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森の王  作者: 鳥居川礼二郎
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二章 車座と祭り

 ニレが街に向かうために村を出てからひと月ほど過ぎた頃、ニレの遺体は村の掟で立ち入ることを禁じられた森の手前を流れる川の川原で見つかった。

 森の中から木を切り出していた杣人が見つけて村まで連れ帰ってきた。杣人は荷車に乗せた遺体をケヤキの家まで届けると、お悔やみを告げて帰っていた。

 ケヤキは父が亡くなるなんてことはありえないと思っていた。それは、顔伏せを取って死顔を見ても変わらなかった。その死顔は眠っているようで、今にも目を覚ましそうだった。死後どれくらいの時間が経っていたのかは分からないが、遺体は生前となんら変わらぬ姿でそこにあった。死因は溺死だろうということになったが、その死顔は溺死した人間のものではなかった。

 ケヤキは父のことを、とても強い男だと思っていたし、尊敬もしていた。腕っぷしが強いとかそんな単純な強さではなく、しなやかでどんな場所でも家族を守って生きていけるようなそんな強さを持った男だと思っていた。しかし、その父は自分たちに何も告げずに物言わぬ体になってしまっている。そんなことがあっていいわけがないとケヤキは思った。悲しみよりも憤りに近い感情がケヤキの胸に満ちていた。

 ニレの死が受け入れられないのは、イブキも同じだった。ニレの死顔を見た時から、母はぼーっと考え込むことが多くなった。心ここにあらずといった様子だった。

 結局、葬儀の差配はケヤキとサカキで行った。放心状態の母に葬儀を取り仕切ることは酷なことに思えた。

 葬儀は春の終わりの良く晴れた日に行われた。吹き抜ける風からは、もうすこし夏の香りが漂っていた。葬儀に参列したのは、村長、生前父と付き合いのあった狩り人、村の長老たち、近所に住んでいる農家の人たちといったところだった。

 父の親族に便りを出した方が良いと母は言っていたけれど、サカキはやめておいたほうが良いと言うので、結局便りは出さなかった。

 少人数で葬儀はしめやかに執り行われた。葬儀の最中もずっとケヤキは怒っていた。

「何故、父上が死なねばならなかったのだ。何故、父上は死んでしまったのだ。」と繰り返し心の中で反芻していた。ケヤキは、睨みつけるような目つきで棺に納まった父の亡骸を見つめていた。

 葬儀が終わると、棺に花を添えて参列者たちが父に別れを告げていく。中には目に涙を浮かべている人もいる。社交的な父ではなかったが、それでもこの土地に根を張って、この村の人々と交わって暮らしてきた父は、この村の人々からも慕われていたのだ、とケヤキは改めて感じた。

 参列者の別れが済むと、男手が集められ父の棺を運び出すこととなった。この村では、遺体は荼毘に付さず、埋葬するのが一般的だった。棺は家の庭の欅の木の隣に埋葬された。墓標の代わりに、楡の木の苗が植えられた。これは、この村の習慣だった。

 植えられた楡の木の苗を見ていると、父との思い出がケヤキの胸に幾つとなく去来する。幼いころから、今に至るまで父は常に厳しくも優しい人だった。

 村の人はこれからは父はあの楡の木となって家族を見守ってくれるのだ、とケヤキを励ましてくれた。でも、俺はもう父上と狩りに行くこともできない、言葉を交わすこともできない。一人前の男になっても、それを認めてくれる父はもういない。そんな思いがケヤキの胸を一杯にした。

 父が亡くなったことを知ってから初めて、ケヤキは悲しいと感じた。胸に渦巻いていた憤りはどこかに去って、悲しみだけがあった。ケヤキは、人目もはばからず、堰を切ったように泣いた。そんな、ケヤキの姿を見て、イブキも声を上げて泣いていた。村人に慰められながらも、長い間二人は泣いていた。

 この時、初めてケヤキもイブキもニレの死に涙を流した。そうして、やっと二人は家族の死を受け入れることが出来たのだ。


 明くる日、ケヤキはいつもと同じ時間に起きて狩りに出た。父の死でできた心の傷は、葬儀を経ることでやっと直視できるようになった。この傷はずっと癒えないだろうし、まだまだ乾ききってもいなかったが、なにか自分の中で区切りがついたような気がした。

