地下部屋暮らしの竜チェルシー(2/2)
何の心構えもできていなかった私は、少女に抱きすくめられた衝撃で床に倒れ伏す。幸いにも床はクッション性のある絨毯のようなもので覆われていたから、体を痛めたりはしなかった。
「チェルシーは待ちくたびれたぞ! こんなに長いこと留守にするなんて、ご主人様は悪い奴じゃ! こうしてやる!」
少女は私をくすぐり始めた。私は笑い声を上げながら抵抗する。
「ちょ……ふふふ……やめ……あははは……!」
「ご主人様が笑っておる! チェルシーも嬉しいぞ! これからはずっと一緒じゃな!」
少女は抱きつきながらくすぐり続けるという高度な技を披露し、お陰で私は床の上を彼女と転げ回るはめになった。
しばらくしてやっと少女が解放してくれた時には、私の息はすっかり上がってしまっている。
「ご主人様、綺麗な髪がぐしゃぐしゃじゃ。今、チェルシーが整えてやるからの」
少女は机の引き出しを開けてブラシを持ってくる。
動き回ったせいで汗ばんでいた私は、コートを脱いでマフラーも外した。耳当てもつけていたけれど、さっき暴れた弾みに部屋の向こう側まで飛んでいってしまっている。
「あなたは誰なの? ここはどこ?」
「チェルシーじゃ。それで、ここはチェルシーの部屋じゃ」
少女……チェルシーは私の髪にブラシをかけながら答える。
「チェルシーは白霧島に住んでるの? 私、霧の中で変な声を追いかけてる内に迷子になっちゃって……」
「ふふふ。迷子ではないぞ、ご主人様。あの霧が人を惑わすなら、それは目的あってのことじゃ。ご主人様はここに来なければならなかった。だから、霧が導いたのじゃ」
髪を整え終わったチェルシーは、私の膝の上にちょこんと座った。そして、手の中のブラシを見てはしゃいだ声を出す。
「ご主人様の髪は薄い金色でとても美しいのう。このブラシに絡まっているのは、チェルシーがもらっても構わんか?」
「別にいいけど……。私の髪なんか持っててどうするの?」
「宝物にするのじゃ」
チェルシーはブラシの毛に挟まった私の髪を慎重に抜き取り、ハンカチで包んだ。そして、棚の横に置いてある箱に大事そうにしまう。その蓋の上には、お世辞にもあまり上手とは言えない字で「たからばこ」と書いてあった。
「霧は、どうして私をここへ導いたのかしら?」
私は再び膝の上に座ったチェルシーに問いかける。
「私、守り人のお仕事の最中だったのよ。白霧島にいる夢魔に会いに行かなくちゃならなくて……」
「ご主人様が守り人の仕事を!? ぷっ……あははは!」
チェルシーが大声で笑い出した。訳が分からず、私はぽかんとする。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないじゃろう! 守り人の仕事をするのは守り人の勤めじゃというのに、ご主人様がそれを代行するなど……傑作じゃ! ご主人様はいつもチェルシーを愉快な気持ちにさせてくれるのう! このような冗談、普通は中々思い付かんぞ!」
「冗談なんか言ってないわよ? 私、ちゃんとした守り人だもの」
チェルシーの笑いが止まった。唖然としながら私を見る。
「ご主人様が守り人? 何故じゃ? 何故そのようなおかしなことになっておるのじゃ?」
「何故って……私、勧誘されたのよ。アイザックさんに」
「アイザック……あの小さい守り人か?」
「お兄様の方よ。彼が言っていたの。この空中庭園を愛する人なら、誰も守り人になれる、って」
「何という愚かな真似を!」
チェルシーは雷に打たれたような顔になった。
「誰でもなれるからといって、ご主人様を守り人にする奴があるか! あの小僧は頭がおかしいのか!?」
私には、どうしてチェルシーが憤慨しているのか分からなかった。確かにアイザックさんは奇行も目立つけど、頭が変っていうほどじゃないだろう。……多分。
「チェルシーは、どうして私が守り人になっちゃいけないって思うの?」
「なってはいけないのではなく、なれないのじゃ。ご主人様はご主人様じゃろう。だから、他のものになるのは無理じゃよ」
「……よく分からないわ」
私は肩を竦めた。
「そもそも、どうしてチェルシーは私を『ご主人様』って呼ぶの? 私たち、初対面でしょう?」
「『ご主人様』が嫌なら、『マイ・レディ』でもよいぞ。どっちにしろ、ご主人様がチェルシーの主であることには変わらんからの。それとも、チェルシーが間違っておると言いたいのか? ……ご主人様、名は何というのじゃ」
「私? オフィリアよ」
「オフィリア? それで終いか?」
「そんなことはないけど……。オフィリア・ブライス・フォン・サンクチュアリ。それが私の正式な名前よ」
「ほう! 『ブライス』の名まで持つか! ならば、やはりご主人様はご主人様じゃ!」
「う、うーん……?」
話について行けず、私は唸るしかない。
「この空中庭園は聖域とも言うのよね? 私、それを知った時は確かに不思議な縁を覚えたわ。だって、私の家名と同じなんだから。それに、千年前の聖域の主は『ブライス』っていう人だとも聞いている。この名前、私の家に代々伝わっているものなのよ。でも、それと私がチェルシーの主人であることとは何の関係もないと思うけど……」
「つれないのう、ご主人様」
チェルシーがいじけたような声を出す。
「薄々勘付いてはおったが、人間というのは本当に何でもすぐに忘れるんじゃな。ご主人様は自分のことを何にも分かっておらん。ならば、チェルシーが教えてやってもよいぞ?」
「あなた、一体私の何を知っているっていうの?」
私の質問に、チェルシーは「ご主人様の知らんことじゃ」と返した。
「簡単な話じゃよ。ご主人様は文字通り『ご主人様』なのじゃ。チェルシーのご主人様。守り人のご主人様。そして、この聖域のご主人様なのじゃ!」