75 学科一の人気者
講義を受ける際に座る席は自由に選べる。真面目な学生なら前の方に座り、やんちゃな連中は後方の席を陣取る。
すると何気ないうちに、暗黙のうちに自分の座る定位置が決まっていく。自分の存在価値が定められていく。
最前列の端っこ。そこが僕の席だ。
意識して目を向けなければ見ることがなく、そして目を向ける人はない。誰にも声をかけられず、僕自身が声を出すこともない。
無言で無音、存在感を消して講義が終わるのをじっと耐える。毎日その繰り返し。延々と。自宅でも教室でも僕は一人ぼっちだ。
そうして一年が経った今、僕の前に、あの人が立つ。
「おはよう流世君」
意識しないようにしてきた。じっと耐えてきた。
姿を見たら、声を聞いたら。あの頃の全てを思い出す。あの頃の苦い記憶と、初めて飲んだビールの苦さを。
「無視しないでよ流世君。はい、せーの、おはよう!」
それなのに。どうして今になって話しかけてくるんだ。どうして僕の前に立つんだ……。
講義が始まる数分前。駆け寄ってきた一人の女子大生。
視線を合わせてくる。笑みを向けてくる。居場所のない僕に、木葉さんは天真爛漫の満面な笑みを浮かべてきた。
「……おはようございます」
「敬語やめよ? アタシら友達じゃん」
「……」
木葉茉森。彼女は経済学部一の人気者。快活な笑みと声は見る人聞く人を明るくさせる。誰に対してもフレンドリーで、誰とでもすぐに仲良くなれる。ボッチの僕であっても。
この華やかさに惹かれた。この人の優しさに惚れた。今でも思い出す。顔を見ただけで全ての記憶が溢れてくる。吐き気がする程に。
「元気ないね? 昨日最初見た時はなまら楽しそうだったのに」
「……」
「カラオケ大会見た? アタシ決勝まで行ったんだよ。あと少しで優勝だったのにな。ぶち悔しいの!」
誰も僕に話しかけてこなかった。この一年間、そして一年前。
だけど木葉さんは話しかけてくる。話しかけてくれた。笑みを浮かべ、目元を垂らし、素敵な表情を僕に見せる。
「それでね、昨日一緒にいたスズちゃんだけど」
「おい茉森、今日はいつになく元気だな」
木葉さんの隣に男子学生が立つ。挨拶代わりにチョップをかまし、それに対しても木葉さんは快活なスマイルで返す。
「えー、そうかな?」
「マジマジ。つーか予想外」
予想外。そう言った男子は一瞬だけ僕を見た。その一瞬のうちに、そいつの言いたいことが詰め込まれていた。
こいつなんかに話しかけるなよ、と。
「アタシはいつでもべらぼうに元気だよ! 今日も頑張ろーね!」
「茉森テンション高すぎー。席に戻ろうぜ」
「教授が来てないしまだ時間あるじゃん。アタシは流世君とお喋りを」
「トイレ」
僕は席を立ち、短く呟いて教室の出口に向かう。
「あっ、待って流世君」
「トイレって言ったじゃん。そっとしておけよ。大きい方かもしれないし」
「朝から下品なこと言うのでたんサイテーっ」
純粋に笑う木葉さんとは違う。男子は嘲笑っていた。僕を馬鹿にした、見下した、下劣な笑い方。そして他の人はクスクスとヒソヒソを露骨に混じり散らして僕を見る。
僕は耐えて、ひたすら耐えて、消え入るようにして教室を出た。
「……ほらね。こんなにも惨めだ」
閉めた扉の向こうで今も聞こえる笑い声。耐えきれなかった。あの場に留まることが出来なかった。
木葉さん以外、誰も僕に話しかけない。だけど彼らの目を見れば分かる。声に出さなくても言いたいことが伝わってくる。お前なんかが調子に乗るな、あんな醜態を晒したくせに、と……。
そっとしておいてほしい。無関心よりも馬鹿にされる方が遥かに辛い。どうして話しかけてくるんだ。
木葉さんのせいだ。そう思おうとして、それは違うと思い知らされる。
「あの人に悪気も悪意もない。悪いのは、僕だ」
講義が始まった教室に入って失笑される。恥ずかしい思いをした。けれど時間が経てば問題ない。いつも通りの一人ぼっちに戻れる。
「政経のレポートって今日までだろ?」
「マジか。一文字も書いてねーわ」
「次は休講で助かったな。一緒にやろうぜ」
「その前に一服してぇ」
騒がしい教室、談笑する同級生。講義が終わり、僕はすぐに教室を出た。
経済学部棟の階段を走り下り、一階の正面玄関手前で足が止まる。レポートの提出期限が今日までだったことに気づく。
