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森の王  作者: 鳥居川礼二郎
1/3

プロローグ

 気が付くと私は宿り木の姿をしていた。水楢の木に取りついて生きていた。私の最初にいた森は、陽の光のよく当たる森だった。私は、どこからきたのかもわからずにただ生きていた。私はこの世界のことを何一つ知らなかった。

 私の取りついていた水楢は、私の命を吸われているというのに、私に本当によくしてくれた。何もわからない私に、森のことを一つ一つ教えてくれた。

 私は、森に生きる木の名前や草花の名前を最初に覚え、次に虫たちの名前を覚えた。虫の名前を覚えると、今度は虫を食べる鳥たちの名前を覚えた。鳥たちの名前を覚えると、今度は森に生きる獣たちの名前を覚えた。水楢は、さらに木や草と共に暮らすキノコやコケのことも私の教えてくれた。

 山に生きる者たちの名前をあらかた覚えてしまった私は、水楢に尋ねた。

「私は、なんの生き物なのか?」

水楢は

「お前は、今宿り木の姿をしている。だが、お前は宿り木であって、宿り木ではない。お前の命にはまだ名がない。」と答えた。

私は、自分が何なのかわからなかった。名前の無い命として私は生きなくてはならなかった。

 私はやがて、花を咲かせた。冬になれば、果実が実った。果実が実ると、山鳥がそれを食べに来た。山鳥が私の果実をついばんだ瞬間に、山鳥の嘴は私の果実と溶け合うように一つになった。嘴が溶け合うと頭、胴、足の順にどんどんと溶け合って一つになった。羽毛の最後の一片まで私の体と溶け合うと、私は山鳥の姿になっていた。私は、山鳥を食べたのだと自然と理解することが出来た。私の命の中に、山鳥の命が取り込まれたのだ。

 山鳥になった私に水楢は言った。

「お前は、この山を出ていけ。お前は、山から山へ、森から森へと彷徨わなくてはならない。お前の命はそういう命だ。」

 私はこの水楢の言葉に従った。私は自分が何なのかを明らかにしなくてはならないと感じていた。この山にこれ以上いても答えは出ないだろう。そう思った私は水楢に別れを告げると、自分の翼を確かめて、空に向かって羽ばたいた。

 飛び方は、私の食べた山鳥が知っていた。

 山鳥の姿になった私は、元居た山を離れ別の森へと向かった。私のたどり着いた森は、薄暗く大きな木が空を占める鬱蒼とした森だった。私はその森で山鳥として暮らすことにした。山鳥を食べて取り込んだ私は不思議なことに、鳥たちの掟を知っていた。縄張りや危険な生き物、食べてもいい果実に食べてはいけない果実。住処の作り方や子供の作り方も自然と理解していた。食べた山鳥の血肉が文字通り私を作っていたのだろう。

 私は、その森で様々な生き物を取り込んだ。宿り木の姿の頃とは違い、私には山鳥の口があったがやはり口から命を食べることはできなかった。私は、触れた生き物と溶け合い一つになることで、生き物たちの命を食らっていった。そして、様々なことを理解していった。

 虫を食らえば、虫の生き方を理解した。鼠を食らえば、鼠のずる賢さを覚えた。小鳥を食らえば、小鳥のさえずるような歌声が出せるようになった。

 私は、こうして小さな命を食らい、取り込みながら、水楢が私に告げたように山から山へ、森から森へと渡った。山鳥の姿で空を渡り、鼠の姿で草むらを駈けた。命を取り込めば取り込むほどに、私は森の命への理解を深めていったが、私が何者なのかという答えは出なかった。

 ある時、私は鼠の姿で森を歩いていた。唐檜の種子が芽吹いているのを見つけた私は、芽吹いた唐檜を取り込み唐檜の芽吹きの姿になると、その場でじっと動かなかった。少し考える時間が欲しかったのだ。

 私は何のために生きるのだろうか?森の生き物はみな生きる意味を知っているようだった。少なくとも、私のように生きる意味を自問している者は誰もいなかった。それとも、私はまだ幼いが故に、私自身の命の意味を知らないのだろうか?これから今以上に数多の命を食らえば、自ずとわかるものなのだろうか?

