85 心の底から見せる本当の笑顔
「金束、俺はお前が嫌いだった」
「な、何よいきなり」
「流世に酷いことを言う奴やる奴は許さない。流世を傷つけようものならぶん殴ってやった」
「……」
「あ゛ー待て、泣くなよ。あくまで最初の印象だ。今は違う。寧ろ金束のことが羨ましい」
「私が?」
「一年前、流世は死にそうな顔をしていた。俺はあいつを完全には助けることが出来なかった。……親友のくせに情けねぇよ」
「……」
「でも金束、お前は流世を助けてくれた。一人で酒を飲んで楽しいと言いながらもどこか寂しそうだったあいつが本当に楽しそうな笑顔をするようになったんだ。俺には出来なかったことをしたお前が羨ましいし、すっげぇ感謝している。ありがとな」
「別に……」
「お前も流世のことをよろしく頼む」
「ふ、ふんっ。アンタに言われるまでもないわよ」
「流世はこんな奴のどこが良いのやら。顔か? いや、流世は人を顔で判断しない。となると性格……こいつの性格ぅ?」
「アンタには関係ないでしょ!」
「いちいちうるせぇなテメェ。あ、今は感謝したけどな、今後もし流世が嫌がることをした時は容赦しない。分かっているだろうな。あ?」
「……」
「あ゛ーいちいち泣くなよ……」
お店を出る。夜風が涼しい。
「やー、変な空気になったね」
隣には木葉さん。申し訳なさそうで気まずそうな、それでいて悪戯っぽく舌を出して笑っていた。
「そうだね。結局、僕以外は誰も飲まないで場が白けた」
木葉さんの合図で僕は意気揚々に飲み、他の男子は唖然とするだけ。誰も酔い潰れず、全員が静まり返り、めちゃくちゃ変な空気になった。俗に言う、スベッたというやつだ。
僕も飲み干して我に返った。何をカッコつけていたんだと思う。恥をかいた。もう学校に居場所はない。あ、元々そうだったか。あははー……。
「今後は学科飲みも開きにくいだろーね。全部、アタシのせいだけど」
「……やっぱり気づいた?」
「うん。アタシのやってきたことって間違っていたんだ」
足を止め、木葉さんはその場で俯く。
意気消沈。彼女に最も似合わない表情が前髪の影で暗くなる。
「アタシさ、お酒が全っ然飲めないんだよね。すぐに顔が赤くなるの。でも飲み会はしたくて、みんなで楽しみたくて、だから飲ませる側にずっといた。……それが反感を買っていたんだね。みんなは嫌だったんだ。みんなも、流世君も」
「……そうだね」
「それだけじゃない。アタシは流世君を裏切った」
立ち止まって俯き、木葉さんの口から出てきた言葉は重たかった。
僕もその場で立ち止まる。楽しかった日々と、一夜にして見捨てられたこと。過去の出来事が頭の中で再生されていく。
「あの日、アタシは流世君だけを悪者にすることに反対しなかったの。流世君に酷いことを言って、突き放した」
「……」
「みんなの輪を崩したくなかった。だから……ううん、それは言い訳だね。アタシも同罪。ごめんね……」
「……今更謝られても逆に困る」
「あはは、アタシって流世君を困らせてばかりだね。……本当、めちゃ最低だ」
くしゃくしゃの顔、渇いた笑い声。枯れ葉のように、萎むように、こんなにも弱りきった木葉さんは見たことがない。
僕は閉ざされたシャッターに背を預ける。
「道の真ん中にいると通行の邪魔だよ」
「うん……」
声をかけると、続けて木葉さんもこちらへ寄ってくる。二人で並んで立ち、僕は前方を、木葉さんは下を向く。
オレンジの提灯、白い電灯。飲み屋街の光がやけに眩しい。
「今になって気づいた。アタシの身勝手な態度が流世君を苦しめていたことを。そして、今までずっと見ていないフリをしてきた。流世君が一人で耐えていることを。無意識のうちに苦しめて、自覚している時も酷いことをした」
「……もういいって」
「流世君を振りまわしてお酒を飲ませ続けて、そのくせして悪者に仕立て上げた。挙句に一年前のことだと言ってあの事をなかったことにしようとした」
「いいんだ。もう、どうでもいい。過去のことだから」
「本当にごめんなさい」
……今になって木葉さんに謝られても終わったことは覆らない。過去の出来事に可能性という概念はない。
終わったことより今だ。一つ、気になることがある。
「僕の友達が助けに来た時、どうして庇ってくれたの?」
「……そうだよね。今になって助けても、もう遅いよね」
「そんなことを聞いているんじゃない。以前までの木葉さんならあんなことしなかった。大事にしてきたみんなの輪を崩してまでどうして僕なんかを庇ったんだよ」
僕一人を悪者にしておけば良かっただろ。今までそうやってきたんでしょ。
「それは、流世君が笑っていたからだよ」
返ってきたのは思いがけない言葉だった。
僕が、笑っていたから……?
