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82 学科飲み

 講義中に最も視線を向けるのは教授ではなく、その頭上の掛け時計。長針と短針がどの位置に揃えば講義が終わるのか把握しているが故、その時刻が訪れて教授が講義終了を告げるよりも先に教科書類を鞄にしまい終えている。


「あー、今日もだるかった」

「出席確認の紙どこ? 寝坊しちまった」

「五限に寝坊ってヤバイな。お前の名前は書いといてやったよ」

「お、やるじゃん。ついでにレジュメを寄越せ」

「上から目線ムカつき~。ほらよ」

「サンキュー。昨日は俺が代返したんだからチャラだろ」


 講義が終わり、教室は騒がしくなる。しばらくの間は駄弁って、その後はバイトや部活やサークルへと足を運ぶのだろう。

 彼らがゆっくりタラタラと行動を始めた時には僕は鞄を持って席を立つ。淀みなくまっすぐに教室の出口へと向かう。


「流世君って帰るのべらぼうに速いよね」


 あと数歩で廊下のところで僕は腕を掴まれる。

 器量、声、笑顔の三拍子が揃った素敵で爛漫な女子大生。彼女の名前は木葉茉森さん。あどけない笑顔が立ち塞がった。


「おつかれー」

「……お疲れ様」

「頑張ったアタシらを祝して、はいっ」


 木葉さんは空いたもう片方の手を掲げてハイタッチを促してきた。同時に頬を崩し、目尻が垂れる。とびきりに眩しい笑顔が僕に襲いかかる。

 この笑顔とずっと一緒にいたかった。この人の隣にいたかった。

 かき乱される感情を抑え込み、張りついて硬直しそうになる唇を必死に開く。


「そこを通して」

「今から飲みに行こーよ」

「僕は行かない」

「今日って花金じゃん? だから学科飲みをするんだ。流世君も来てよ」


 木葉さんは誰に対しても優しい。

 その優しさをはき違えてはならない。僕にも声をかけてくれるのは、僕のことを思ってではない。

 みんなと一緒に飲むのが好きだから。純粋に自分が楽しみたいから。そこに悪意はない。


「行かないよ」

「え~? 流世君ここ一年くらい学科飲みに来てないじゃん。ぎゃん寂しーな」

「……」

「あっ、帰っちゃ駄目。みんなも待っているよ」


 横を抜けようとしても木葉さんに防がれる。掴まれた手を振りほどけない。

 何を言われようとも僕は参加しないよ。何より、僕は参加してはいけない。


 木葉さんは待っていると言ったが、木葉さん以外は誰も僕を待ってはいない。調子に乗って暴れていた陰キャが来ることを望んでいない。

 それに、君も本当はどっちでもいいんだ。僕が来ても来なくても木葉さんにとって大した意味はない。彼女の中で僕はその程度の存在なのは痛い程分かっている。……苦しい程に知っている。