 唐檜の姿の私は、深く深く考え込み、季節の移ろいに注意を払うことすらしなかった。夏の暑さも冬の寒さも、気が付けば過ぎ去っていた。

 私は私の隣に立つ檜の木に命の意味を問うこともあった。

「檜はなぜ生きるのか?なんのために生きるのか?」と。

「私は生を受けたから、生きている。そして、新たな生を育むために生きるのだ。」と檜は答えた。

その答えは、私の予想していたものとほとんど違わなかった。確かに、命は新たな命を育むために存在していると感じられる瞬間は今までにもあった。だが、私の命にもそれが当てはまるのかと言うと、それは違うのではないか、と私は思う。私は今も宿り木にも、山鳥にも、虫にもなることはできるが、決定的にこれらの生き物とは違う生き物だった。私の他に同じ生き物がいるのだろうか?私は見たことがない。

 それからも私は、悶々と考え続けた。気づくと私の梢は林冠に達していた。隣に立っていた檜は、何年か前に立ち枯れてしまっていたようだ。これほどに長い時間をかけて考えても、やはり私の納得する答えは私の中にはなかった。私の中に答えがないとするならば、私はやはり答えを探しに行かなくてはならなかった。

 私は、今度はうんと遠くの森まで渡ろうと決めた。私のまだ見ぬ森にしか、私の求める答えは無いような気がしたからだ。森を渡ると決めた私は唐檜の姿を止めた。


 季節は、春になっていた。森を覆っていた雪もすでに解け、獣たちも冬の眠りからすでに目を覚ましていた。

 私は、大きな雄の猪に姿を変えた。この猪は、前の冬に唐檜の私の根元に寄り掛かった猪だ。この猪を取り込んだ私は、不思議な違和感を覚えた。

 この猪の記憶には、私の知らぬ生き物が記憶されていた。その生き物は、私の知るどの生き物とも違う異形をしていた。上半身は老獪な大きな猿のような生き物の姿をしているが、下半身は月のように銀色の鱗に包まれた巨大な蛇の姿をしていた。大猿の腰は曲がり、その背中にはおおきな茸や季節外れの花が生えていた。大猿の体は体毛で覆われている部分もあれば、樹木の木目がむき出しになっているような部分もあった。

 この生き物は、雪の降りこめた木立の中を、ヘビのようにするするとすり抜けて行くさまを猪は記憶していた。この生き物は、少し私に似ているような気がした。私は、取り込んだ生き物そのままの姿になるが、草木にも獣にもなることができる。この生き物の体も草木と獣が合わさったような姿をしていた。草木と獣の姿を併せ持つ生き物は、私とこの生き物以外には見たことも聞いたこともなかった。この生き物ならば、私という生き物についても何か知っているかもしれない。

 私は、この奇妙な生き物に会いに行かなくてはならないと思った。

 私は雄猪の記憶を頼りに森を渡り、あの生き物のいたらしい森へと向かった。雄猪は東の方角から、私の元へとたどり着いたようだが、あの生き物のいた森から私のいた森まではかなりの距離があったようだ。猪の旅の記憶は長く、困難な場面にも何度も遭遇していたようだった。私も猪の足で東を目指したが、その道中は長くいくつ山を越えたのかもわからなかった。

 もしかしたら、あの生き物は私のように森を渡る生き物かもしれない。もしそうなら、猪の出会った森にあの生き物がいる保証はなかった。私はあの生き物がどこかに行く前に、遥か東の森へとたどり着こうと渡りを急いだ。

 私はその後も獣道をたどり続けて、遂にあと一つ山を越えればあの奇妙な生き物のいる東の森だという所までたどり着いた。雪解けの時期に歩み始めた旅路だったが、足を止めた頃には新緑に季節になっていた。

 新緑の森を抜けて、あの生き物のいたらしき東の森へと足を踏み入れた。あの生き物を探さねばならないと思って探索を始めた私はすぐにこの森の異様さに気づいた。この森では、まるで外からの来訪者を拒むように外周には茨の木たちが密生していた。

