90 女の子のお部屋
僕の名前は水瀬流世。大学二年生の二十歳。趣味は一人酒、特技はききビール。友達の数は片手の指にも満たない。彼女いない歴は産声をあげてからずっと更新し続けている。
女の子のお部屋にお呼ばれされたことなんて当然ない。今後の人生でも起こりえないと思っていた。
それが今、実現している。
「どうぞ入ってくださいっ」
「おざましゃましゅ」
そりゃ噛みまくるよ。お邪魔しますを滑らかに言えるわけがない。
さっきまで自分の部屋にいたのに今は月紫さんの部屋にいる。人生初の、女の子の部屋。なんということでしょう。
まず、ベッドがピンク系だ。白桃のように薄いピンクのシーツは誰がどう見ても女の子専用の品。
ベッドの枕元側にはお洒落な棚。綺麗に揃えられた文庫本と、その周りに小さな動物の置物が並べられている。ちょっとしたアート、まるで森の生き物達がお喋りしているかのよう。
机とかローテーブルとか、あ、カーペットも、どれも可愛らしいデザインと色だ。恐らくは一つひとつを単品で見れば、家具店に売ってある普通の物なのだろうけど、けれどもっ、それらは合わさることで可愛らしい空間を演出している。
女子の部屋に初めて入った僕でも分かる。これが女子力だ!
「あ、あまりジロジロ見ないでください」
「ご、ごめぁん」
と言いつつ目がギョロつくのが止められません。
まさにザ・女子のお部屋! 月紫さんは不思議ちゃん系だから一風変わった斬新な部屋なのでは、という不安を吹き飛ばす完全完璧の女子空間。僕が住んでいる学生アパートと同じなのにセンスとレイアウトでこうも違うのか。
ここで月紫さんは毎日寝たり起きたりしている……。匂いがする。女の子の香りがするよ! うへへへ!
さすが陰キャの非リア大学生、僕は僕の感想が気持ち悪くて仕方がない。耐性がなさすぎるし情けなさすぎる!
「座っていいですよ?」
「ひゃい、分かりゅまちた」
来訪してから一度たりともまともに喋れていない自分がこれまたキモすぎる! 噛むのレベルじゃないだろおい!
僕のようなキモイゴミ虫が着地していいのかと恐縮しつつ、接地面積を最小限にしてカーペットの上に座る。
はひぇー、僕が女子の部屋に来ることになろうとは。九蓮宝燈を出した程の幸福だ。僕はそのうち死ぬかもしれない。
「人を招いたのは水瀬君が初めてです」
月紫さんが僕の前に座……ぬあぁ!?
毛糸っぽいモコモコとした部屋着。薄紫色と黄色が合わさった部屋着がモコモコ。袖から指先をちょっとだけ出した、モコモコの部屋着ぃ! ルームウェアぁあ!
いつの間に着替えたんだ。いやどうでもいい。可愛い。僕は死んだ。悶え死んだ。ぬぉお!
「あわわ、水瀬君が体を雑巾みたいに捻じ曲げていますっ」
「お気遣いなく」
ぐうう、ルームウェア姿の月紫さんが可愛すぎる件について。頭蓋の中身が沸騰しそう! ドキドキとソワソワがヤベェ!
「早速ゲームしましょうか。飲み物も用意しますね」
「お気遣いなく」
「さっきからそればかりです」
「あへへ」
誤魔化し笑いも果てしなく気色悪い! 金束さんが相手なら「キモイ」から「ウザイ」のコンボ、そしてトドメに睨みつけられていただろう。
「あはは、水瀬君こそ気にしなくていいですよ。いつも水瀬君のお部屋にお邪魔しているので今からは私がおもてなしをしますっ」
月紫さんは優しかった。天使かな?
「グラスをどうぞ」
「ありがつぉう」
月紫さんはウサギの絵が描かれたグラスを渡してくれた。ここでも女子力。
「ビールをお持ちしましたーっ。家でも特訓しているんですよ」
「もしかして飲料水の代わりに飲んでいるとか……?」
「さすがに喉の渇きが限界を迎えたのでやめました」
あ、一度はチャレンジしたのね。無茶だよそれは。
少しだけ落ち着いてきたような気がしないこともないような僕はグラスを傾ける。そこへ月紫さんがビールを注ぐ。注ぎ終えると、今度は自分のグラスへ。
「では改めて乾杯しましょうかっ」
グラスを両手で持つ。口元を綻ばせて微笑み、微かに頭を傾げてサラサラの黒髪が流れて垂れる。
それら全ての動作、緻密に計算されたかのような自然な仕草。なんて可愛いのだろう。
……好きになってしまいそうだ。
「水瀬君?」
「へ? あっ、う、うん! 乾杯だね!」
「はいっ」
グラスを合わせ、その音が反響。些細な音でも、極限の緊張状態である僕には電撃のように痺れる。
ぐっ、いつまでキョドっているつもりだ。深呼吸して落ち着こう。
「すー、はー…………はっ!?」
女子の部屋で深呼吸って、ただの変態じゃね!?
「今のは違うから! 落ち着こうとしているだけであって、深めの呼吸で匂いを満喫しようとは思っていないから!」
「は、はい」
……言い訳することで余計にキモくなったね。さすがに月紫さんも少し引いている。
「ごめん、気持ち悪い奴だよね。しばらく呼吸を止めるから許して」
「ですから気にされなくて大丈夫ですって! どうぞ遠慮なく吸ってくださいっ」
それでも月紫さんは優しかった。大天使かな?
