼女のチェルシーが実はとんでもない年齢だったという衝撃で、私はここへ来た目的を一瞬忘れそうになったけど、洞窟内のシャンデリアの明かりを受けて我に返る。
私はここに眠る宝を見つけなければならない。そして、この血の秘密を解き明かすんだ。