 私は、茨たちに話しかけた。そうでもしなければ猪の体では通り抜けられる穴もなかった。

「私は、西の方角からこの森を目指して旅をしてきた者だ。この森のある者に用があって参った。ここを通してはくれないだろうか?」と茨たちに告げると、

「お待ち申し上げておりました。森の王よ。」と茨たちは答えた。

森の王?私のことなのだろうか?まるで、私のことを知っているかのように、この森の茨たちは私のことを森の王と呼んだ。私は自分のことをなにか名前で呼ばれるという経験を初めてしたのでなんだか落ち着かない気分だった。

「お前たちは、私のことを以前から知っていたのか?森の王とはなんだ?」と私は樹木たちに尋ねた。

「いいえ。貴方様には今日初めてお目にかかります。ただ、この森の王より貴方様がこの森をご来訪されることは伝えられておりましたので、貴方様のことは存じ上げております。森の王とは、貴方様のことにございます。」

「その森の王とは何なのだ?なぜ私のことも森の王と呼ぶ?」

「それは直接この森の王にお尋ねになられたほうがよいでしょう。森の王はこの森の奥にいらっしゃいます。どうぞお進みください。」

茨たちは、そう答えると、体をよけて私の通れる道を作ってくれた。

 茨たちの道を抜けて、森の中に入った。森の内部もやはり、私が今まで見てきた山や森とは少し違うようだった。森の下層には私の見たことの無い茸が育ち、名も知らぬ虫たちが闊歩していた。樹木たちの樹種も様々で、低木のものもあれば見上げても梢の見えないとても背の高いものもあった。森の階層構造はとても複雑に折り重なっており、様々な生き物が自由に暮らしていた。この森は、まるで森自体が呼吸をするように刻一刻と変化し、一つの生き物のように全体が結びついて存在していた。

 私が感心しながら森を見まわしていると、私の足元で苔の塊が一つ光った。何事かと思い、足元を見つめていると、その先でも一つ苔の塊が光った。私が次に光った苔に近づいていくと、その先でまた一つ光が灯る。その先に進むと、また一つ。さらに進むと、また一つというように、光る苔が生み出されていった。これも、先ほど茨たちが言っていた森の王とやらの仕業だろう。ということは、これは道しるべのつもりなのだろうか?私は、とりあえず足元の光る苔たちを辿っていった。

 光の苔が途切れるところまで行くと、不思議な円形の土地に出た。森の中だというのに、その土地の地面は緑に覆われておらず、砂利が敷かれていた。大地が円形に露出し、周囲の緑に縁どられているようだった。虫や山鳥たちもこの土地には近づかないようだった。円形の大地の中央には一本の欅の大木が枝を広げて立っていた。日光の燦燦と差し込むその空間は、森の中の喧騒とも無縁の場所だった。

 私は、おずおずと円形の大地の中心へと進んでいった。不思議な静けさに包まれたその空間には、猪の私が踏む砂利の音だけが聞こえていた。

 欅の木陰で足を止めると、私はこの森の王とやらが現れるのを待った。場の雰囲気も相まってか、私は少し緊張していた。

 しばらく待っても森の王と呼ばれているあの生き物は現れなかった。業を煮やした私は、円形の大地を右往左往していた。

 右往左往するのにも飽いて、再び欅の木陰に腰を下ろした時に、あの生き物は現れた。いや、現れたという表現は正しくないだろう。この森の王は始めから、この大地に佇んでいたのだ。腰を下ろした私が欅の幹を眺めていると、風が吹き、欅の木の葉がざあっと鳴った。すると、たちまち欅の輪郭がとろけていき、流動性のある何かに変わると、再び形を形成し始め、瞬く間に森の王の姿となっていた。

 その姿は、猪の記憶の通りだった。いや、迫力に関してはそれ以上だった。蛇の下半身は日光を反射してキラキラと銀色に瞬き、猿の上半身の毛並みも見事だった。背中には大きな茸が生え、色鮮やかな花が咲き誇っていた。その身の丈は思っていたよりも大きく、私の体のさらに何倍もの大きさがあった。

 私と森の王は向かい合って対峙していた。私は咄嗟に言葉が出ず口を開かなかった。それほどに私を圧倒する迫力が森の王にはあった。そんな私を見かねてか、森の王は笑みを浮かべ口を開いた。

