70 アルバイト開始
僕が足繁く通う居酒屋。暖簾をくぐると、豹柄の服とエプロンを着たおばちゃんが出迎えてくれた。
「あらあら流星群やんか~。いらっしゃい」
「客として来たのではありませんよ」
「そやった。今日から店員としてよろしくー」
おばちゃんの名前は土筆こもろさん。お店の名前は『飲み処-つくしんぼ-』。
今日から僕はこのおばちゃんの下、このお店で働く。
「ちゃんとした接客業は初めてなのでご迷惑をおかけしますが何卒よろしくお願いします」
「流星群は真面目なんな~。リラックスしてーなー」
数日前、何か良いバイトはありませんかと相談したらおばちゃんに「じゃあウチで働きんさい」と言われた。その場で飲みながらの面接を経て今日に至る。
「何をすればよろしいでしょうか」
「料理を運んだりお皿を下げたり狂い踊ったりすればいいよん」
「や、踊ったりはしません」
「じゃあせめて狂うだけでもやって」
「アルバイトに何を求めているんですか」
「面白さ」
「僕に最もないものですね」
「確かに。流星群やっぱ不採用で!」
「ひ、酷い」
「冗談じょーだん。気楽にやってくれたらええよーん」
おばちゃんはニコリと笑う。
常連のお店が仕事場になるのは多少なりと気が引けたが、おばちゃんは優しそうだし良かったと思う。ここには大学生も来ないだろうし。
よしっ、これからお仕事頑張ろう!
「よろしくお願いします」
「よろしくやんなー。……へっへっへ、雑用係として給料分以上にこき使ってやろっと」
おばちゃんはニコリと笑う。……その笑みが一瞬、悪人面に見えたけど僕は気にしないことにした。
「お待たせしました、酢モツとレバニラ鉄板です」
メインストリートから小道に入った場所にあるとはいえ『飲み処-つくしんぼ-』はそれなりに繁盛していた。常連っぽいおじさん方がおばちゃんとのトークを楽しむ。
「う、うぅ、娘が『パパの服と一緒に洗濯しないで』と言うんだ……」
「ひゃははっ、それまだマシな方や。そのうち『パパと同じ空気吸いたくない』言うから今のうちに時給式呼吸器をポチっとき」
「先日、妻が誕生日プレゼントをくれたんだ。久しく貰っていなかったから嬉しかったなぁ」
「それ浮気している証拠だよーん。浮気に引け目を感じているから少しは旦那に優しくしてやろー思うとるだけなんなー、ひゃっはは!」
おじさんの悲しげな相談や照れ混じりの自慢を、おばちゃんは大笑いしてさらには追撃やら余計な一言をかましている。とんでもない店主だ。
それでもおじさん方はお酒とトークが進む。居酒屋というよりはスナックのような店内の雰囲気を目の当たりにし、おばちゃんの高い接客スキルに舌を巻く。
「流星群お皿下げてーや」
「は、はい」
まあ僕に店内をじっくり眺める暇はない。お皿を下げては洗い、キッチンから次々と出てくる新たな料理を運ぶ。忙しなく動き回って自然と汗が滲んできた。意外にキツイ……。
「こもろ姉さん、バイト雇ったの?」
「そうそう。この子が大学留年して奨学金が貰えなくなって大変そうだったから仕方なく雇ってあげたんよ」
いやホントとんでもない店主だな。ごく自然な口調で嘘を吹聴しやがった。しかもなんかリアルだ。僕は留年しておりません! そこそこ真面目な大学生ですけども!?
「こもろ姉さんは優しいねぇ」
「アンタんところの娘はアンタに優しくないけどなブハハっ」
「こもろ姉さんそれはちょっと酷いよー」
「酷いのはアンタんところの嫁やで。だって浮気しとるもんブハハっ! あ、流星群ゴミ出しといて」
日凪君のよりも達者な口、月紫さんよりも強烈な毒舌、それに加えてしっかりとした悪意、他人を貶しては大笑いし、隙あらば僕に雑用を押しつけてくる。
……僕はもしかしたらバイト先を間違えたのかもしれない。もう手遅れだけど。
「お疲れさんトリー黒ラベル」
「どうもっす」
時刻は十時半。開店直後から長居していた常連さん方は帰っていき、店内は静かになる。
ようやく休憩出来そうだ。僕は額の汗を拭う。
「鉄板は焦げの汚れが落ちにくいからしっかり洗いんさい。あとテーブルも汚れとる。バッシングは手を抜くのは許しまへんー」
まだ休めそうにありませんでした。いやめちゃくちゃ働かされるやん。元常連とはいえ遠慮が全くない。何が気楽に働けだよ。気楽とは真逆の労働環境だ。
「新人の頃は何かと大変やけど慣れるまでの辛抱なんよ」
「それっぽいこと言って激務を誤魔化していません?」
「上司に向かってその口のきき方はなんや!」
「それっぽいこと言いますねぇ……!」
コソッと宣言した通りに僕をこき使ってくる。僕は逆らえない。ぐっ、おばちゃんめ……。
「今指示したのやり終わったら休憩していいよーん」
「はいぃ……」
とはいえバイト初日はこんなものだろう。おばちゃんの言う通り、慣れるまでの辛抱だ。……バックレようかなぁ。
「いらっしゃー……あらまぁまぁ」
初日でバックレたという人をネット掲示板でよく見かけるが、実際そんなこと出来る人はいるのだろうか。何その胆力すごすぎる。そのくせその日の給料はしっかり請求するんでしょ? 何その胆力すごすぎる。
「すぐに来るとは思わなかった。あらあら、あらあらまぁまぁ~」
等と考えながらバッシングをする僕の背後でおばちゃんの嬉々とした声が響く。
お客さんが来店したらしい。あぁ、休憩が遠のいた。
「ほら流星群もいらっしゃいませー言えやー」
「はいはい。いらっしゃ……い?」
「……ふん」
入口に立っていたのは長髪の美女子。金束さんだった。
「一人で来たの?」
「ふんっ」
「え、えぇ……?」
「……水瀬がバイトここで始めたって聞いたから様子を見に来てあげたわ」
金束さんはそう言うと、僕から顔を逸らしてもう一度「ふん」と言う。
「あれ? 僕、金束さんにバイト始めたこと言っていないと思うんですが」
「こもろちゃんに聞いたわ」
「てへっ、ぺろっ」
ぐっ、おばちゃんめ……! 別に言うのは構いませんが、言ったならその旨を僕に報告すべきなのでは?
