74 天真爛漫の華やかな少女
体が固まる。泥沼に落ちたかのように。
息が止まる。喉をロープで絞めつけられたかのように。
少しでも震えようものなら余計に沈み込み、もがき苦しもうとも息は継げない。苦しい。辛い。気が狂いそうになる。
それは僕が勝手に陥っているだけ。
その人は笑っていた。
泥に沈む僕を、満面の笑みで照らしていた。
「いつも授業で一緒だけど話すのはめちゃ久しぶりだね。そうだよね、流世君」
「……そうだね、木葉さん」
内巻きと外巻きをミックスさせたイエローオレンジの茶髪。陽を浴び、そよ風に吹かれ、花冠をモチーフにしたリボンカチューシャは彼女の雰囲気を彩り、木の葉が自由気ままに舞い踊る。
くっきりとした二重。瞳は棗のように丸っこく、真珠のように涼しく爛々と、目が合えば途端に吸い込まれる。あどけなく爽快、あっけからんとした微笑みに圧倒される。
彼女の名前は木葉茉森。僕と同じ学部学科の同級生。
……僕が好きだった人。
「木葉さん? むっちゃ余所余所しい呼び方だ。以前はアタシのこと茉森って呼んでくれたじゃん」
あの頃と変わらない笑顔。あの頃と違わない口調。雅やかであり爛漫と咲き溢れる。笑い方、声音、どれも一年前と同じ。
僕は言葉を返せない。みっともなく弱々しく、変わり果てた声が唇に張りついてしまう。黙ってしまう。
「……」
「流世君? もしかして一年前のこと気にしてる? まーまー、終わったことだし忘れよーよ」
僕に話しかけてくれる。笑いかけてくれる。
それは裏を返せば、もうどうでもいいことなんだ。この人の中ではもう終わったこと。気にもしていない。僕に対して気さくに笑顔を振りまいて話しかけるんだ。
いや、誰に対しても気さくに優しく声をかける。君はそういう人だ。
「そう、だね……」
誰に対しても優しくて明るくて、すごい人なんだ。
だから僕は惹かれて、僕は今こんなにも惨めで……。
「ねーねー、ちょっと一緒に見て回ろーよ。アタシ、カラオケ大会に出るんだ」
快活な声に続き、彼女の手は僕の手を掴む。躊躇なくぎゅっと握って……っ。
「でら練習したから見に来て」
「僕は……」
握られた手をどうすることも出来ない。木葉さんが言うがまま、されるがまま、連行されていく。
僕は…………。
「水瀬を離しなさい」
冷たく透き通り、怒りを混ぜた声。
固まった体が動く。引きずられていく体が反応する。声と共に掴まれたその人のその手の温もり。振り返った先には華やかで眩しくとも、優しさと温もりを感じさせるベージュ色の綺麗な髪。
救われた思いがした。
「っ! 金束さ」
「誰よアンタ!」
「ひぃ!?」
金束さんは僕にではなく木葉さんに向けて声を荒げている。分かっているのに僕は悲鳴をあげてしまった。
それ程に、金束さんの怒りオーラが恐ろしかった。
こ、金束さん、怒っ……!?
「アタシ?」
「そうよ。水瀬から離れて」
僕を連れていこうとする木葉さんに声と睨みをぶつけるのは金束さん。間に割って入り、僕を隠すようにして木葉さんの前に立ち塞がった。
「ん? どこかで見たこと……あっ、金束小鈴ちゃんだよね?」
一方で木葉さんは毅然としたまま大して驚いていなかった。突然現れた金束さんに対して動揺も困惑も一切見せず、それどころか笑顔で対応する。
「会うのは初めてだね。本当に美人なんだ! よろしくスズちゃん」
「どうして私の名前を」
「ばり美人だって評判だよ。アタシの友達がめちゃんこ言ってた。あっ、アタシの名前は木葉茉森!」
「アンタの名前なんてどうでもいいわ。水瀬を離しなさいよ」
笑顔で友好的な木葉さんとは真逆の態度。日凪君に会った時よりも激昂した声を聞いて、顔を見なくても金束さんがどんな表情しているのかが分かる。
金束さんはとてつもなく怒っている。そして、金束さんの手は温かった……っ。
「え、どうして?」
「どうしてって、はあ? 分からないの?」
「だってアタシと流世君は友達だもん。一緒に学園祭を見て回ろうとしているだけだよ」
木葉さんは僕の手を離さない。笑顔のまま、友達だと言う。笑顔も手も声も全てが簡単に彼女から放たれる。
苦しかった。気が狂いそうになった。ついさっきまでは。
今は少し和らいでいた。木葉さんに掴まれた手とは反対の手を、金束さんが強く握ってくれているから。
「もしかしてスズちゃんは流世君の彼女?」
「かっ、かかか、彼女じゃ……ない……まだ……」
「そうなの? 彼女じゃないならいいよね」
「……良くないわよ」
「えーなんで?」
「分からないの? ふざけないで。何が友達よ」
「水瀬が……水瀬が辛そうにしているのが分からないの!?」
っ……金束さん……。
「アンタの名前とかどうでもいい。水瀬が苦しそうにしている。水瀬は嫌がっている。それだけは分かる。それで十分よ。……水瀬に近づかないで。私の友達を離しなさい!」
その言葉が深く突き刺さる。怒りをぶちまける金束さんの言葉に含まれた詰め込まれた思いが、温かさが、優しさが、嬉しくてたまらない。
「いーよ」
「……は、はあ!?」
「はい、離した」
躊躇なく掴んだ手を、木葉さんは呆気もなく離す。数歩下がって変わらず快活とした笑みと声を向ける。