 父が亡くなっても、暮らしは続くのだ。日々の糧を得るためには、前を向くしかないとケヤキは思った。そして、この日からケヤキは父の銃を背に狩りに出るようになった。

 まだ、銃は完璧には扱えなかったが、何とか小さな鳥を射落とすことぐらいはできた。父上を超える狩人になるためにより一層精進することをケヤキは心に誓った。

この日狩りを終えると、ケヤキはヨシノの家に向かった。ヨシノは葬儀の準備を進んで手伝いに来てくれていたけれど、父の死に打ちひしがれていたケヤキは礼すら言えていなかった。

 ヨシノの家の畑に近づいていくと、こちらに気づいたヨシノが手を振ってくれた。ヨシノの表情はどことなく心配そうだった。こんな時だからこそヨシノには笑っていてもらいたいとケヤキは思った。

「その、昨日、手伝いに来てくれてありがとう。俺も母上も本当に助かった。ありがとう。」

「お礼なんていいよ。それよりも大丈夫なの?」

ケヤキの顔を覗き込むようにして、ヨシノは尋ねた。

「ああ。俺は大丈夫だよ。父上が亡くなって悲しいけれど、涙を流すのは昨日が最後だ。俺は大丈夫だ。」そう自分に言い聞かせるようにケヤキは答えた。

「そっか。」と答えてヨシノは少し笑った。


 この日を境にケヤキは、以前にも増して一人前の人間として認められることに執着した。父がいない今、母を、家を、暮らしを守っていくのは自分なのだと強く意識していた。

 今まで以上に熱心に狩りの修行をするようになったし、銃の扱いの訓練にも熱が入っていた。

 それに加えて、ケヤキは村人の男衆の会合にも顔を出すようになった。狩り人としてだけではなく、村に暮らす者として一人の男だと認められようとしていた。

 村の会合は大体月に一度、村長の家で行われた。真面目に話し合っている時間が半分、酒宴が半分という具合の会合ではあったが、これも一つの社交場であり、村の暮らしを円滑に進めていくための先人の知恵といえるのかもしれない。この会合には、村のそれぞれの家の家長が出席していた。家長たちは広間に通されて、車座に座っている。

 この会合では村にまつわるあらゆる事柄が相談されていた。例えば、村の川に新しく架ける橋はいつだれが建設するかとか、大雨に備えて川に堤を作った方が良いといった村の運営に関する話から、ウメばあさんのリウマチの具合が悪いらしいとか、新しく生まれた山羊の名前が決まらないといった井戸端会議のような話まで議題に上った。男たちは、こんなくだらない話でも酒を酌み交わしながら、さも重大事のようにうんうん頷いきながら話し合い、悦に浸っているのだった。

 ケヤキは父が夜会合に出かかけていく姿を見るたびに、きっとこの村の今後について夜更けまで語り合っているのだろうと思っていたが、なんのことはないオヤジどもの宴会だなというのが正直な感想だった。そういえば会合から帰ってきた父上の顔はいつも赤かったなと思ってケヤキはクスリと笑った。

 車座を囲う大人たちの顔が十分に赤くなったころに、村長はこの日の一番重要な議題について話し始めた。その議題というのは、毎年夏に行われる村祭りについてだった。

 この村祭りは豊作の祈願や村人の無病息災、恋愛成就に安産祈願と思いつく限りの願いを込めた願いのごった煮のような祭りである。とりあえず、村人の暮らしがよりよくなることを願うといったようないい加減な祭りではあったが、それでもそれなりに作法や伝統があるのである。

 祭りの差配は、村の男数人ずつが持ち回りで毎年行っていた。この祭りの差配をする男を決めようというのが、今夜の最も重要な議題であった。

 祭りの差配は、気苦労ばかり多くて祭りは楽しめないし、特に報酬があるわけではない。だから、男たちは皆出来ることならやりたくないとお互いに盛大に押し付け合うのだった。この話し合いで安心していられるのは、去年の村祭りの差配をした男たちだけである。

 ケヤキは何とはなしに居心地の悪さを感じた。周りでは、ガヤガヤとあいつはもう何年差配をしていないだとか、あいつは祭りに詳しいからあいつにやらせた方が良いだとかしきりに言い合いが行われている。

