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森の王  作者: 鳥居川礼二郎
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一章 村の掟

 その村は森深い山々の谷底にあった。街で暮らせなくなった者や、自然の中で生きることを望んだものが一軒また一軒と家を建てていくうちに人々が寄り集まって暮らすようになり、そこは村となった。

 その谷底の村で暮らす者の多くは、森に入って木を切り出す杣人だった。その他の者は、谷底の狭い土地で農作をするもの、街との交易を行う商人、椀を作っては街から街へ売り歩く木地師、森の獣を狩る狩り人などが暮らしていた。

 

 ケヤキは、この村で生まれた青年だった。父ニレと母イブキと共に村で暮らしていた。歳は18で、昨年の春に成人の儀を終えたばかりだった。ケヤキは背が高く、その肉体はしなやかでよく鍛えられていた。髪は黒く、成人の儀の時に短く刈り揃えていた。

 ケヤキはニレと毎日森に入った。獣たちを狩るためだ。ケヤキは15の時から父について森に入るようになっていた。まだまだ見習いではあったが、ニレは森に入るとケヤキのことを子どもとしてではなく狩り人として扱った。ケヤキはニレの背中を追いながら、一人前の狩り人を目指していた。


 ある春の日に、ケヤキとニレは連れ立って森に狩りに出ていた。父のニレは長年愛用している無骨な銃を肩に担いでいる。ケヤキは弓と矢を背に担いでいた。

 ニレの銃は大変珍しい物だった。この村の狩り人の中でも、銃を用いて獣を狩るのはニレとその友人のサカキだけだった。ケヤキは父の持つ銃に憧れていたが、父は撃つことは愚か、触れることすら許してくれなかった。

 ケヤキは、眼前で揺れる父の背中の銃を目で追いながら黙々と森を歩いた。足元には羊歯が茂っていて、足を踏み出すたびにざわざわと音を立てていた。

 斜面の上まで登りきると、父は振り返った。

「この辺りで鹿を撃つぞ。」

 そう言って父は銃を下ろすと、銃に弾を込めた。ケヤキも、弓を下ろし左手に携えた。銃を手にした途端に、父が静かに集中していくことをケヤキは知っていた。

 ニレは一本の獣道を慎重に辿っていく、ケヤキはその後ろを静かに歩く。ニレは落ち葉やぬかるみから獣の痕跡を拾っていき、獣の行動を手に取るように把握していった。ケヤキも同じように獣の痕跡を見つけようとはするが、ニレのように細かな痕跡まで拾うことは出来なかった。

 痕跡を辿りながら獣道を歩いていくと、少しずつ獣の居場所を推測していく。ニレが言うには、若い雌の鹿らしい。ケヤキにはとてもそこまではわからない。

「このまま行けば水場に出る。もしかしたら、そこで水を飲んでいるかもしれん。」

そう言って、ニレはどんどん森の奥に入っていく。置いて行かれぬようにケヤキも後に続いた。

 水場の入り口の付近まで行くとニレは足を止め、ケヤキに物音を立てるなと合図をした。ニレの見つめる先には一頭の鹿が水を飲んでいた。まだ人の気配に気づいた様子はなかった。

 ニレは銃を構えると、片目をつぶり、呼吸を止めて狙いをつけた。ズドンと低い音が森の中で反響した。

 弾は雌の鹿の眉間から後頭部に抜けていた。ニレとケヤキは獲物を回収するために、鹿に近づいていく。その時、茂みの奥から若い小鹿が飛び出していくのが見えた。ケヤキは急いで矢をつがえて、小鹿を狙う。弓を引き絞り、まさに放とうとしていたその瞬間に、ニレが止せとケヤキを諫めた。反論を許さない厳しい口調だった。ケヤキの視界の端には、逃げていく小鹿の尻の白い毛並みがちらついていた。

 森で血抜きを済ませると、鹿を担いで森から下りた。獲れた獲物を下ろすのは、ケヤキの仕事だ。

 ニレは村への帰路で、ケヤキにぽつりと話しかけた。

「お前は、さっき私が何故小鹿を射ることを止めたかわかるか?」

「あの小鹿が幼くて残酷だったからでしょうか?」

「違う。あの小鹿がまだ育っていなかったからだ。私たちは今日鹿を一頭撃ったのに、その上にまだ成獣にもなっていない鹿も撃ってしまったら、獲りすぎになる。」

「獲りすぎですか。」

「そうだ。森の恵みには、限りがある。その恵みは尊いものだが、決して量は多くない。我々狩り人が少し欲をかけば、尽きてしまうような量しかないのだ。だから、狩り人は掟で自らを戒める。そのおかげで、この森で今日も狩りが出来るというものだ。」

