あばら家暮らしのオフィリア嬢(1/1)
私とテオは、すっかり暗くなってしまった王都を歩く。彼がポシェットから出してくれたランタンのお陰で、夜道でも戸惑うことはなかった。
明るい炎の光が照らすのは、進むにつれて段々と細くなっていく道と、みすぼらしい家々だ。
「着いたわ」
その中でもひときわオンボロなのが私の住まいだ。年の割に気遣いのできるテオは「なるほど」と言っただけで、他の感想は口にしなかった。
今にも崩れ落ちそうな屋根や外れかかった窓がついた家に「素敵なお住まいですね」なんて言ったら、お世辞を通り越して皮肉になってしまうものね。
私は傾いたドアを開けて、テオを中に通した。テオはランタンで室内を照らしながら、また「なるほど」と言う。ごめんなさい、年端もいかない少年に気遣わせるような家で……。
「椅子はないから、その辺りの床に適当に座ってちょうだい。安心してね。お掃除したばかりだから綺麗よ」
「お掃除……。オフィリアさんは余計なものを置かない主義なんだね」
テオは努めていい方向に解釈しようとしてくれていた。私は苦笑いせずにはいられない。
「今朝までは、椅子もテーブルもあったわ。それと、ベッドもね」
でも、今の室内はほとんど空っぽだった。家具といえば、壁に据え付けられて取り外し不可能な棚だけ。その中を漁ると、奇跡的にパンが一つだけ出てくる。
「もう夕食の時間ね。これ、食べて」
「やったあ! お腹、ペコペコだったんだ!」
私が手渡したパンを、テオは嬉しそうに丸かじりしようとする。でも、不意に手を止めた。
テオはどこからともなく隙間風が入ってくる壁や、傷んだ床に視線をやる。そして「オフィリアさんのご飯は?」と聞いた。
ああ、鋭い子。
「私はいいの。お客様はおもてなししないと、おばあ様に叱られてしまうわ。それにあなたみたいな小さい子を差し置いて、私だけ食事にありつくなんてできないわよ。高貴な人は弱い立場の者を助けないといけないもの」
「高貴?」
「……何でもないわ。とにかく、食べてちょうだい」
私は促したけど、テオは言うことを聞かなかった。手でパンを二つに千切り、半分を差し出してくる。
「おもてなしなら、オフィリアさんも一緒に食べないと。ボク、誰かと食事する方が好きなんだ」
「あらまあ……」
機転の利いたことを言うテオに、思わず笑ってしまう。中々利発な子だ。彼の知恵に敬意を表して、私は半分になったパンを手に取った。
「いただきます」
家にある最後の食料を、私は時間をかけてゆっくりと食べた。テオもこのパンの価値が分かっているようで、大事そうな手つきで小さい塊を口に運んでいる。
「オフィリアさん、さっき自分のことを『高貴な人』って言ったよね」
ささやかな食事をしながら、テオは先ほどの話題をもう一度持ち出す。
「もしかして、オフィリアさんって本当はお嬢様なの?」
「まさか。お嬢様はこんなあばら家に住んでないわよ」
私は肩を竦めた。
「あれはおばあ様がそう言ってた、っていうだけ。おばあ様ったら面白いのよ。『今は落ちぶれた暮らしをしていますが、わたくしたちには尊い血が流れているのです。貴族名鑑にだって、きちんと家名が載っているのですよ。ですから、自分が何者なのか忘れてはいけませんよ、レディ』っていつも言っていたの」
でも、私からすればそんな血が自分に宿っているとは思えなかった。私なんてただの貧民の小娘だもの。
だから私はこう思うことにした。おばあ様の中では私たちはやんごとない身分なんだろうけど、私にとっては違う。私とおばあ様の見ている世界は別物だ、って。
「オフィリアさんはおばあさんと住んでるの? 他に家族は?」
「いないわ。両親は私が小さい頃に亡くなったから。それに『おばあ様と住んでいる』って言うより、『おばあ様と住んでいた』の方が正しいかもね」
「あっ……ごめんなさい……」
テオは私の家庭環境を察したらしい。申し訳なさそうな顔で、体をモジモジさせている。私は「気にしないで」と返した。
「おばあ様はご病気だったの。『覚悟しておきなさい、レディ』って、もう何ヶ月も前から言い聞かされていたわ」
私は言いつけられたとおりに振る舞えただろうか? 確かに、今朝ベッドの中で冷たくなっていたおばあ様を見ても、悲鳴の一つも上げなかったけれど。
テオが暗い顔になっているのに気付いて、私は話を中断した。こんなの、会ってすぐの子に聞かせる内容じゃなかったわね。
「さあ、もう寝ましょう? たくさん歩いて疲れたものね。本当はお風呂の用意をしてあげられたらいいんだけど……今、薪がないの。代わりにお水を汲んでくるわ。それで体を拭いて」