「アタシもよく分からないけど、流世君とスズちゃんは一緒に回っていたんだよね。邪魔したらえれぇ悪いってことだけは分かった。じゃあね流世君。ちょびっとだけど久しぶりに話せてごっつ楽しかった。また授業でね!」
快活とした笑みと声。眩しすぎる程の爛漫とした姿で踵を返す。
「なっ……ま、待ちなさいよ!」
「金束さん」
「まだ話は」
「金束さん!」
「っ、水瀬……?」
「いいんだ。木葉さんは何も悪くない」
あんなことがあったのに声をかけて、いきなり手を握り、僕を連れていこうとした。それなのに呆気なく手を離して、全く意に介さない態度で去っていく。
あの頃と変わらない。自由気まま、思うがまま。そういう人なんだ。
「あっ、カラオケ大会は見に来てほしーな! スズちゃんも来てねー!」
去っていく木葉さんがこちらを振り向き、最後にもう一度笑顔を振りまいた。そのまま人混みの中へと姿をくらませる。
本当に変わっていない。何一つ変わっていない。あの笑顔、あの懐っこい声、誰とでも仲良くなる。
まるで嵐のように来て去っていった。
残された僕は、かき乱された僕は、突っ立ったまま硬直して……。
「行くわよ」
「っ、う、お……!?」
突っ立つ僕を金束さんが引っ張る。
もう片方の手に残ったあの人の手の感触と脳裏に焼きついたあの人の笑顔は消えないけれど、今は金束さんの全てに飲み込まれていく。
握られた手。冷たく不機嫌な声。鼻掠める匂いと毛先。僕の心を上書きしていく。
「……」
「ど、どこに行くの?」
問いかけても金束さんは答えない。人混みをかき分けて早足に進んでいく。汗が滲んで頬が熱い。
賑やかな学内を無言で突き進み、僕らは人通りの少ない中庭へと戻ってきた。その中庭も通り過ぎていき、さらにその先にある第二体育館の裏側へと回る。
「こ、金束さ……」
「うるさい。黙って」
普段なら部活生が練習に精を出す第二体育館は閉まっている。ましてや雑草が生い茂る裏側で、しかも今日は学園祭。誰もいなかった。僕と金束さんの二人だけ。
喧騒どころか人の声すらも届かないような場所。金束さんの足はようやく止まった。振り返り、僕を睨んできた。僕は汗が止まらない。
「勝手にどこか行かないでよ!」
「ひぃ!? ぼ、僕も急に連れていかれて……」
「探すの大変だったんだから! ……見つかって良かった」
今更になって気づく。金束さんの髪が乱れていることに。木葉さんに連れられた僕を探して走ったんだ。
「ご、ごめん、髪が」
「うるさい」
「でも僕のせいで、っ、こ、金束さん?」
「うるさい! 黙りなさい! ……黙って落ち着きなさいよ」
金束さんが両手で僕の手を包み込む。そして身を寄せてきた。
僕はたまらず仰け反ってしまい、体育館の壁ともたれかかる。それでも金束さんは詰め寄ってくる。僕の手を包んだ両手を胸元に引き寄せて体重を預けてきた。
「お、落ち着けないよ。どうしたの金束さん」
「アンタの方がどうしたのよ」
「ぼ、僕は大丈夫だから」
「違う。大丈夫じゃない」
「何を言っ」
「さっきの女と何があったのか、アンタのこと名前で呼んでいたあの女がアンタに何をしたのか。色々聞きたいことはあるわ。でも、今は」
「水瀬が泣いている……」
そう言って顔を上げた金束さんは苦しそうな表情を浮かべていた。ぐちゃぐちゃに歪んだ顔、今にも涙が零れそうな瞳で僕を見つめてきた。
「僕が? いや、泣いていな…………っ」
今更になって気づいた。それまで気づかなかった。
自分の頬を塗らすのが汗ではなく、自分の目から零れた涙だったことに。金束さんの表情が歪んでいたのではなく、僕の視界がぐちゃぐちゃに潤んでいたことに。
僕は泣いて……。
「あ……っ、泣いていない」
「泣いているじゃない!」
「泣き上戸の金束さんに言われたくない」
「わ、私は泣き上戸じゃな、私のことは今はいいの! とにかく落ち着きなさいよ!」
「こ、金束さんが落ち着いて」
「うるさいうるさい! 早く泣きやみなさいよ。でないと私が泣くわよ!」
「はひぃ!? 何をそんな……こ、金束さ……」
「私はずっとこうしているから。私がいるから。もう大丈夫だから。水瀬、泣かないで……」
瞳から涙が溢れる。涙が零れる。頬と乱れた髪が涙でくっつく。
僕も涙が止まらない。あの人に会った。変わらない姿を真正面から見た。変わらない過去を思い知らされた。
涙が止まらない。
「水瀬……っ」
「こ、金束さんの方が泣いているね」
「うるさい。いいから私に寄りかかりなさい」
「どちらかというと金束さんが僕に寄りかかっている体勢だけど」
「うるさい! 馬鹿、っ、ぐすっ」
木葉さんに連れていかれそうになった僕を、金束さんは見つけてくれた。僕の手を掴んでくれた。
もし金束さんが来てくれなかったら、そう考えると恐ろしくなって、金束さんが来てくれたことが嬉しかった。救われる思いがした。
「あ、あはは……。うん、落ち着かせてもらうね」
「うん……っ」
仰け反っていた体を前へと倒し、金束さんに寄りかかる。空いた手を背中に回す。肩に顎を乗せる。手を握り合う。触れ合う。
涙が止まらない。けれど辛くて苦しいわけじゃない。
金束さんの優しさがすごく嬉しくて、いつまでも涙が止まらなかった。