しかし、ケヤキは父を亡くしたばかりでまだ喪に服している。祭りにも参加をしないほうがいいだろう。そう思ったケヤキは、車座から少し離れた隅で、飲み慣れない酒を飲みながら話し合いの行く末を見守っていた。やっぱりまだ会合に出てくるのは早かったかもしれないとケヤキは思った。そんなケヤキの心中を見通すように、村長がすっとケヤキの隣に座った。

「祭りの差配を誰がするかを決めるところから祭りは始まっとんのや。なんでそんな浮かん顔しとるんや?」

「俺はまだ父の喪に服しています。喪中の人間は祭りには出ないほうがいいでしょう。」

そうケヤキが答えるや否や、村長はケヤキをぽかっと小突いた。

「そんなこと言うたらこんな小さい村で人が亡くなったらみんな喪中や。ここにいる男どもも儂もニレとはそんなに浅い仲ではない。そら馬の合わん奴もおったかも知らんけど、みんなそれぞれにあいつが逝ってもうたことを受け止めておる。それでも祭りには出るんや。それは、誰かを失のうても暮らしは続くし、続けていかなあかんからや。そりゃお前が気を遣うのもわかる。そやけど、儂らも儂らの神さんもそんなに狭量やないんやから、お前ばっかり気を揉んでてもいかん。」

「そういうものですか。」

「そういうもんや。別に悲しみを忘れろって言うてるわけやないし、お前が辛いんやったらかまへん。ほいでも、少しずつ立ち直って会合にも出てきた言うんやったら、祭りにも出たらいい。」

「わかりました。ありがとうございます。」

 ケヤキが村長に礼を言うと、村長は大変やと思うけど、がんばりやと言って男たちの輪の中に戻っていった。

 そうして村長が輪の中に戻るとすぐに輪になった男たちから歓声が上がった。押し付け合いに飽きたサカキが、差配を引き受けると宣言したのだ。

「まだるっこしい!今年の祭りは俺が仕切る!」サカキは高々と宣言した。

 厄介ごとが収まるべきところに収まると、男たちは杯に酒を注ぎ祝杯を挙げた。こうして今年も祭りが始まるのだ。


 会合があった次の週から早速祭りの準備は開始された。例年、祭りの準備は夏の盛りの頃に始まり秋になれば祭り本番である。

 今年の差配役となったサカキは助手としてケヤキを半強制的に指名した。なので、ケヤキは早速村中を縦横無尽に走り回ることになっている。とりあえず迅速に段取りを始めなくてはならないのは村の神に奉納する神楽だ。

 この村の神は白い毛並みを持ち、鹿の頭蓋骨を被った不思議な姿をしていると言い伝えられており、村人が神を軽んじれば怒り狂って村を滅ぼすという恐ろしい神として言い伝えられている。この神の不興を買わぬためにも、村の神楽の準備は万全にしておかなくてはならない。

 神楽を踊るのは、村の妙齢の娘と決まっており、神様が飽きぬように2年連続で同じ娘が神楽を舞うことは伝統的に禁じられていた。ここ数年は村で神楽のうまいと噂されていた2人の娘が交代で神楽の舞手を務めていたが、去年片方の娘はよその村に嫁に行ってしまい、もう片方の娘は昨年神楽の舞手を務めていた。その為、今年は新しい神楽の舞手をケヤキが見つけて来なくてはならなかった。

とはいえ、ケヤキが舞手を頼めるような娘はこの村に一人しか居なかった。

 雨で村人が皆休みの日に、ケヤキは幼馴染の隣人を訪ねて行った。戸口を叩くとちょうどヨシノが出てきたのでケヤキは要件を告げようとしたが咄嗟のことで言葉が出てこなかった。

「何か用事があったんじゃないの?」とヨシノに言われてやっとケヤキは話し始めた。

「ヨシノ、今度の村の祭りで神楽の舞手をやらないか。」

「え、なんで私?他の子もいるのに。」とヨシノはかなり驚いた様子だった。実際、この村にはヨシノの他にも神楽の舞手をやったことの無い妙齢の娘はたくさんおり、その全員が舞手をやりたがっていた。しかし、そんなことはケヤキの知るところではなかった。

「俺はお前が神楽を舞えばいいと思う。お前なら立派に役目を務められると思うから。」

そうヨシノに告げるケヤキの声には無意識に熱がこもっていた。

そんなケヤキの熱につられるように、ヨシノも「わかった。」と引き受けてしまっていた。

 ケヤキが帰った後、ヨシノは思い悩んでいた。 ケヤキは、目下の心配事が一つ解消されたことでほっとしていたが、引き受けたヨシノの心中は穏やかではなかった。

(確かに小さいころから舞台であんな風に綺麗に舞ってみたいと思っていたけれど、急に今年出番が回ってくるなんて……。)