「今ならまだ誰も来ていないだろうし、今のうちに出しておくか」
行き先を変更。学務室前の廊下に設置されてある提出ボックスへと向かう。
早くしないと他の人達がやって来る。誰よりも先に提出し、誰にも会わずに帰りたい。
これが終わったら家に帰ろう。家で一人、落ち着こう。一人惨めになっていればいいんだ。
鞄からレポート用紙を引っ張り出し、提出ボックスの投函口へと押し込む。
「あっ、レポートに名前を書き忘れているよ」
視界の横から現れた手。血色良いピンクの爪に描かれた木と花のネイル。すらりとしなやかな白い指がレポート用紙を掴む。
「っ……」
「危うくだったね。アタシが気づいて良かった」
眩しい微笑みを浮かべる木葉さん。また僕に笑いかけてきた。話しかけてきた。
「名前を書き忘れるとは初歩的なミスだね。まだまだだのー流世君よ。アタシが書いてあげる!」
木葉さんが提出ボックスの上に乗せたレポート用紙にペンを走らせる。
丸っこく、やや崩れた書体。途中で止まったり迷うことなく『水瀬流世』と書き、愛嬌したたる笑顔で僕に用紙を返してきた。
「これで良しと。まっさか綺麗に書けたよっ。どうかな?」
「……ありがとう。木葉さん」
「あ、また名字で呼んでる。もっとフランクに話しかけてよ」
喜色浮かべていた笑窪を引っ込ませて入れ替わりに頬を膨らませる。眉を吊り上げてムッとした表情にも可愛らしさと色気があり、目が離せなくなる。もう見たくないと思っても意識は奪われてしまう。
「流世君帰るの速いから追いかけるの大変だった」
平然と近づいてきて真正面から遠慮なしに愛嬌を放つ。柔和で人懐っこく、屈託のない彼女の笑顔。ぞくっとするような魅惑。分かっている。それなのに。
「間に合って良かった。昨日は学園祭デートの邪魔をしてごめんね。それを言いたかったのだ!」
木葉さんに悪気はない。悪意もない。騙す気も惑わすつもりも毛頭ない。
分かっている。それなのに。彼女を中心に世界が回り始める感覚を止めることが出来ない。惑わされてしまう。舞い上がってしまう。その華やかさと天真爛漫な姿に。
「流世君ずうっと黙ってる。ねーねー喋ってよ。スズちゃんのこと聞きたい」
同級生に辛辣な目を向けられる。教室で自分の居場所がない。存在価値がない。
そんなの些細なことだ。この笑顔に比べたら。
耐えられない。堪らず、我慢出来ず、僕は口を開く。
「喋る? 自分が言ったことを覚えていないの?」
「アタシが?」
「一年前、木葉さんは僕に」
「待って。こっち来て!」
僕の言葉を遮り、木葉さんが僕を掴む。引っ張って廊下を走りだした。
「何を、っ」
「しーっ。流世君ちょびっとご静粛に」
廊下の曲がり角に身を隠し、木葉さんが僕の唇に指を添える。
彼女のパッチリとした瞳が横へと逸れて、その先から聞こえてきたのは数人の話し声。
「それグローってやつ?」
「ちげぇよ、プルテだよ。これ全然吸った気にならねぇの」
「じゃあなんで買ったんだよ」
タバコを取り出しながら階段を下りてきた同じ学科の男子達。談笑混じりにこちらへと向かってきていた。
「喫煙所そっちじゃねぇぞ」
「こっちから行こうぜ。提出ボックスを見ていきたい」
「あ、写すつもりだろ」
「まあな。どうせあのクソキメェ水瀬は出してあるだろ。引っ張りだそうぜ」
「……ちっ、まだ誰も提出してねーわ。ウチの学科は駄目な奴ばかりだな」
「それ俺らが言う? ついでにトイレ行こうぜ」
「便所で火を点けるなよ。教授が個室にいる可能性がある」
提出ボックスで一度立ち止まり、再び歩きだす。僕と木葉さんがいる方向へと。
「あー、こっち来るっぽい。隠れなきゃ。流世君こっちへゴー!」
「は、離し」
言葉途中に連れていかれる。木葉さんがトイレへと入っていき、って、ここは男子トイレ……!?
「ん? さっきトイレに行くって声が聞こえたような」
「ど、どうして入ったの」
「シンプルにアタシのミス! まーまー、隠れよーか」
男子トイレの個室。そのうちの一つに入り、鍵をかける。僕と木葉さん、二人で……。
続けざまに聞こえてくる、先程よりも大きな声。男子達がトイレに入ってきて、そうなると僕らはここから出ることが出来なくて…………は、はあ!?
「流世君、しーっ、だよ」
狭い個室。眼前で木葉さんが自身と僕の唇に指を添えて悪戯っぽく笑みを浮かべた。




