ショート キミの特訓に付き合う
「へくちっ!」
背後で可愛らしいくしゃみが聞こえる。研究費用で買ったキムワイプが横領される音もそれに続く。
「あのさ、さすがにそれで鼻かんだら真っ赤になるんじゃない?」
「いいえ、鼻も頑丈なのでだいじょぶです。鉄の鼻を持つ女と呼んでください!」
振り向くと案の定、鼻の頭は真っ赤になっている。ロッカーから鞄を取り出して、ポケットティッシュを彼女に手渡した。
「ああ、こんな高級品をわざわざわたくしに……今度何かでお返しします」
「いいって、使いかけだし……」
今、封を切ったとは言わないでおく。
「自分のために新品を!勿体ない!」とか言い出しかねない。
「それで、もうすぐ結果待ちになりますが……暇になっちゃいますね」
「暇なら試験管洗っておいてくれる? 鼻かんだソレで拭いたらさすがに怒るけど」
「そんなことしないですってば。あれはメガネに指紋がついてて気になったから、たまたま…………ですよ!」
約2秒間の空白は間違いなく前科がある事を示していた。
「まあ、後でまとめて洗った方が効率もいいか。飯は?」
「昼ごはんは小説に替わりました」
「……ほどほどにしないとガリガリのままだぞ。たまごサンドで良ければあるけど……やっぱりちゃんと手を洗ってこい」
透明なビニールから彼女が大事そうに一つ取り出して、残った方を俺に返した。両手で持って三角の頂点へとかぶりつく姿を見ながら、なんだか恥ずかしくなってしまって目を背ける。
「先輩、どうしたんですか?」
「ちょっとくしゃみが出そうで。そっちに向かって飛ばす訳にはいかないじゃん?」
「あー、先輩も今年デビューですかぁ。仲間が増えたぜ、やった!」
彼女が半分食べ終わる前に、俺は全て食い終わっていた。このまま、まじまじと見つめているのもおかしいと思って仮眠を取るポーズに移行しながら話しかける。
「暇って言ってたけどさ、小説読めばいいじゃん」
「もう少しで読み終わっちゃうんですけど、このモヤモヤが確定しちゃうのが勿体なくて。そういうの、無いですか?」
「あー、ゲームでラスボス倒して終わっちゃうのが勿体ないってのはあるかも」
「近いけど、近くないような……。先輩はやっぱりたとえ話がヘタな気がします」
「どーせ話ベタですよー。そういうお前もそこまで得意じゃないだろ?」
ふふふ、良くぞ聞いてくれました!と椅子を倒しそうになりながらも立ち上がり、宣言された。
「いいえ、私は最近特訓を始めましたよ! 先輩をどうやって邪魔するか研究を重ねて、やっぱり世間話とかを振るのが一番だと気付いたんです!」
妙な所に力を入れてしまって、時間の無駄な気がするが……特訓の内容の方が気になった。
「特訓って? 壁に向かって喋るとか?」
「それがですね、あいうえお作文を瞬時に作って話題を膨らませるというのが本で紹介されてまして」
「ほう、たとえばどんなのよ」
「例えば……先輩の下の名前、三文字でしたよね?」
「そうだけど、知ってたっけ」
「知ってますとも。たくと、ですね?」
不意に名前を呼ばれて一瞬心臓が跳ね上がる。なんでこんなのでドキドキしなきゃならないんだ。
頷いて、合っていると伝える。
「た、た……単純に考えることが得意!」
「バカって言いたいのか? よーく分かった。今後お前にやるサンドイッチは無くなったと思え」
「まだ早いですって! ツナサンドだけは分けてくださいよぅ……」
「それで、次はどう持ってくるんだ?」
「く……苦しみを分かち合える人!」
まぁ、"褒めてる"に入るのかな。
「最後は?」
「と……とても難しい」
「おいおい、さっきまでの威勢はどうした。まだ特訓中だからって言い訳は無しだぞ?」
「待ってくださいってば。今すんごいぐるぐる回してるんで」
手回し式なのか、人差し指でこめかみをぐりぐりと撫で回す。そんなことで回転が早くなるのなら、芸人の大喜利番組は一休さんだらけになるだろう。
「出来ました。聞いてください……『とても人に優しくて、憧れる人!』……で、ツナサンド?」
「どうですかのノリで聞かれても今日はツナ買ってないもん」
「えええー! 今日に限って無いんですかぁ。作文返してください!」
「返せって言われてもどうやってだよ」
「じゃあ、私の名前でもやってみてくださいよ」
……下の名前、忘れた。名字でしか呼ばないから、聞く機会もないしな……。
「相川……なんだっけ」
「カナコですって。カ・ナ・コ。自己紹介もしてたじゃないですかー。私ですら名前ちゃんと覚えてましたよ?」
「ああ、ごめんって。それで……かなこ、かなこ……」
「待ってますから急がず早めでお願いします」
無茶振りされて急かされる。たまごサンドの白身のかけらが口の端についたままだし、俺の番になる前に教えておくべきだった。
「かー、かー、かわ……これって褒めるんだよな?」
「ええ、バリバリに褒め倒してくださって結構です」
「か……完璧な寝癖。肩こり腰痛。軽いからってダイエットを舐めてる……あとは――」
「途中から褒め言葉じゃないですし、最初のも髪の毛を褒めただけだし、やっぱり褒めてないですよね」
「パスは?」
「三文字しかないんですから、がんばりましょうよー」
仕方ない、褒め言葉か。
「かわいい」
「きゃー、褒められちゃったー!」
「撤回させてくれ。変わり者」
「……聞いちゃいましたからね。それで次はどうやって褒めてくれるんですかぁ?」
「な……納豆巻きは嫌いだしな。な……涙もろい、鍋蓋のような胸部装甲――」
「ピンセットで角膜を突付いていいですか?」
「悪かったって。な…………何でも知ってる、とかは?」
「知っているジャンルが狭いですけどね、それで良しとしてあげましょう。最後は?」
こ、という言葉のつく褒め言葉が思いつかない。根気強いとかは当てはまらないし、根性は無い。子供っぽいだと怒るだろうし、こ……。
「はい、あと10秒です」
「はあ? いつの間にそんなルールが」
「あと8、7……」
こ、こ、こ。
「心の底から……す『へくちっ!』」
盛大なくしゃみをぶちかまし、メガネがテーブルへと落ちた。手で押さえるとかなんとかしろよ……一応女子。
近くに持ってきていたポケットティッシュで軽く拭い、「やわらけー、高級品……やわらけえよう!」と一人で感動していた。
「あ、すみません邪魔しちゃいました。それで最後はなんでしたっけ」
「心の底から、凄いと思えるヤツ」
「へぇ……どんなところが凄いのかは聞いてみたいんですが、そろそろ終わった頃合いだと思うので見てきますね」
「……ああ、頼む」
席を立つ彼女の背中を目で追う。
急かされていたとは言え、何を言い出そうとしていたんだ、俺は。
シャツに飛ばされた何かをキムワイプで拭き取りながら、言わずに済んだ一文字を口の中で咀嚼した。
これは……この思いは"き"っと、勘違いだ。
叶うのなら、何気なく、この思いを伝えたい。
たとえ、苦痛を伴うとしても。
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