(去年までの姉さんたちはあんなに綺麗に舞っていたけれど、私に舞えるのかな。)

 ぐるぐると心配事が頭の中を巡ったけれど、ヨシノは自らの両頬をパンパンとはたくと後ろ向きに考えることを止めようと決めた。そしてこの日からヨシノは時間を見つけては、舞の練習をするようになった。


 祭りの準備は進んでゆき、少しずつ祭りの段取りがまとまり始めていた。当初、勢いで引き受けたものの面倒くさがって大変な仕事をケヤキに押し付けていたサカキも段々と祭りの前の高揚感を感じ始め祭りの準備に精を出すようになっていた。

 ケヤキは村中を駆け回って祭りの段取りをつけていくうちに少しずつ村の大人たちの暮らし方を理解するようになっていた。父が生きていた頃は、狩りと家族の暮らしが生活の中心だったので村の人々と交わる時間をほとんど持たなかったが、村の大人たちと交わってみると伝わってくるのは、生きていくための強さだった。

 この村では、楽に生きることはできない。谷底の村はやはり貧しく、皆日々の糧を得るために働いていた。

 そんな村で行われる村祭りは、ハレの場として村人全員が重要な行事であると捉えている,村が来年も上手く回っていくためには、今年の村祭りがうまく行くことがなによりも重要なのである。そんな大切な祭りを取り仕切る重役を自分が担っていると思うと、ケヤキは誇らしさや村の生活に対する責任を胸に感じた。

 ケヤキは村祭りを必ず成功させると胸に誓った。


 村から夏の暑さが引いていき、秋の予感が少しずつしてくる時期になり、祭りの準備は終盤へと差しかかっていた。

神へと奉納する農作物や酒の手配も既に済み、残すところ後わずかとなっていた。

 父の葬儀からあまり時間は経っていなかったが、ケヤキはここしばらく父が亡くなってたことをあまり悲しまずに思い出すことができるようになっていた。日々の狩りに苦闘しながら、さらに合間に祭りの準備で頭をひねっているうちに後ろ向きな感情を持つ時間も無くなっていた。

「これはこれでいいのかもしれない。」とケヤキは思っていた。父のことは決して忘れはしないけれど、悲しみをいつまでも背負っていくことはできない。

 その日、ケヤキは祭りの準備の最終段階を詰めるために、早めに狩りを切り上げてサカキの家に打ち合わせに来ていた。祭りのために必要な項目を書き上げたものを、昨年の祭りの差配の担当をした村人から引き継いでいるので、それと現在の進捗状況を照らし合わせて確認をしていくと、やはりほとんどの仕事はやり終えていた。しかし、1つだけ重要な仕事がまだ残っている。神に奉納する花冠を準備しなくてはならない。村の祭りでは毎年神に花冠を奉納することになっていた。理由は、わからないがこの村の神は花冠を頭上に戴いた姿で描かれることが多いから、それでかもしれない。

 この花冠は使う花の種類や、編み方だけでなくどこの花を用いて作製するのかまで細かく決められていた。花を積む場所は、掟で禁じられた森の手前に流れる川の川べりである。この場所で、青い花だけを摘んで花冠を作らねばならない。

かなり道も険しい場所に赴く必要があるため、足の不自由なサカキではなくケヤキがこの仕事を引き受けることになった。

 花を摘みに行く日、ケヤキはいつもと同じ時刻に起きると冷たい水で身を清め、腹ごしらえをし、狩りで山に入る時と同じように身支度をして母に挨拶をしてから家を出た。山へと向かい歩くケヤキの足取りはふわふわとどこか落ち着かなかった。今日花を摘みに行く川べりは父が見つかった場所でもある。祭りの準備に集中することで目を逸らしていたが、ケヤキの中で父がどうしてあそこで亡くなっていたのかという疑問は解消されていなかった。

 いつも狩場にしている山を登り始め、段々と山の奥にケヤキは入って行った。夏の盛りは過ぎてはいたが、山をずっと登っていると段々と体が熱くなってきてケヤキの額には汗の玉が浮かんでいた。適当な杉の木に寄りかかってケヤキは少し休憩した。この辺りまでがケヤキが普段狩り場としている山だった。