この言葉には、ケヤキは言葉を返せなかった。功を焦って小鹿を射ろうとした自らを恥じていた。

「生きていくのに必要な分だけを殺し、獲る。これも狩り人の掟の一つだ。覚えておきなさい。」

父の言葉に無言でうなずくと、ケヤキは黙々と村への帰り道を歩いた。

村へと下りてくる頃には、空は茜色に染まっている。田畑の間を抜けていくと畑仕事をしている人影がこちらに手を振っている。ケヤキとニレは笑顔で手を振り返す。小さく弱いこの村では人々は互いに少しずつ寄り掛かりあいながら暮らしている。大きな一つの家族のような小さな村なのだ。

 田畑の間を抜けていくとニレとケヤキの暮らす家が見えてくる。茅で屋根を葺いた小さな家だけれど、3人家族には十分すぎるくらい広い家だ。家の庭先には欅の木が生えている。ケヤキが生まれたときに植えたものだ。ニレの故郷では子どもが産まれると、草木の名を付け、庭先に子どもの名前の木を植える習慣があるそうだ。ケヤキが生まれた時に植えられたその欅はまだ枝ぶりも幹の太さも頼りなかったが、この欅が立派な欅になるころには、自分も父のような一人前の狩り人になれているだろうかとケヤキはいつも思っていた。

 ケヤキとニレが家の門をくぐると、イブキは土間で米を炊いているところだった。

「おかえりなさい。もうすぐ支度ができるわ。」

「ただいま。今日は雌の鹿が一頭獲れたよ、母上。」

母にそう告げると、ケヤキはそのまま鹿の解体を始める。獲物の解体もケヤキの仕事だった。

 宙づりにした鹿の皮を剥ぎ、骨を外して、肉を部位ごとに分けていく。さっきまで生きていた獣が段々食物になっていくその感覚は何度経験してもどこか不思議だった。

 獲物を解体し終える頃に、ちょうど母が食事が出来たとケヤキのことを呼んでいるので、家に入り食卓についた。囲炉裏には鍋が火にかかっており、山鳥や村で取れた野菜が煮込まれていた。

 疲れて腹を空かしていたケヤキは凄まじい勢いで夕食を平らげた。夕食を平らげると風呂に入り、道具の手入れをして翌日の狩りに備える。これがニレとケヤキの習慣だった。

 ケヤキは毎晩森で使った山刀を研いでいる。そして、ニレは毎晩、銃を分解して清掃しているのだった。この手入れの時間は親子にとっての交流の時間でもあった。森の中の師弟関係を忘れて、この時間は父は父として子は子として互いに接した。

「ケヤキ、お前もずいぶん弓が上達したな。もう18になるのだものな。」そう言うとニレははにかんで笑った。

息子を素直に褒めるのが照れくさいらしい。

「ありがとうございます。」とケヤキは返す。父に褒められるなんて珍しいこともあるものだとは思ったが、尊敬する父に弓の腕を認められたのが素直に嬉しかった。

「私はそろそろお前も1人で森に入って狩りをしてもいいと思っている。私の背中を見てばかりでは育たないものもあるからな。」

「そんな…。俺はまだ父上から学びたいことがたくさんあります。」

「何も明日から一人で森に入れと言っているのでは無い。ただ、何かあったときのためにも一人で狩りをすることに慣れておいた方が良いだろうということだ。」

「わかりました……。」

「まあ、もうしばらくのうちはまだ私について修行しなさい。ただ、お前も今後一人で森に入ることになるだろうから、あの掟は知っておいた方がいいだろう。しっかり聞きなさい。」

そう語るニレからは尋常ならざる気迫を感じた。

ケヤキは研いでいた山刀を脇に置くと、父に正対して正座した。

「今から教えるのは、狩り人である以前にこの村で暮らす一員として守らねばならない掟だ。この掟を破ったものの命は保証されない。」

そう語る父の目はケヤキではなく、部屋の中空を睨みつけるような目で見つめていた。

「その掟とはなんなのですか?」

「その掟というのは、北の山を二つ越えた先にある森には立ち入ってはならぬ、というものだ。北の山を二つ超えた所には東西に川が流れている。この川の対岸の森には入ってはならぬことになっている。なにがあってもこの掟は破るな。」