「僕が言っても場を盛り下げてしまうだけだよ」

「流世君がばか卑屈だ。そんなことない」

「そこを通してください」

「通さないー! お店に予約入れてあるし変更出来ないもんね」

「お店の名前教えて。僕が変更の電話をするから」

「流世君なんか怒っていない? 何度も言うけど昔のことは気にしなくていーよ」


 無理だよ。いや、無理だった。

 どれだけ思ってきただろう。何十回と自分に言い聞かせてきた。もう気にするな。過去のことは忘れてしまえ。

 出来なかったよ。君が現れる度に全てを思い出す。君の笑顔、そしてみんなに指差されて笑われた一年前。呪いのように拭いきれなかった。


「どいて」


 だったらもうそれすらも気にしない。いくらでも思い出せばいい。変えられない過去を受け入れて、今を生きる。一人じゃないこれからの生活を楽しんでみせる。

 もう木葉さんに揺らぐことはない。


「流世君が来ないとわや寂しい。ねぇ、アタシ達の仲じゃん」

「……木葉さん、いい加減にし」




「まぁいいんじゃねーの? たまには来いよ」


 背後から人の気配。ドスで刺されたかのような低い声が体を貫く。

 僕の後ろに立っていたのは、茶髪の男子。僕を見下ろしていた。


「あっ、うんうんそうだよね! ほら、みんなも歓迎しているよ。はい流世君も参加決定!」

「な……ぼ、僕は行か」

「茉森が誘っているのに断るとかねーわー。みんなもそう思わね?」


 男子が僕の言葉を遮り、露骨に声量を上げて教室中を見渡す。

 全員がこちらを見下ろし、数人の男子が賛同するように声を荒げる。


「空気読めない奴っているよな」

「つーか呼ばれるだけありがたいと思えよ」


 向こうは向こうで声が大きい。相手に聞こえるようにして言う陰口が僕に向けられていた。

 そして教室全体から漂う嫌な空気。その原因がまるで僕一人だけのせいだと言わんばかりの数多の視線が突き刺さる。


「空気が読めないってさ。酷いこと言っているけど気にせず行こーよ!」


 木葉さんだけは笑う。優しいのだろう。木葉さんだけは僕を邪険に扱っておらず平等に接してくれている。

 その優しさが誰よりも何よりも僕に一番深く突き刺さっていることも知らずに。木葉さんは純粋無垢な笑みを浮かべていた。深い意味もなく僕を照らす。


「だから僕は行かない」

「つべこべ言わずに来いよ」


 絶対に参加しない、頑なに断り続ける……僕の足に痛みが走る。木葉さんには見えない位置。後ろの男子が足を踏みつけてきた。


「っ、っう……」

「最近また茉森と話しているよな。何様だよ。陰キャのくせに」


 足の指が折れそうな程の痛み。耳元で囁かれる男の脅すような声。


「おとなしく従えよ。お前に拒否権があるわけないだろ」

「僕は……」











 二度と行くことはないと思っていた学科の飲み会。


「それじゃあ今日はみんな来てくれてごっつぅありがとう!」


 大型の居酒屋、三階の貸切部屋。座敷を埋め尽くす二十数人の同級生。全員が注目する先には、グラスを片手に意気揚々と乾杯の音頭を取る学科一の人気者。木葉さんは笑顔で叫ぶ。