お構いなく、とテオは言ったけど、その頃には、私はもう木のバケツを片手に外に出ている。
井戸は家のすぐ近くだ。ランタンの明かりはないけれど、水汲みは日課になっているから、まごつかずに作業ができた。それに、目も暗闇に慣れ始めている。
「あら、オフィリアちゃんじゃないのさ!」
声をかけられたのは、バケツに水を溜め終え、帰ろうとした時のことだ。月明かりが、ずんぐりとした女性のシルエットを浮かび上がらせている。私には、それがうちの大家さんだとすぐに分かった。
「中々帰って来ないから、あたしゃ心配してたんだよ。おばあさん、お気の毒にねえ」
「ご迷惑をおかけしました」
私が頭を下げると、大家さんは「いいってことよ」と手を振る。
「オフィリアちゃんは本当に真面目なんだから! そうそう、今月の家賃のことなんだけどね……」
「す、すみません」
痛いところを突かれてしまい、私は体を硬くする。
「実はお葬式の費用を工面するために、家賃として蓄えていたお金を使ってしまって……。支払日が明日だということは分かっています。でも、少しだけ待っていただけたら……」
あんなあばら家だけど、追い出されたら行くところがないのだ。私は必死に謝ろうとしたけど、大家さんは「気にしないでおくれ」と言った。
「あたしは鬼でも悪魔でもないんだ。唯一の家族が死んで、途方に暮れている女の子から金をむしり取るようなことはしないよ。今月分の家賃はもう受け取った。そういうことにしておくからね」
「ですが、それでは……」
「女に二言はないよ。じゃあ、あたしはこれで失礼させてもらうからね」
大家さんは去っていった。親切な人だ。だけど、私は気が重くなる。
彼女だって決して裕福じゃないんだ。少し支払いが遅れるだけならまだしも、家賃を踏み倒されたりしたら、生活が苦しくなるに違いない。
どうするべきかと悩みながら、私は家路につこうとした。ふと、建物の影からこちらを見ている人物の存在に気付く。
「テオ?」
「……ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだ」
テオは消していたランタンをつけた。炎に照らされた彼は、見てはいけないものを目にしてしまったような顔をしていた。
「もしかしてだけど、オフィリアさんの家に家具がなかったのはそのせい? お葬式のために、全部売っちゃったの?」
「ええ、そうよ」
私は手伝うと言って聞かないテオと、バケツの取っ手を半分こしながら来た道を戻る。
「大した値段にはならなかったけどね。だから蓄えを崩して、仕事も急いで辞めてきて、少ないけど退職金ももらったの。それでもまだお葬式を挙げられるだけのお金にはならなかったから、おばあ様の形見の指輪も売ったわ」
それでも本当なら目標額には足りなかったけど、私の境遇に同情した店長さんが指輪の売値に色をつけてくれたのだ。それでどうにかおばあ様をお墓に入れられたというわけだ。
「オフィリアさん、大変な目に遭ってるんだね。家族なし、お金なし、職なし、食べ物なし、家もなし……」
「家はまだあるわよ」
まだ、ね。
家に着いた私は、テオから先に水を使わせてあげることにした。
テオは礼を言って服を脱ぎ始める。
いくら私の年の半分くらいの子どもとはいえ男性の裸体を直視するのは躊躇われたので、彼が体を拭く間は後ろを向いておくことにした。
背後からハンカチに水を浸すちゃぷちゃぷという水音が聞こえてくる。
手持ち無沙汰になった私は、テオの服を畳んであげようかと思い付いた。手近なシャツを手に取る。
彼の服が中々の上物だと気付いたのは、その時のことだった。
もしかして、テオってお坊ちゃま?
あまり俗っぽさがない雰囲気といい、実は彼の方が高貴な血を引いているのではないかと思ってしまう。だとしたら、こんなボロ屋に泊まってもらうのは何だか申し訳ない。
「お洋服、ありがとう!」
元気な声が聞こえてきて、テオは私が畳んだ服を再び身につけ始めた。「おやすみ」とその場で横になる。彼の表情には一点の曇りもなく、ここがあばら家でも気にしない、と顔に書いてあった。
やっぱりテオは澄んだ心の持ち主だ。
私も体を洗い、彼の隣に横たわる。
近くに人がいてくれるという安心感と温もりに心が満たされてゆくのを感じた。
今日は最後の家族を失った後の初めての夜だ。それが寂しいものにならなかった幸運を噛みしめながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。