「なぜ、そのような掟があるのでしょうか?」

「それをお前が知る必要はない。この掟に従えぬ者は村にはいられない。肝に銘じておけ。」

父はそう言い終えると、銃の手入れを終え、寝室に引っ込んでしまった。

 ケヤキは寝室で床に就いてからも、天井を見つめながら父の語った村の掟のことを考えていた。なぜこんな掟がこの村に存在するのか?掟を破ればどうなるのか?なぜ父は成人するまで自分にこの掟を教えなかったのだろうか?尽きぬ疑問と想像がケヤキの頭の中を巡っていたが、しまいには考えるのに飽いて眠ってしまった。ケヤキは考えても仕方のないことを考えるのは好きではなかった。

 明くる日もケヤキは父と狩りに出た。この日は大きな獲物ではなく鳥を狙っていた。ニレとケヤキで合わせて何羽かのキジバトを射ると早めに狩りを切り上げて、村に帰った。

 家につくとケヤキは急いでキジバトの羽を毟り、内臓を取り出す。それが済むと、帰ってきたばかりだというのにケヤキは家から飛び出して隣の家に向かった。

 ケヤキの隣の家にはケヤキと同じ年の村の娘がいた。名はヨシノという。ヨシノもケヤキと同じように父と母と三人で暮らしていた。

 ヨシノの家に着いて、戸を叩いてみるが返事はなかった。家族総出で畑に出ているらしい。もうそろそろ日も落ちるし、帰ってくる時刻だとは思うが、ケヤキも夕食までには家に帰らなくてはならない。なので、そのまま家の表の方に広がるこの家の畑にヨシノを探しに行った。

 まだ小さい頃はこの畑でヨシノと二人でよく遊ばせてもらっていたなとケヤキはふと思い出して懐かしい気持ちになっていた。村のはずれの辺りには子供が少なく、ケヤキにはヨシノ以外に遊び相手がいなかった。ヨシノは幼いころケヤキよりも背が高く、勝気な性格をしていたので、女の子の友達というよりは男友達にちかい遊びをしていた。朝の早い時間から外に出て一日中田畑や野山を駆けずり回って遊んでいたものだった。

 ケヤキが思い出に浸りながら歩いていると、奥の畑でヨシノが農具をまとめているのが見えた。ケヤキが手を振ると、ヨシノも手を振り返してきた。

 ヨシノはケヤキと遊んでいたころは髪を短めに切り揃えていたけれど、ケヤキが山に入るようになったころに髪を伸ばし始めて、今では胸のあたりまで艶やかな髪が伸びていた。ヨシノの髪は茶色がかった色をしていて、夕日の下で見るととても綺麗な色だなとケヤキは思った。

 あ、まただ、とケヤキは思った。この頃、ヨシノのことを考えるとすぐに思考が脱線してしまう。会って話すと、幼馴染のはずなのに驚くほどぎくしゃくした会話をしてしまうことがあった。そして、たいていそういことがあった後は、言いようのないざわざわしたものを飲み込んだような心地がケヤキを襲った。

これが何故なのかを半分ケヤキは気づいていたが、無意識にあまり深く考えないようにしていた。

 ケヤキがヨシノの元を訪ねたのは、昨夜父が話していた村の掟について何か知っていることはないかと尋ねるためだった。

「今日はもう仕事は終わり?」とケヤキはヨシノに話しかけた。

「うん、もう暗くなっちゃうからね。今日は狩りはお休みだったの?この時間に会いに来るの珍しいね。」

「今日はキジバトを獲っただけだから、始末も早く済んだんだ。なぁ、ヨシノはこの村の掟って知ってるか?」

「この村の掟って、北の山の奥の奥の森には入っちゃいけないっていうやつ?そりゃあこの村に住んでる人なら親から嫌というほど聞かされてるでしょう。」

「ヨシノはずっと知っていたのか?」ケヤキは驚いて尋ねた。

「そりゃあ、小さいころ寝物語とかで母さんとかがよく聞かせてくれたものあの森に棲んでる化け物の話。」

「化け物?あの森には化け物が出るのか?」

「いやいや、ただのおとぎ話でしょう。この村から遠くに子どもが勝手に行かないようにっいうための。」

ヨシノはケタケタ笑っていた。ケヤキが冗談を言っていると捉えたようだ。

「俺はその掟の話を昨日父上から初めて聞かされたんだ。どうしてだろう?」

「ケヤキが小さい頃はニレさんも知らなかったんじゃない?ニレさんは街の出身でしょう?」

「確かに父上は街の出身だけれど、母上はこの村で生まれた以上そのおとぎ話は知っていただろう。それでも俺に聞かせなかったのには、なにか訳があるのかもしれない。それに、そんなおとぎ話を俺が成人してから、俺に聞かせるのもおかしな話だ。昨日、掟について話してる父上は見たことがないくらい鋭い目をしていた。とてもおとぎ話やなにかの冗談には思えない。」