「次の山を越えれば、川が見えて来るはずだ。」


ケヤキは腰を上げるとまた歩き出した。歩いていないと父の死因について余計なことを考えてしまいそうだった。父ニレの亡骸には傷もなく、溺死をしたようにも見えなかった。となれば、考えられるのは何かの病だろうか。そう考えれば合点は行くのかもしれないが、あれほど健康に暮らしていた父があの日急に命を落とすというのは考えにくかった。だとしたら、やはり父は禁じられた森で命を落としたのだろうか。だとすれば、あの森にはやはりおとぎ話で語られるような化け物がいて、父はその化け物に襲われてなす術もなく命を落としたのか。

 ケヤキは歩き出してからも自分が考えまいとしていたことを考えてしまっているのは分かっていたが、考えることをやめられなかった。答えの出ないことを考えることは好きではなかったが、捨て置けるほど小さな疑問ではなかった。考えている間もケヤキの足取りは緩まず、どんどんとあまり見慣れない山の中に入っていった。

 村の北の山を一つ越えた辺りからは、村の杣人も見回りはすれど木は切らない山になるので植生も村の近辺とは違ってきていた。人の手が入らない森では林冠が閉じて、薄暗かった。薄暗い森に怯まずに斜面を登り、尾根を過ぎて斜面を下ると目的の川べりはそこにあった。

 川幅はあまり広くなかったが、蛇行しながら流れるその川の周りには背丈の高い木が立っておらず、薄暗い森の中においてそこだけは日が差して明るかった。川のそばの野原には確かに、鮮やかな花が群生していた。

 けれど、最もケヤキの目を引いたのは対岸の禁じられた森の様子だった。対岸の森は今までケヤキが歩いてきた森とは明らかに違う異様な雰囲気をしていた。外からいくら林内を見通そうとしても、複雑に絡み合った木立が邪魔を見通すことができない。まるで誰かの意思が作用して、森に立ち入るものを拒むような拒絶の雰囲気が森から立ち上っていた。

「父はこの森の中に入ったのか。こんなにも人を拒んでいる森に?」

 ケヤキも川を越えてこの森に入り、父の死の謎を解き明かしたいと考えてはいた。しかし、禁じられた森の異様な雰囲気がその考えを実行に移すことが危険だとケヤキに明確に伝えていた。少なくとも父の死の謎を解くのは今日ではないと考えたケヤキは、本来の目的であった青い花を摘み始めた。

 鮮やかな花が不思議なほどにたくさん咲いている野原ではあったが青い花はそんなにたくさん咲いていない。花冠にするだけの花を集めようと思うと結構時間がかかった。

 そろそろ花も摘み終わろうかという時に、突然木々の枝が擦れ合う音や葉が風で鳴るような音が聞こえてきた。川向こうの禁じられた森の方からだ。つむじ風でも吹いたのかと思ったけれど、こちらに風は吹いてこなかった。そして、音はどんどんこちらに近づいている様子だ。獣かと思ってケヤキは背負っていた銃を下ろし、弾を込めた。

「父上を襲った化け物かもしれない。」と思うと、銃を構える手に汗が滲んだ。音の主はもうそこまで来ている。

 緊張が段々と高まってきて、ピンと張り詰めた糸のようにケヤキは身動きできなかった。そんなケヤキの眼前で不思議なことが起こった。

 生い茂る木々たちが一人でに枝を曲げて通り道を作っていくのである。風に吹かれたのでもなく木々たちは勝手に曲がっていく。まるで何かに忠誠を示すように。近づいてくる音の正体は、木々たちが通り道を作るために身を捩らせる音だったのだ。では、この通り道を通ってくるのはなんなのだろうか。

 ケヤキの視線は通り道の出口に張り付けられていた。何が出てくるのかを想像しようとしても、想像すらもできない恐ろしい存在が現れるような気がした。通り道を通ってこちらに向かう存在の姿は見えないが何かがこちらに向かっていることは確かだった。



 こちらに向かってくる何かは物音も立てず、木々たちの通り道を抜けてケヤキの前に姿を現した。ケヤキの目にまず飛び込んできたのは、雄鹿の頭骨だった。眼窩には眼球のようなものはなく、黒い虚空のようなものがのぞいているだけだが、それでも辺りを見回すような動作をしている。あの頭で物が見えているのだろうか。