「かんぱーい!」


 その声に続き、他の人達は乾杯を始める。四方の人としきりとコップをぶつけ合っていた。

 僕は、テーブルの端っこにいる僕は誰とも乾杯の喜びをぶつけ合うことがない。


「……」


 ピッチャーから注いだ黄色い液体と白い泡。ビール。この一年間で何杯飲んだだろう。

 覚悟を決め、口に含む。


 ……やっぱり不味いよな。


 気持ち悪いとしか感じない味。いつも部屋で飲んでいるモノと同じとは思えない程に苦かった。

 この苦さ。この気持ち悪さ。当時の僕にはこれしかなかった。不味いビールを飲むことで仲間になれたと思っていて、美味しく感じる頃には一人ぼっちに戻っていた。

 本当、馬鹿な大学生だったよ。


「やーやー流世君。ちゃんと飲んでるー?」


 開幕から最高潮に達した学科飲み。まるで漫画の宴の如く、どのテーブルも盛り上がっている。

 居場所がない僕に、話しかけてくる人が一人。

 肩に腕を回し、手には瓶ビール。一メートルにも満たない近い距離で笑顔が輝いていた。


「……木葉さん」

「まだグラス空いていないよ?」

「……」


 グラスの中身を飲み干せば、すぐに新たなビールが注がれていく。笑顔と共に。


「お、良い飲みっぷりだね。その調子で二杯目をどーぞ!」


 あの頃から変わらない天真爛漫の素敵な彼女の表情。

 この笑顔の為ならば。何杯でも飲むつもりだった。いくらでも飲んで吐いて盛り上げて飲んで、彼女に尽くしたいと思った。


「続いて三杯目いってみよーか」


 過去は変えられない。覆ることはない。

 だけど昔の僕とは違う。過去は変えられなくても今は変えられる。今は変わった。


「僕はもういいよ。他の人に注いであげて」


 ビールの美味しさを知った。自分のペース、自分が好きなシチュエーションで、本当の友達と一緒に飲む楽しさを味わえている。

 ここに僕の居場所はないけれど、他にはある。それで十分だ。今の僕は幸せだ。


 だから、今度は僕が言ってやる。


「えー? 飲まないと飲み会じゃないじゃん。楽しもーよ」

「木葉さん」

「何?」

「僕に話しかけないで」


 昔は僕が悪かった。哀れだった。必死だった。

 今は違う。君以外に、君以上に、大切なものがあるんだ。

 もう僕を苦しめないでくれ。


「……えー? どうしてそんな酷いこと言うの?」

「お互い様だね」

「……流世君がこじゃんと冷たいなー」

「別に」

「……」

「僕に構わず他の人と話しなよ。というか僕に構わないで」


 やり返していると思われても仕方ない。嫌な奴だと自分でも思う。

 知ったことか。どうせ僕は陰キャで根暗で学科一の嫌われ者だ。性格が悪いと思われても関係ない。


 関係ないね。木葉さんにどう思われようが。

 君に応えようと必死だったのは昔の話。今は君の為に飲み暴れるつもりはない。

 今の僕は、この飲み会をやり過ごしてさっさと家に帰りたい。その一心のみだ。


「アタシ、流世君に飲んでほしーな」

「飲まない。どこかに行って」

「……また後で来るね」


 木葉さんは僕から離れて、元いた場所へと戻る。

 これでいいんだ。はぁ……早くラストオーダーにならないかな。


「お、ここ誰も座ってねーじゃん」


 テーブルに叩きつけられる満タンのジョッキ。並々に注がれた透明の液体から漂うアルコールのキツイ臭い。


「何言ってんだ、空いているに決まってるじゃん。こんな奴の隣に座る奴なんざいねーだろ」

「そりゃそうだ。俺らが一緒に飲んでやらねーとな」

「なあ、水瀬」


 焼酎を持って僕の隣に座る男子数人。敵意を含んだ威圧的な態度で、僕を囲む。


「……何か用」

「さっき学校で言ったの忘れたか? 陰キャのくせに調子乗るな」


 ……。


「お前は呼んでもらえるだけありがたいとだけ思っていろ。一年前、大暴れして俺ら行きつけの店を出禁にしたんだからよぉ」


 悪意のない木葉さん。ある意味それは優しいとも言える。

 こいつらの言葉には悪意と敵意しかない。ひしひしと感じる。僕のことを馬鹿にしに来たんだ。


「反省しているよ。言われた通り、二度と学科飲みには行かないつもりだった」

「じゃあなんで今ここにいるんだよ」

「それは君らが呼ん」

「俺らは歓迎してねーよ。お前なんかな」


 男達が僕を睨んでいた。


「……それなら僕は今すぐ帰るよ」

「おいおい待てよ。話はここからだ。なあ水瀬、お前まだ気づいていないのか」

「何を……」

「マジかよ。ウケる。哀れだな」

「ぎゃはは」

「よっ、さすが陰キャ君」


 同級生の男子達はニヤニヤと笑う。嘲笑混じりの意地悪い笑みで僕を取り囲む。


「あの日の出禁が自分だけのせいだと本当に思っているのかよ」


 舐めるようにちびちびと焼酎を啜り、茶髪の男子が口元を歪ませる。

 僕のことを馬鹿にすると同時に、彼らが放つ言葉には何かが含まれていた。


「……どういうことだ」

「あの日、暴れていたのはお前だけだったか? 俺らも騒いでいただろ? 前々から店員に目をつけられていてな。出禁を食らったのは俺ら全員が原因なんだよ。だが俺らはお前だけを悪者にした」