「確かにニレさんがそういう冗談を言うとは思えないわね。」

「ちなみに、そのおとぎ話というのはどんな話なんだ?」

「なんでもない話よ。村人が入ってはいけない森に入って、化け物に食べられておしまい。」

「その化け物っていうのはどんなものなのだ?」

「化け物はただ化け物なんじゃないかしら。おとぎ話に出で来る物だもの、実在はしないわ。」

「ヨシノはその入ってはいけないと言われている森に入ったことはあるのか?」

「ううん、ないよ。子どもを脅かすためのものだとは思うけど、一応掟は掟だしね。」

「そうか……。ありがとう。」

「ニレさんに直接聞いてみたほうがいいんじゃない?悩んでいても答えは出なさそうよ。」

ケヤキは確かにその通りだと思った。ヨシノは昔から竹を割ったようにはっきりした性格だった。大きくなって、見た目はだいぶ変わったけれどこういうところは昔のままだなとケヤキは思った。ヨシノはケヤキと遊んでいたころは日に焼けて黒っぽい肌をしていたが、大人になると日に焼けるのを避けるようになりきめの細かいしろいはだになっているなとケヤキはぼーっと考えていた。

 どうしたの?とヨシノに言われて、ケヤキはまた思考が脱線していたことに気づいた。気づくと辺りも暗くなってきてそろそろ夕食の時間だった。ケヤキはヨシノが農具を家まで運ぶのを手伝って、急いで家まで駆けて帰った。

 帰る途中、ケヤキはやはり村の掟について考えていた。あまり考えても仕方がないと思ったが、ケヤキはぐるぐると思考を巡らせるのを止められなかった。どうして父は今になって俺にあんなおとぎ話のような村の掟を教えたのだろう。どうしてその森には入ってはいけないのだろう?ヨシノに尋ねたことで、わかったこともあったけれど、結果として謎はさらに膨れ上がったような気がした。

 ケヤキは、ツツジが夕食の支度をちょうど終える頃にはなんとか家に着いた。今夜は今日獲れたばかりのキジバトが食卓に上がっていた。

 食事を食べ終えると、日課の道具の手入れだ。いつもと同じく父も銃の手入れをしている。ケヤキはこの時、抱えている疑問を父にぶつけてみた。

「父上、今日ヨシノのところに行って村の掟について少し話をしました。この村には、村の掟についてのおとぎ話があるというのですが、父上は知っていますか?」

「ああ。知っているとも。」

「俺は何故そのおとぎ話を聞かされなかったのですか?」

「この村の人々の多くは、村の掟を守ってはいるがその訳は知らない。あの森に化け物が出るというのも、単なるおとぎ話に過ぎないと思っている。だが、あの話は単なるおとぎ話などではない。お前には、この村の掟をおとぎ話に付随する単なる飾りだと思って欲しくなかった。だから、お前が幼い時その話は聞かせなかったのだ。」

「では、あの森には本当に化け物が存在するのですか?」

「化け物とはまた違うが、あの森には危険な存在がいることは確かだ。」

「それはなんなのですか?父上はそれに遭遇したことがあるのですか?」

「その話はお前が一人前になったら、全て話してやる。今は己の修行に集中しなさい。」

この日の会話はこれでおしまいだった。

 夜、横になりながらケヤキは思った。何故自分が村の掟を知らされていないのかわかってよかった。父が他の村人に比べてとてつもなく重大なこととして村の掟をとらえていることと、父が語った禁じられて森の危険な存在というのは少し気にはかかったが、父の言う通り今は修行に集中することに決めた。案外、危険な存在というのもとても大ききて凶暴な熊とかだったりするかもしれない。

 そう考えるとケヤキは満足して眠ってしまった。

 朝起きるともう父は家から出ていた。父が獲物から獲れた毛皮を街に売りに行く日だったので今日は狩りは休みだ。ケヤキは支度を済ませると家を出た。

 向かう先は村の中心に流れる川沿いの通りだ。この通りはこの村で唯一通りと呼べるくらい整備された通りで、この村で唯一石畳で舗装されていた。この通り沿いには、この村で唯一の商店があったりする。ただ、ケヤキの目的は買い物ではなく、修行だった。この通り沿いには、父ニレの古い友人サカキがあばら屋のような家に一人で住んでいる。