「アタシが見たことのない流世君の満面の笑顔を見て、その時になって自分の過ちに気づいたの。流世君には学科の人やアタシよりも遥かに大切なものがある。乱入してきて騒ぎになっている最中、スズちゃんと二人で笑い合っている流世君を見て、アタシらが邪魔しちゃ駄目だって思った」
木葉さんは顔を上げる。くしゃくしゃのまま、ボロボロの状態で、申し訳なさそうに微笑む。こんな時でも笑顔を見せようと必死になっていた。
「良かったねっ。アタシなんかより素敵な人と出会えて。アタシには言う権利もないけど、これからは楽しく過ごしてね」
……。
「過去は変わらない」
「……流世君?」
「僕がどんな思いをしたか、木葉さんが当時何を思っていたのか、今になって言っても意味はない。変わらないんだ。僕があの頃、君と一緒にいて楽しかった日々も色褪せない」
たとえ最後に裏切られたとしても間違いないんだ。僕は木葉さんと一緒にいてすごく楽しかった。それは紛れもない事実だ。
「少なからず木葉さんを恨んだことはあった。それ以上に自分の愚かさを憎んだ。でも、僕の中では君は今も素敵で無敵な存在なんだよ。君がいたから今の僕がある。ありがとう……茉森さん」
茉森さんの笑顔を見たかった。傍にいたかった。君と一緒にいる時間が楽しかったから。世界が変わったと思える程に素敵な日々だった。
「過去も、今も、気にしなくていい。だから謝るのはもうやめよう」
「……」
「それに、さっきはすげー面白かった。僕だけ焼酎をイッキ飲みして場が白けて変な空気になったけど、木葉さんと一緒に騒げて楽しかったよ」
お酒を片手に笑い合う。昔のことを思い出したよ。悪い意味ではなく、良い意味で酔えた。また君と笑い合うことが出来て、めちゃ楽しかった。
「そっか……」
木葉さんはそう呟くと、シャッターから背を離す。
「流世君はすごいね。本当に、すごいや」
「ただの勘違い陰キャだよ」
「あはは、むっちゃ自虐するね」
僕を見つめる彼女の顔はまだ弱々しかったけど……うん、彼女らしい笑顔だった。
「あはは……アタシ本当に駄目だなぁ。また今になって気づいた。もっと早く気づくべきだった。流世君のこと、もっとちゃんと知っておくべきだったなぁ……」
「どういうこと?」
「ううん、なんでもない。今が、これからが大事なんだよね。今日、流世君はアタシを助けてくれた」
「まあ、成り行きで」
「成り行きでもしったげ嬉しかった。酷い仕打ちをしたアタシなのに流世君は……。こちらこそありがとう、流世君」
木葉さんは笑い、僕もそれを見て笑う。
楽しい時間、苦しい日々、色々あった。
そうして今、僕と木葉さんはやっと分かり合えたような気がした。
「ねぇ、流世君」
すると、木葉さんが僕に近づいてきた。
夜風が彼女の髪を浮かせ、彼女の表情を際立させる。
「何?」
「アタシと改めて友達になってくれない?」
「僕と? ……あはは、面白いこと言うね」
僕は笑う。歯を見せて、大笑いするかのように口を開き、ハッキリと返事をする。
答えはノーだ。
「絶対に嫌だよ。もう学校で僕に話しかけないでね」
お互いに言いたいことを言えた。今の会話で和解は出来た。
でももう一度仲良くする気はない。
君が言った通り、僕には君よりも大切なものがある。かけがえのない友達ができたんだ。
「うっわ、がば辛辣だ~。分かった、学校では話しかけない。じゃあ学校以外ではばりばり話しかけるね!」
「……え、そうなるの?」
「あっ、今度飲みに行こーよ。もう無理に飲ませたりしないからさ!」
「僕はぜってぇに行か」
「駄目」
木葉さんは僕の返事を待たずに歩きだす。
こちらを振り向き、そこにはいつもの笑顔。街灯の光に照らされて木の葉が宙を舞った。
「ね? ぜってぇ一緒に行こーね!」
「話を聞いてよ……」
僕は苦笑混じりに歩き、一定の距離を空けて木葉さんの隣に並ぶ。
「よう流世。こっちだ」
「待っていてくれてありが、金束さん?」
「遅いわよ馬鹿……」
手を振る長身大男の横から金束さんが走り出し、僕の背中に回り込むと力強くしがみついてきた。え、なぜ震えているの?