 奇妙なのは頭だけではなかった。それは、真っ白い毛並みの肉体を持っていたが、その肉体はケヤキの見たことのある生き物とは様子が違っていた。前足は熊のようだが後ろ足は牛。肉を食う獣とも草を食う獣とも言い切れない体だ。背中には蔦が繁茂し、角には花が咲いている。これは何という名前の生き物なのだろう。

 異様な存在が目の前に現れたことで、ケヤキは咄嗟の判断ができないでいたが、少し落ち着いてくると自分が銃を構えていたことを思い出し、異様な生き物に向けて銃の狙いを定めた。撃つべきなのかはケヤキにはわからないが、安全な存在のようには見えなかった。少しでも危害を加えられそうだったら迷わず撃ち抜くために、引き金には既に指をかけていた。

「撃つべきか。撃たぬべきか。どっちだ。」

ケヤキは悩んだ。

 その間にも、異様な生き物はその巨体を揺らしながら、川辺に近づき水を飲みはじめた。あの頭でどうやって飲んでいるのかはわからないが、仕草は確実に水を飲むような仕草だった。ただのおかしな見た目の獣なのか?ならば、撃ってしまった方がいいのか?なかなか答えは出なかった。悩むケヤキの前で異様な生き物は、ケヤキなど見えていないかのように意に介さず水を飲み続けていたが、突然水を飲むのを止めて、ケヤキの方を真っ直ぐと見つめた。異様な生き物と目があったケヤキは、ハッと息を飲んだ。

 その生き物の目から伝わってくるのは、禁じられた森が持つ雰囲気と同じ拒絶だった。その目を見てケヤキは怯んでしまった。もうケヤキには撃つことは出来なかった。

 ケヤキが脱力したように銃を下ろすと、異様な生き物は通ってきた通り道を抜けて、禁じられた森の内側に帰っていった。そして、木々たちは元通りに通り道を閉し、もう禁じられた森がどうなっているかはわからなくなってしまった。

 ケヤキは放心したように禁じられた森を見つめていたが、日が落ちる前に村に帰らなくてはならないことを思い出し、来た道を戻って村への帰路を辿り始めた。道中、ケヤキはあの生き物がなんだったのかを考えていた。

「あれがおとぎ話で語られる化け物だろうか。確かにこちらから干渉すればどうなるかわからない危険さは感じた。けれど、邪悪な存在であるとも感じられなかった。」

 どうやって木々を動かしていたのかや、何故あんな姿をしているのかなど、気になる疑問は沢山あった。

「サカキ先生に聞けば、何かご存知だろうか?」

とりあえず、ケヤキは花冠の材料を届けるついでに、サカキに話を聞いてみることにした。

 ケヤキが村に戻る頃には日は沈みかけて辺りは暗くなっていた。ケヤキは急ぎ足でサカキの家を目指した。

「先生。いらっしゃいますか。先生。」

なんとなく気が急いていたケヤキは、サカキの返事も待たずに戸を開けてサカキの荒屋に上がり込んだ。

サカキは既に早めの晩酌を始めていたと見えて、既に顔にはうっすら赤みがさしていた。

「花を取ってきたのか?持ってくるのは明日でもよかったんだぞ。」

「花は取って来ました。その時、禁じられた森で妙な獣のようなものを見ました。先生はあれについて何かご存知ではないですか。」

「それはどんな姿をしていたのだ?」

ケヤキは自分が森で見た異様な生き物の姿や様子をサカキに語った。ケヤキの話を聞く間、サカキは時折鋭い目つきをしていたが、すぐにいつもののんべんだらりとした面相で表情を隠そうとしていた。しかし、サカキとは長い付き合いのケヤキには師匠が何か隠し事をしようとしていることはすぐに分かった。

「本当の事が聞きたくて参ったのです。あれはなんなのですか。」とケヤキは詰め寄った。

 ケヤキの真剣な目つきにさらされたサカキは、茶化して煙に巻いたり、誤魔化したりすることができないと悟ると、面相の擬態を解き真剣な表情で語り始めた。


「お前があの森で見たのは、森の王と呼ばれるものだ。生き物と呼べるような存在なのかどうかはわからない。森の王は時に獣であり、時に樹木や草花になる。どこで生まれるのかもわからぬし、いつ死ぬのかもわからない。ただ、確かなことは非常に危険な存在だということだ。」