 ケヤキは狩りが休みの日には、サカキの家を訪ねて、勉学であったり、狩り人としての知恵であったりを教わりに行っていた。

 サカキも元は狩り人でケヤキが生まれてからもしばらくはニレと二人で森に入っていたようだが、もともと痛めていた足が悪くなったとかでここ数年は毎日狩りに出るのは控えていた。サカキ曰く今でも一日や二日狩りに出たところでどうとでもないが、毎日森に入るとなるとすこし厳しいらしかった。

 狩りで飯を食うのを止めたサカキは、村の狩り人に卸す罠の仕掛けを作ったり、渓流で釣りをしてみたり、寺子屋のまねごとをしてみたりとなんだかんだで生計を立てているらしかった。

 この日も、ケヤキは特に断りもなくあばら屋の戸を勝手に開けると、徳利の数本転がった板の間でサカキはまだいびきをかいていた。

「先生、ケヤキが参りました。」と声をかけるとむにゃむにゃと返事はするが、一向に起きる気配はない。そこで、ケヤキは井戸まで行って水を汲んでくるとサカキの頭から思い切り水をぶっかけた。これもよくあることであった。

 水をかけるとサカキは目が冴えたのか、怒るでもなくのそのそと奥に引っ込んでいって濡れた着物を着換えると、そのままこの日の講義が始まった。

 講義といってもその日何を教えるかをサカキが決めるのではなく、ケヤキが気になることや知りたいことをサカキに一方的に質問しているというのが実態だった。

 もう村の掟について考えこむのはやめようと思っていたケヤキはこの日は銃の扱いについて教えてもらうことにした。ケヤキは、いずれは父の銃を受け継いで狩りをするようになれればよいと考えていた。

 サカキはニレと故郷を同じくする間柄で、同じ師について狩りを身に着けたらしい。銃も師匠から賜ったもので、サカキとニレは全く同じ型の銃を使っていた。同じ銃を使う二人は腕前も拮抗しており、サカキはニレに勝るとも劣らない銃の名手だった。

 この日の銃の訓練はあばら家の裏で何馬身か先に立てた木製の的を射抜くというものだった。銃の扱いにまだ十分に慣れていないケヤキはなかなか的に命中させることが出来ない。ケヤキが狙いを外すたびにサカキは縁側に寝ころびながら、ニヤニヤと笑っていた。

 悪戦苦闘するケヤキの脇にサカキがつかつかと歩み出ると、ケヤキから銃を受け取ると滑らかな動きで構え、撃った。一連の動作に無駄がなかった。弾丸は的の中心を射抜いていた。

「森の中で動く的に当てようと思うなら、これくらいは出来ねばなるまい。」

そう言うとサカキはまた縁側に寝転がり、本格的に昼寝を始めた。

 ケヤキは、サカキを起こしてコツを教えてくれなどと言っても教えてくれるわけがないことを重々承知していた。狩り人の世界では、見て学べない者は食っていけない。

 結局、この日ケヤキは陽が落ちて的が見えなくなるまで練習を続けた。サカキのようにど真ん中に命中させるとはいかなかったが、的の枠を捉えられるようになってきていた。ケヤキは確かな手ごたえを得ていたが、その手ごたえを得るために費やした装薬の数も半端ではなかった。

「今度ニレに会った時、球薬代は請求しておくぞ。」とサカキは苦笑しながら言っていた。

 サカキに礼を言うと、ケヤキは急いで家へと帰った。父がいない間、母と家を守るのもケヤキの大切な仕事だった。

 家に帰ると、ケヤキは母と二人で食事を済ませた。父が街に行けば、早くても3日は家に帰らないのでその間は少し寂しい食卓で食事を摂らねばならなかった。

 母は、食事が終わると針仕事に精を出していたが、ケヤキには特にすることがなかった。もう寝てしまってもいいのだが、ケヤキは眠る気にはなれず家を出た。

 灯りを持たずとも、星明りが足元を十分に照らしてくれた。

「そうか、今日は新月か。」と何とはなしに呟いた。なんだか胸騒ぎのする夜だった。

 父上はいつ帰ってくるのだろうか、街では毛皮は高く売れただろうか。街に行くと父は必ずツツジとケヤキに土産を買ってきてくれた。今回の土産はなんだろうか。

 ケヤキはそのまま星空を眺めていた。星空を見上げるのにも飽いて、家に帰ろうかと思った時星が流れた。凶兆でなければ良いとケヤキは思った。


 その日から、ニレは村には帰らなかった――。

 


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