「……」

「お前が酔っぱらって寝ていたから助かったぜ。おかげで都合良く責任を押しつけられた」


 語られるあの事件の真相。


「満場一致だったよ。お前だけのせいにすることに」

「お前が好きな茉森もお前を裏切ったんだよ」

「お前はお前で、自分が悪いー自分のせいだーと落ち込んでいたよな。見ていて痛快だったぜ」


 ここぞとばかりに、ネタバレしてやると言わんばかりに、男達はゲラゲラと笑う。


「最初から気に食わなかったんだよ。陰キャのくせに俺らと対等のように飲み会で飲みやがって」

「自分の立場分かってなかっただろ。お前ごときが俺らや茉森と仲良くなれるわけないだろ」

「どうだ? 衝撃の事実だろ?」

「悪かったなぁ、水瀬。ぎゃはは」


 僕を馬鹿にしている。今になって真実を語ることで僕がさらに惨めな思いをすると思っているのだろう。

 本当、馬鹿な大学生だったよ。


 僕も、お前らもな。


「別に」

「なんだと?」


 別に構わないよ。今更どうってことない。


「謝らなくていいよ。僕は何とも思わないから」


 僕と君らは住む世界が違っていた。僕が一人だけ悪者に仕立てられたことは当然だろうね。


「寧ろ早いうちに気づかせてくれてありがとう」

「……テメー」

「で、話はそれだけ?」

「陰キャのくせに堂々とした態度を俺らにしてんじゃねぇよ!」

「普通に話しているだけだよ」


 胸ぐらを掴まれる。男子が脅してくる。

 そうやって僕をまた悪者にするつもりかな。いいよ、悪口を言っても何をしても構わない。

 たが、僕を苦しませたいのなら無駄だ。


「僕なんて無視して飲み会を楽しみなよ。木葉さんみたいにさ」

「テメー……! はっ、上等だよ。おい茉森、こっち来いよ!」

「ん? 呼んだ?」


 名前を呼ばれた木葉さんが僕らの方へやってきた。

 目が合い、僕は咄嗟に目を背ける。


「何を話しているの? アタシも混ぜて!」

「いやー、実は茉森に頼みたいことがあってな」

「あ、分かった。お酒が飲みたいんだね。注いであげるー!」

「ああ、俺らはいいから水瀬に注いでやれよ」


 木葉さんが嬉々として空いたグラスに向けて瓶ビールを傾ける。僕が止める間もなく並々と注がれ、続けて男子達が焼酎のグラスを並べる。


「おい水瀬、全部飲めよ」

「俺らがコールしてやるからよぉ」


 な……っ。


「好きな子が注いでくれたんだぜ? 絶対に飲めよ」

「おーいみんな! 今から水瀬がイッキ飲みするってよ! コールしてやろうぜ!」


 学科飲みは彼らのホーム。というよりも、僕だけが完全にアウェーの状態。

 他の人達も状況を把握したのか、声を揃えて一斉に声コールを始める。もう止まらない。


「僕は飲まな」

「えー? 流世君飲んでよ」


 木葉さんが悲しそうな顔をする。

 耳痛くなる程にうるさいイッキコール。その中で、男達が僕の耳元で囁く。


「茉森の飲ませっぷりは知っているだろ。俺らいい加減ウゼェんだわ」

「つーわけでお前が俺らの代わりに飲め。あの日と同様、犠牲になってくれよ」

「安心しろよ。酔い潰れても悪いのはお前だけだ」


 男子共のニヤついた笑顔。木葉さんの期待する眼差し。コールは収まらない。

 誰もが僕を見ていて、どこにも僕の味方はいない。分かっていた事実だが、改めて目の当たりにするとキツかった。


 僕の居場所はどこにもなく、そして、どこにも逃げ場はない。目の前には大量のビールと焼酎。


「お前は飲むことしか出来ないだろ」

「ほら、また醜態を晒せよ」


 悪意ある命令。脅す声。


「イッキ! イッキ!」

「さっさと飲めー!」


 急かすように煽る。暴力よりも凄惨なコールの嵐。


「流世君、飲もーよ!」


 悪意のない無垢で快活な声。笑顔が咲き浮かぶ。


 逃げ場がない。無茶な飲み方をして、酔い潰れて、最後にどうなるのか、この場にいる全員が待っている。

 ……木葉さんの言う通り、みんなは僕を待っていた。僕がまた惨めな姿を晒すことを楽しんでいる。


「僕は……」

「流世君、早く飲んで」

「っ……」


 ビールが苦い。不味い。苦しい。辛い。

 僕は知っているのに。ビールの美味しさを、誰かと一緒に飲む楽しさを。


 分かっているのに、手がグラスを持つ。飲まなくちゃいけないという脅迫に体の自由を奪われていく。


 僕は…………。











 お皿とグラスがひっくり返る。



 あらゆる物が吹き飛び、僕の隣にいた男子の体は蹴り飛ばされる。音を立てて床に叩きつけられる。




「俺の親友を」



 激しく巨大な、テーブルを踏みつける音。テーブルに片足を乗せ、部屋全体を見下ろし蹂躙する長身の大男。

 


 そして、


 美女子大生が手首を掴む。グラスを傾けようとする僕の手を止めてくれた。


 金の束を重ねたかのようなピンクベージュの眩しい髪。翻し、宙を舞う。

 凛として鋭く小さな声。まるで小さい鈴が鳴るかのように。




「私の友達を」



「「離せ」」


 声を揃えて並ぶ。不知火葱丸。金束小鈴。大切な友達が僕の両隣に立っていた。

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