「確かに私も出会った時には言いようのない危険さを感じました。けれど、邪悪な存在のようには感じられませんでした。森の王とは何のために存在しているのでしょうか。」

「森の王には人の持つ感情のようなものは存在しないと言われている。だから人を無闇に殺したりはしないだろう。しかし、森の王は森のためであればどんな生き物であっても殺してしまうんだ。森の王は、森の意思を遂行する存在であり、ある意味では森そのものと言えるのかもしれん。」

「森そのものですか。」

だから、あの森の王の目からは禁じられた森と同じ雰囲気が漂っていたのだろうか。

 ケヤキはなんとかサカキから語られた内容を飲み込んだ。あんな訳の分からないものが村の近くに棲んでいたというのは驚きだが、実際に目にした今では素直に信じることができた。しかし、ケヤキにはもうひとつ分からないことがあった。

「では、父は森の王に殺されたのですか。」とケヤキが問うとサカキは厳しい顔をして首を振った。

「その話は今夜はまだできない。祭りが終わったら、また俺を訪ねろ。その時には話してやる。」

サカキは、反駁を許さない口調でケヤキにそう告げると、もう何も語ってはくれなかった。サカキのこの答えは、父の死についてサカキが何か知っていると言っているのと同義だった。そう思うとケヤキは無理やりにでも、父の死の秘密を暴きたいと感じたが、一度口を閉ざしたサカキはいくら頼んでも何も語ってくれないだろう。やりきれない気持ちでケヤキは帰路についた。

 もうあと数日で村の祭りだった。ケヤキはその日家に帰るとどっと疲れが出てすぐに眠ってしまった。


 夜が明けると、ケヤキはいつものように支度をして狩りに向かった。森の様子は普段と変わらなかった。禁じられた森で感じたような拒絶も感じないけれど、特別受け入れられているとも感じなかった。森から意思のようなものを感じたのは禁じられた森が初めてだった。森の王が住まう森だからなのだろうか。森の王に受け入れられることができれば、禁じられた森に入ることもできるのだろうか。

 そこまで考えを巡らせたところで、ケヤキは自分が危険なことを考えていると気づいた。そもそもあの森に立ち入ることは村の掟で固く禁じられているし、あそこは強かった父が命を落とした場所だ。近寄らない方がいいに決まっている。

 この日ケヤキは一頭の雄鹿を撃った。父のように完璧に狙ったところを射抜くことは出来なかったが、半矢にならないように仕留めることができるようになってきた。ケヤキは少しずつ銃が手に馴染んできていると感じていた。

 仕留めた鹿の血抜きを済ませてケヤキは村に降りた。家に帰り、鹿を解体して肉を母に渡すとケヤキは家を出た。ヨシノ神楽を上手く舞えるようになったかが気がかりだった。半ば一方的に役目を押し付けるような形になってしまったことに責任も感じていた。俺が行っても助けにもなってやらないかもしれないが、俺は誰よりもヨシノのことを応援してやらなくてはならないんだ、とケヤキは思っていた。その思いは決して嘘ではなかったが、ケヤキにそう思わせているのは役目を押し付けた責任だけではないことをケヤキはまだ知らなかった。

 ヨシノの家に着いたものの、ヨシノはさっき家を出たところだとヨシノの母がケヤキに告げた。

ヨシノの家を探してみると、ヨシノはすぐに見つかった。村を流れる小川の川原で神楽の練習をしていた。ケヤキはヨシノが舞う姿を初めて見たが、楽しそうだと思った。ヨシノの舞の所作からは、踊れることの喜びや生きていることの喜びが溢れていると感じられた。ヨシノより上手く踊れる娘は他にもいたかもしれないけれど、ヨシノほど喜びをまとって踊る娘はいなかっただろう。ケヤキは、ヨシノに任せることができてよかったと心から思った。

 ケヤキは少し離れたところから、ヨシノが神楽を舞う様子を見ていた。神楽を舞うヨシノはとても綺麗だとケヤキは思った。いつまでも眺めていられそうだったけれど、眺めていることに気づかれるとなんだかとても恥ずかしい気がして、ケヤキはヨシノに声もかけずそっと家に帰った。ヨシノの舞を見ただけで、なんだか少しケヤキは満たされたような感覚がした。


 祭りの準備は全て終わった。手抜かりはあったかもしれない。でも、もう間に合わない。祭りが始まるのだ。

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