しかしおばちゃんは悪びれた様子もなく舌を出して通称・テヘペロをする。年不相応ですって……。
「バイト始めたなら言いなさいよ」
「や、その、言うタイミングがなかったから」
「客に向かってその口のきき方は何よ。今は店員でしょ」
「うぐぐ、い、いらっしゃいませ。どうぞ空いている席へ」
「ふんっ」
金束さんはカウンター席に座る。
まさかバイト初日で友人が遊びに来ることになろうとは。……バックレようかなぁ。
「流星群、おしぼり出しんさい」
「分かりました」
「その後は小鈴ちゃんの相手してなさいな」
「はいはいその後は雑用を……はい?」
裏でおしぼりを準備する僕におばちゃんが話しかけてきた。見れば、おばちゃんはニヤニヤと笑っていた。先程お客さん相手に見せていた、楽しんでいる表情だ。
「上司命令や」
「え、なんで急に」
「皿洗いやテーブルはおばちゃんやっとくから流星群は接客をしんさい。上司の言うことが聞けないんか!」
「決まり文句連発じゃないですか!」
指示された以上、僕に拒否権はない。おとなしく従うしかありません。
「ど、どうぞ」
「ふん」
おしぼりを渡し、僕と金束さんはカウンター越しに向かい合う。僕が店員で金束さんがお客さん。……バイト初日でこんなことありえる?
「どれがオススメなのよ」
「へ?」
「メニュー! 店員のくせにオススメも言えないの?」
ぼ、僕バイト初日……。
しかし元常連。つくしんぼのメニューは網羅していることに気づく。
「チーズ揚げとかどうかな?」
「……」
「ちょ、あの、カウンター越しに睨むのやめて」
「私は客よ。ちゃんと接客しなさい」
「はひぃ」
「返事もしっかり!」
「かしこまりました! チーズ揚げはいかかでしょうか!?」
怒られてばかりだ。うぅ、おばちゃん助けて。
だがおばちゃんは完全に無視する。僕に背を向けてテーブルを拭いていた。
「ぷぷっ」
でも僕には分かるぞ。あの背中、笑っています。面白がっています! 上司云々はどうしたっ。新人を指導するのが上司じゃないのか!?
「チーズ揚げとビール」
「は、はい」
一人でどうにかするしかないらしい。接客はスマイル。僕は出来る限りの笑顔を浮かべて金束さんの注文を承る。
「ふん、やれば出来るじゃない」
「恐縮でございまふ」
「一人で来たのよ。話し相手になりなさいよ」
「は、はあ。えー……と」
「何か話題を振りなさいよ。駄目な店員ね」
金束さんはメニュー表を眺めながら唇を尖らせる。い、いやだから僕は今日がバイト初日でして、お客さんとのトークを盛り上げるスキルはないんですけど。
「ぷぷぷっ、ぷっぷ~」
おばちゃんェ……! 新人が困っているんだから助けろよ! 何しれっとテーブルに座って聞き耳を立てているんだよ!
話題と言われましても……そ、そうだなぁ。
「え、えーと、もうすぐ学園祭ですね」
「っ! そ、そうね。でもどうせつまらないだろうし行く意味はないわ。ふん!」
「ひえぇえ……」
「ぷぷっ、流星群がパニクっとる」
他人の不幸は蜜の味。意地悪くて性格が悪いおばちゃんは大笑いだ。バックレようかなぁ!?
「ま、まあ、少しは楽しめるかもしれないわね。だから、水瀬、その……一緒に」
「土筆さんも少しは手伝ってください! ……あ、ごめん金束さん、もう一回言って」
「な……なんでもないわよ馬鹿!」
「ひえぇえ……!?」
「流星群も小鈴ちゃんもおもろすぎ、ひゃっはははっ」
僕はこのバイトでやっていけるのだろうか。不安が残る初日となった……。