「ありがつぉう」
「では飲みましょうか」
月紫さんがもてなしてくれるのに不甲斐ない。いい加減にしろ水瀬流世。異性の香りではなくビールの味に集中しろ。
ビールを飲めばテンションの異常も治るはず。僕はグラスを一気に呷る。
「ぶほっ」
直後、噴出した。
月紫さんと飲む時は必ずといって言い程に聞いてきた噴き出す音は、僕の口から放たれた。喉は潤わず、代わりに下唇と顎先が盛大に濡れている。
僕は「やっちまった」と思う。僕は……ビールを思いきり噴き出してしまった。
「……水瀬君?」
テーブルには泡と液体が飛び散り、その先の月紫さんの顔も同様の状態になっていた。大きな眼鏡がビシャビシャで……。
や……や、やってしまったあああぁ!?
「ご、ごごごごめん。あの、本当その、ごめんなさいいい!」
僕がビールを噴き出してしまうとは! ビールをこよなく愛するこの僕が……ああああぁ!?
即座に土下座、床に頭を叩きつける。せっかく部屋に招いてもらったのになんて最低なことを……!
「水瀬君」
「クリーニング代は出します!」
「ですから、水瀬君」
「慰謝料については弁護士を通して正式にお話しましょう! 誠にすみませんでした!」
「もう! 水瀬君はしつこいですっ」
叩きつけていた頭が止まる。月紫さんが僕を取り押さえていた。
急接近。眼前には、眼鏡を外したとびきりの美少女が頬に力を入れてぷっくりとしていた。っ~!? 可愛い……っ。
「……水瀬君は緊張しているのですか?」
「へ?」
「私の部屋に来てから様子がおかしいです。緊張しているんですね」
「あ、その……は、はいぃ……恥ずかしながら女の子の部屋に来るのが初めてでして」
「初めて……私の部屋が、ですか」
う、ううぅ、う……ああそうですよすみませんね! 異性の部屋に行くなんて普通の大学生なら気にもせずやっていることだろうよ! 何なら高校生の時に、つーか小学生の時点で済ませているイベントを僕は二十歳になって達成したんだ! ああそうだよ悪かったな!
「っ、本当にごめん」
遂には逆ギレに移行した自分の思考に呆れかえる。とことん駄目な奴だ。
「……」
「ご、ごめんなさいぃ」
「あ……い、いえいえ! 謝らなくていいです! そっか、私の部屋が初めてなんですね。私が初めて……」
「……怒っていないの?」
「怒る? それを聞くことに怒りますっ」
久しぶりに見た眼鏡なしの月紫さんの容姿に意識が吹き飛びそうになる。申し訳なさで消えてなくなりたい。
そんな僕を、月紫さんは見つめる。美少女の大天使が「お互い様ですよ」と笑ってくれた。
「私だってしつこいだろーっ、ってくらいにビールを噴き出して水瀬君をビシャビシャにさせてきました。お互い様ですよ。だから謝らなくていいんです」
「そ、そうかな……」
「そうなんです! 水瀬君は気を遣いすぎですよ! 女子部員が少ないサークルが新歓でなんとかして女子新入生に入部してもらおうと必死なくらい気を遣いすぎです」
「例えが残酷的にリアルだね……」
そういうサークルを目にしたことあるけど。気持ちは分かるけども。
「ご、ごめんね」
「謝らないでくださいーっ。友達なんだからもっとフランクにしてください」
月紫さんはとても良い笑顔で僕と目を合わせてくれた。
僕は噛みまくるしキョドってばかりで果てしなく気色悪いのに。月紫さんは全てを許してくれる。僕を受け入れてくれる。なんて良い人なんだ……!
女神だ。月紫さんは女神だ! あと可愛い。美少女だ。
「ありがとう。目が覚めた気分だ」
過剰に意識する必要はない。月紫さんのご厚意に甘えて、いつも通りにしておけばいい。
いつもみたいに月紫さんと楽しもう。ビールを飲んだり、変なトークを楽しんだり。かけがえのない僕の日常だ。
「寧ろ良かったです。ハッピーです。お互いにビールを噴きかけ合った私達は友達以上の関係になれましたっ」
「友達以上と言っていいのかなそれ……?」
「いいんです。えへへー、です。とても嬉しいですっ」
「は、はあ」
「乾杯ですっ」
「か、乾杯」
「はーいっ」
もう一度、僕らは乾杯をしてビールを飲む。月紫さんはちょびっとだけ。舐める程度に。そしてビールの苦味に顔をしかめる。
僕はいつも通り、ビールをがぶ飲みする。そしていつも通りの、刺激的で爽快な喉越しとビールの美味しさに頬を緩める。
「美味しい!」
「そうですかっ。良かったですっ」
「ゲームしようか」
「はいっ。コンタクトレンズを入れて……準備完了です! マリカしましょう」
「ボコボコにされそうだ」
「任せてくださいっ」
「手加減をお願いします……」
「えへへっ」
眼鏡なしの月紫さんが見せる笑顔は最高に可愛い……いや、違うかも。
月紫さんは眼鏡があってもなくても、最高最強に可愛いし、僕にとって大切な友達だ。
僕らはビールを飲みながらゲームをする。やっと落ち着けて、心から楽しめた。