「すこし眠ってしまっていたようじゃ。待たせてすまなかったのう。私がこの森を統べる王じゃ。この森で生きる者どもには森の王と呼ばれておるが、そなたも森の王ではこの呼び名も使えんな。儂のことはホォウと呼んでくれればよい。」と私に言った。

「では、ホォウよ。あなたが知っているのなら、教えてほしい。私とは何者なのだ?私は名前をもたない。命の意味も知らない。この森の草木や獣たちは私のことも森の王と呼ぶが、そもそも森の王とは一体何なのだ。」と私が訪ねると、森の王は静かに笑った。

 そして、森の王は物語るような口調で話し始めた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 森の王とは、何なのか?か、確かに難しい問いではあるのう。そなたの何百倍もの時を生きる儂にも、すべてがわかっておるわけではない。しかし、確かに言えることもある。それは、森の王は森を統べるために生きるということじゃ。森の王は、儂とそなただけでなく他にも存在しておる。あまり数は多くないがの。森の王は皆森で生まれる。生まれてくる姿は様々で、獣であることもあれば、草木の姿であることもあるのじゃ。儂の場合は、穴熊の姿で生を受けた。

 そうして、生を受けた森の王は数多の命を食らうことで、まずこの森の世界について学びながら命を体に蓄えていくのじゃ。そなたも未だ命を蓄える途中のようじゃな。儂も穴熊の姿から、数多の命を食らった。そうするといずれ、森の王の姿というものが出来上がってくる。今の儂の姿のようにな。これは、食らった命から十分に力を蓄えることで、新たな命の器を作り出すということを意味しておる。命の器の形は森の王によって違うものじゃ。なので、森の王も皆違う姿の体を持っておる。

 森の王は、命の器を完成させると自らの統べる森に行かなばならぬ。儂ら森の王がどの森を統べるかというのは、あらかじめ決まっておる。その決められた森を探しすために、また数多の森を渡るのじゃ。そして、自らの統べるべき森にたどり着いたとき初めて本当の意味で森の王となるのじゃ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 そこでホォウは言葉を区切った。私はその説明がわかったようなわからないような気がした。しかし、信じるしかないと私は思った。

「あなたの言葉を信じよう。しかし、まだわからないことがいくつもある。そもそも、あなたはなぜ私がこの森を訪ねることを知っていたのか?」

「それは、簡単なことだ。儂がそなたに使いを出したから、儂はそなたが訪れることを知っていたのじゃ。そなたは今雄猪の姿をしているが、その猪こそ儂がそなたに遣わした使いじゃよ。」とホォウは答えた。

「そなたがこの猪を遣わしたと言うのか。なぜ貴方はそんなことが出来る?」とさらに尋ねる。

「なぜそんなことをできるのか、か。それは、簡単なことで、儂が森の王だからじゃ。儂は、見たことのある生き物であれば、無から生み出すことが出来るし、殺すこともできる。どんなことでも言うことを聞かせられる。それが森の王というものじゃ。いずれそなたにも出来るようになる。そして、森の王は互いに細い糸で結ばれているように、互いの居場所がわかるものなのじゃ。儂はお前が生を受けたことに気づくと、雄の猪を生み出し、そなたの元へと遣わした。そうして、そなたはここにやってきたのじゃ。」

「なぜ、そんな回りくどいことを?あなたが直接訪れてくれれば手間も省けただろうに。」

「それは出来んのじゃ。自らの統べる森に落ち着いた森の王は、その森を離れることが出来なくなる。だからこうして使いを出したのじゃ。」

「なるほど。しかし、そもそも貴方は何故私をここに招いたのか?」

「それは、森の王の何たるかをそなたに伝えるためじゃよ。森の王には親というものが存在しない。どこから生まれてくるのかもわからない。だから、こうして先達の森の王が若き森の王に森の王としての生き方を教えるのじゃよ。儂もずっと昔に西の森で同じ話を古き森の王から聞いたのじゃ。そなたもいずれは、若き森の王を導く立場となるのじゃ。」