「わりぃな。俺のことが怖いらしい」
「な、何をしたんだよ」
「何もしてねぇよ。脅しただけだ」
「脅しているじゃん!」
金束さんは未だに不知火のことが苦手らしい。
う、うーん、どちらとも友人の僕としては非常に気まずいです。仲良くなってくれませんかねぇ……。
「水瀬、帰るわよ」
「わ、分かった。分かったからしがみつかないでよ」
「あ゛? おい金束、さっき言ったこと忘れたか。流世が嫌がることをするなら……」
「み、水瀬ぇ」
「金束さん、落ち着いて。不知火、睨みつけないで……」
帰ってきて早々にカオスだ。今夜は色々ありすぎて脳も体もヘトヘトなんですけど。
「俺としては普通に接しているつも……ん? ……おい流世、その頬はどうした」
「頬? あ……み、水瀬っ、頬が腫れている……何かあったの!?」
二人は僕の頬を凝視する。暗いから気づかれないと思ったんだけどなぁ。
「これは、あー、名誉の負傷、みたいな?」
「っ! だ、だから行くなって言ったじゃない! 水瀬の馬鹿馬鹿、馬鹿ぁ!」
「金束さん落ち着い、ぐへえ」
金束さんがさらに暴れる。心配してくれているのだろうけど……ぐえぇ、喉が絞まる。詰め寄りすぎだって。
「僕は大丈」
「大丈夫じゃない! あ、ああ、水瀬……っ、ぐすっ」
「な、泣かないでぇ!」
金束さんが泣きだした。やめてえええ、僕なんかのことで金束さんが涙を流すことないのにぃぃ。き、気まずい。
「流世君がめっちゃ楽しそうだ」
「この状況がそう見えるんだ……」
「うん。でーれー楽しそう! ……いいなぁ」
僕の後に続いて公園に入ってきた木葉さんはニコニコな表情だ。
現状をご覧よ、ごっつぅカオスでしょうに……。
「あ、アンタは木葉茉森……!」
木葉さんに気づいた金束さんは途端に歯噛みして唸り出す。泣きながら怒り狂っている。
気まずい上に今度はマズイ。僕の頬が腫れている原因が木葉さんだと思った金束さんがキレて……!?
「流世に近づ、ぎゃう!?」
「どいてろ金束。俺がやる」
金束さんを押し退けて不知火が木葉さんの前に立つ。
その顔は、恐ろしかった。
「何しに来たテメェ」
見下ろして睨みつけて、今にも殴りかかりそうな不知火。
「流世君のお友達だね。一年前にチラッと見たことあるよ」
「俺は忘れない。一年前、テメェは流世を見捨てた。ボロボロの流世を置き去りにした。俺は忘れない。俺はお前を絶対に許さねぇ。つーか流世の怪我はお前のせいか? あ? だとしたら今この場でぶち殺す」
「……すごい嫌われようだね」
「被害者面するな。お前が流世を苦しめた一番の元凶だろ。覚悟はいいだろうな」
激怒した不知火は腕を振り上げ、って、待って待ってぇ!