そこで、言葉を区切るとホォウは私の瞳を覗き込みながら低い声で話した。

「最後に、これは忠告なのじゃが人間にはあまり関わり合いにならんほうがよいぞ。」

聞いたことの無い生き物の名前を聞かされ、私は戸惑った。

「その人間とはなんなのだ?」

「儂も森を渡っていたころに何度か遠めに見ただけじゃが。人間とは、森の理からすでに離れた生き物じゃ。森の生き物の声も聞こえず、森の王の力を持ってしても服従させることはできない。」

「ありがとう。気を付けよう。」

「では、そろそろ行け。若き森の王よ。そなたが偉大な森の王たらんことを願っているぞ。」

そう言い終わるやいなや、ホォウは再び欅の木の姿に戻ってしまった。

 私は欅の木に向かって目礼すると、ホォウの統べる森を後にした。

 それから私は、命の器を完成させるために森を渡り、命を食らい続けた。生きる意味を確かに実感したわけではなかったが、少なくとも何者かもわからぬ命ではなくなった。暗闇の中に導の灯りを見つけたような心地がした。

 私は、昼間は様々な獣の姿で旅をして、夜は草木の姿で眠った。

 そうして、命の器が少しずつ出来上がっていくにつれて、ホォウの語った内容が実感として感じれるようになってきた。私はわずかにではあるが、森の王たちの気配を感じるようになり、私の体の中に本当の私の姿というものが確実に作り上げられてきていると感じた。

 いくつもの季節を費やして、私は命の器を作り上げていった。

 完成の瞬間は、ホォウの森を出てから十度目の冬に訪れた。

 その日、私は痩せた狼の姿で森を歩いていた。季節は冬で、食らうことのできる獣たちもなかなか見つからなかったが、偶然にも見事な雄の鹿が池で水を飲んでいるところに出くわした。その鹿は、色の抜け落ちたように真っ白の毛並みをしており、赤い瞳をしていた。雪の積もった森の中に、真っ白の毛並みは溶け込み、赤い目だけが燃えているように目立っていた。その美しさに私はしばらくの間動けないほどであった。

 私は、その鹿の後ろに回り込むとその首筋に牙を突き立て、その命を食らった。

 その鹿の命が私に取り込まれると、私の命の器は完成した。自然と私は本当の私の姿となっていたようだった。私は、池に己の姿を映して見た。

 そこに移っていた獣は、鹿の頭蓋骨の頭、熊の胴に、牛の足をしていた。角の先には椿が咲き、背中には蔦が這っていた。尾の部位には薄が生えていた。最後に食べた鹿のせいなのか私の毛並みは全て真っ白になっていた。

 水面に映る私の姿は、美しいとは決して言えなかったが、森の命を統べる者には相応しい姿なのかもしれない。生き物の命の持つ醜さと切実さをはらんだような姿だった。

 新たな姿を手に入れることで私は森を統べる王としての準備を終えたようだった。森の獣たちも私を森の王として扱うようになった。今や森の生き物は皆私のことを森の王と呼んでいた。

 しかし、私はまだ本当の意味で森の王となったわけではなかった。自らの統べる森を見つけなくてはならない。

 私は池から離れ、森の木立のなかを歩き始めた。私が今いる森は私が統べるべき森ではないということが実感としてわかった。この森の中にあって私はあくまでも異物であるという心地がした。この森の生き物たちも、私に敬意は払ってくれてはいるのかもしれないかもしれないが、私が支配しているとは思えなかった。

 私は森を渡ることを再開した。今度の渡りは、命の器を形作るための渡りに比べると何倍も難しかった。命の器をつくるための渡りでは、様々な命に触れ、一つになるだけで良かった。しかし、自らの森を見つけるための渡りには確実に目指す場所があるはずなのに、その場所がどこかはわからなかった。私はその森がどんな場所なのかすらも知らなかった。様々な森を歩いてもここが目的の森と違うということはわかるだけだった。

 さまよう年月が長くなればなるほど、私は焦燥を感じていた。私の統べる森はすでに荒野と化してしまったのではないだろうか。私には統べるべき森など見つけられぬのではないだろうかと毎夜ごとに考えた。しかし、それでも私の森は見つからなかった。

 私は北から南へと渡った後に、東から西へと尾根から尾根へと伝って山を渡っていった。そして、西の果ての森にまでたどり着くとそこで大地が途切れていた。そこにあったのは大きな大きな水たまりだった。川や湖とは比べ物にならぬほどに大きな水たまりだった。