「やめろ不知火! 木葉さんは悪くない!」
「どいてろ。一発ぶん殴るだけだ」
「ま、待ってぇ。お願いだ、木葉さんを責めないで」
「流世がそう言うなら」
必死に、といっても少しだけ。僕が少し制したら不知火はすぐに拳を引っ込めた。よ、良かった。
「流世の優しさに免じて引いてやる。だが覚えてとけよ木葉茉森。俺はお前を一生許さない」
「私もアンタは許さない。水瀬に近づくな!」
厳つい顔と恐ろしい双眸で睨みつける不知火と、涙目ながらも鋭い瞳で唸る金束さん。
木葉さんは肩を竦めて苦しそうな表情をしていた。
「あはは……めちゃ嫌われてる。そうだよね」
「こ、木葉さん、気にしなくていいよ。二人は少し気が立っていてさ」
「いーよ、気を遣わなくて。アタシ、邪魔者だろーし帰るね」
険悪なムードを察したらしく、木葉さんは僕から離れて公園の出口へと向かっていく。
「でもね、流世君」
僕だけでなく不知火と金束さんも気を緩めていたのだろう。
去っていく木葉さんが踵を返して僕に詰め寄ってきた。急接近するのを僕も二人も反応出来なかった。
「え?」
「流世君ってアタシのことが好きだったんだよね?」
「えっ、あ、いや、それは……」
「勘違いさせてごめんね」
昔好きだった人から直接それを言われるのはすごく恥ずかしいんですけど……。
「うぐっ……い、以前はね。今は違う!」
「そっか。今度はアタシの方が……なんだねー」
「は、はい?」
「アタシは今になって気づいたけれど、でも気づいちゃったんだ。流世くんのこと、流世君の優しさを。……スズちゃん、覚悟してねー!」
木葉さんは金束さんに向けて舌を出し、再び僕を見る。華やかで愛嬌のある笑窪と爛漫な満面の笑み。それでいて悪戯っぽい表情。
素敵で無敵な木葉さんらしい最高の笑顔だった。
「じゃあね! また一緒にどこか遊びいこーね!」
そう言って、木葉さんは公園を去っていった。暗闇にその姿が溶けて見えなくなるまで、僕は直立したまま動けなかった。
っ、はは……本当、変わってないな。僕はまた翻弄されてしまった。
やはり木葉さんはすごい。敵わないよ。
「な、ななななな!?」
「っ!? び、ビックリした……どうしたの金束さん」
金束さんがいきなり叫んだ。「な」を連呼している。
そして僕に詰め寄ると、ひぃぃ!? ものすごい顔をして両手を振りまわし始めた。
「っ、あの女、むがー! うがーっ!」
「お、落ち着いて、なんでまた暴れて……」
「絶対に許さないわ! 絶対に絶対に! ……絶対に流世は渡さないんだから……!」
暴れまくって叫びまくって、最後はボソボソと呟いた金束さんが僕にしがみつく。ふ、服にシワが……というか精神的疲労がキツくてもう限界なんですけど……。
「まぁ落ち着けよ。せっかくビール買ってきたんだから乾杯しようぜ」
超がつく程に不機嫌な金束さんとは打って変わって不知火は穏やかな表情になっていた。僕に缶ビールを渡してきた。
「これ、正確にはビールじゃなくて発泡酒だよ」
「俺からすれば大して変わんねぇよ。どっちにしろ流世は好きだろ?」
「うん、好きだよ」
「木葉のことは?」
「好きじゃない」
「俺らのことは?」
「好き、かな」
面と向かって言うのは面映ゆいね。というか何今の誘導尋問みたいなやり取りは。
酔いとは別の意味で顔が赤くなる僕の困惑を余所に、不知火は金束さんに話しかけている。
「だとよ、金束。分かったら流世から離れろ。落ち着け」
「ふん……」
「なんだその態度。あ?」
「み、水瀬」
またこのパターン? い、いいから飲もうよ! 早く乾杯しようぜ!?
「金束さん、ビールだよ。僕を掴まないでビールを掴んでください」
「頬は大丈夫?」
「大丈夫だから缶ビールを押しつけないで。冷まそうとしなくていいから」
「駄目よ! 水瀬の顔が……っ、あの女のせいね……!」
「まだ言ってる……木葉さんのせいじゃないって」
「ふんっ!」
「ひええぇ……」
「お前ら仲良すぎだろ。じゃあ、乾杯するぞ」
公園のベンチ。僕と金束さんと不知火は缶ビールをぶつけ合う。
プシュ、と音を立てて缶の蓋を開く。空に向けて缶を高々と掲げる。一気に口へと流し込み、僕は二人を見る。
「不味いわ」
「っうぁあ、酔った……」
金束さんはいつも通りしかめ面をして、不知火はいつも通り酔い潰れる。
いつもの光景、僕の日常。僕は笑いが止まらない。おかしくて、楽しくて、今の時間がすごく、大好きだ。
二人を見ながら僕はもう一度、缶ビールを啜る。ビールじゃなくて発泡酒だけども。
そのビールの味は今までで一番美味しかった。