 私は見たことの無いほど広大な水たまりに感心し、岸辺の砂地に佇んでその水たまりを眺めていた。岸辺に立った私の前足を波が洗っていた。木に日差しを遮られないその岸辺には日光が降り注いでいた。

 私が前足を波に遊ばせていると、やがて波が私に話しかけてきた。

「ずっと、そこに立っているつもりなのかしら?迷子になってしまったの?」

私はびっくりして、波の届かぬところまで後ずさった。

「あら、ごめんなさい。そんなにおびえなくてもいいのよ。」と優しい声音で波は話した。

「貴方は何者か?」と私は警戒したまま問うた。

「私は海よ。全ての生き物の母にして、全ての水のふるさとよ。」

「全ての生き物の母?私の母は貴方だというのか?」

「貴方は違うわ。貴方は、森の命が結実して生まれた者。私からしたら、孫みたいなものなのかしらね。」そういうと海は歌うように笑った。さざめくようなその笑い声はどこか懐かしい響きだった。

「森の王と会うのなんていつ以来かしら。貴方たちの領分は森よ。知っているでしょう?」

「それは知っているが、私は自分の統べる森がどこにあるのかを知らぬのだ。西へと彷徨っていると、貴方のところまで来てしまった。」

「あらあら、じゃあ本当に迷子なのね、貴方。大地の上のことは私の管轄外だから私のも貴方の森がどこいあるのかはわからないわ。でも、貴方のおばあちゃんとして貴方に助言をするとしたら、生まれた場所に立ち返ってみるというのも時には必要なことよ。」

生まれた場所か。私は、胸中で海の言葉を反芻した。私に様々なことを教えてくれたあの水楢はまだあの場所に立っているだろうか。私はあの水楢の木にもう一度会う気になっていた。

 私は短く海に礼を述べて別れた。

海は別れ際に、

「貴方が貴方の森を見つけられることを願っているわ。でも、貴方が森を見つけたらもう会えなくなってしまうわね。では、さようなら。」と言った。

海がそう告げると、波は止んだ。

 私は、海を背にして再び森を歩き始めた。私が生まれた森まではかなりの距離があったが、目的地のわかっている分、幾分か気が楽だった。

 私は東の方角に引き返し、自らの生まれた森を目指した。あの森を離れてからかなりの時間が経ったが場所はしっかりと覚えていた。私は変わってしまったであろう森の様子を思い浮かべながら、日夜を問わず歩いた。

 そして、私は満月の夜、生まれた森へと戻ってきた。

 私は、水楢のもとへと向かった。獣たちも寝静まった夜に森の中を歩くと、やはり森の様子は私が宿り木だった時に感じていたものとはかなり違っていた。しかし、やはり故郷のように懐かしく、自分がここにいることがごく自然に思えるようなそんな場所だった。

 やがて、私は水楢の立っていた場所にまでたどり着いた。そこにはやはり私を育ててくれた水楢が立っていた。枝ぶりはより立派になってはいたが、私を育ててくれた水楢の間違いはなかった。

 私は、水楢におずおずと近づいていく。そして、そうしたいと思って、水楢の幹に鹿の頭蓋の鼻先で口づけをした。


「おかえりなさいませ。私の王よ。」


 そう言って、水楢は私を迎えてくれた。水楢が私を自らの王と呼んだ瞬間に森の空気が一変し、様々な気配がし始めた。森の生き物たちが私の元へと集まってくるのだった。

 全ての生き物たちが、私の元へと集うと皆一斉に私にひれ伏した。そこには、鹿、猪、熊、羚羊、山羊、兎、栗鼠、鳥達に、虫達、森で暮らす生き物どもが全て集っていた。その場から動けない草花たちも私のことを我が王と呼んだ。

 そして、ひれ伏した生き物たちの間をすり抜けて老いた猿が姿を現した。その猿は右手に花で作った冠を携えていた。猿は私の前まで歩み出ると、私は頭を下げる。すると、猿はおずおずと花冠を私に与えたのだ。

 こうして、私は森の王となったのだ――。


 


 

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