68 履修登録
長い長い夏休み。始まる前はそう思っていた。しかし終わりが近づけば、なんと短い夏休みだったんだと嘆いてしまうのが学生あるある。
九月の最終週。自室にて入力を済ませたパソコンを閉じて盛大なため息をつく。
今しがた入力したのは後期の履修登録。
「ぐあ~……夏休みが終わる」
二ヶ月間の長い夏休みはまもなく終わりを迎え、大学生は次の長期休みに向けて途方もない日々を過ごす。一限に行くかサボるかの熾烈な睡魔との戦いが再開するのだ。
受け入れ難い。もっとのんびりしたいと思ってしまう。もっとのんびりしておけばと思う。
「今から夏休み初日に戻らないかな」
現実逃避な独り言を呟くくせして、僕はもう一度パソコンを開いて履修登録画面を確認してしまう。真面目かよ。
「必修科目は当然全て受講するし、選択必修も可能な限り取った。共通科目は既に大丈夫なはずだけど、万が一に何かしらの手違いで単位が足りない場合を考慮して余分に取っておく。……前期より遥かに忙しいんだが?」
再確認して顔がひきつる。半年前の二年生開始時にも似たような落胆をした覚えがあるが、いやいや前期の僕は何を甘えていたんだ。馬鹿野郎!
……二年後の僕は今の僕に「何を甘えているんだ!」と言うんだろうね。四年になればゼミに配属されるし就活もある。短いと文句垂れる今回の夏休みですら渇望するのだろう。
「ま、まあ、今期でフル単なら三年次は楽になれるはず。そうだそうだ。……そうだといいなぁ」
一年後、二年後、自分がどうなっているのかを想像してさらにさらに気落ちする。そして再び夏休みが恋しくなった。
「こうなった時はアレしかない」
リビングを出てキッチンへ移動。冷蔵庫を開ける。
「飲むぞ!」
飲んで忘れてやる! お酒の力をお借りして現実逃避だ! あぁビール様、あなただけが僕の癒しだよ。大好き。だいしゅき。キモイね。知ったことか!
「ちょっと贅沢なビール、エビースっ。どどん!」
一人で叫んで一人で効果音も演出。
それでは一人酒の始まり始まり。かんぱー…………誰か来る気配がする。
「神様っていると思うんだ」
一人酒しようと決めて実行に移せた試しがここ数ヶ月ない。神様が嫌がらせをしているとしか思えない。はいはいフラグでしたか、そーですかはいはい。
外から聞こえる足音は明らかに僕の部屋へと向かってきている。
「たまにはインターホンを押される前に出迎えてみよう」
僕は玄関の前に立ってドアノブを持つ。聞こえてくる足音は次第に大きくなって僕の家で止まった。
今だ。僕は勢いよくドアを開ける。
「髪、これで大丈夫かしら……っ、っ!?」
「いらっしゃい金束さん」
開けた先には金束さん。彼女は手鏡を持っており、金色に近いベージュの明るい髪をせっせと指先で整えていた。
「な、なな、っ……」
ドアを開けてから数秒のうちに表情は次々に変化していく。不安げに手鏡を見ていた顔、驚いた顔、赤みを帯びていって不機嫌な顔へとなって……あ、これ怒られるパターンだ。
「いきなり開けないでよ馬鹿!」
ね? こうなったでしょ。だと思いました。
では僕はいつものように、せーの、
「ひぃぃごめんなさい!」
カッコ良く言えばバックステップ、普通に言えばただの後ずさり。僕はお怒りぷんぷんの金束さんから離れて体を震わす。脅威から距離を取りたくなるのは生物の本能。
「馬鹿っ! ふんっ! ……見た?」
「何を?」
「なんでもない! 早く中に入れなさいよ!」
「イラッシャイマセー」
本能では怖がりつつも金束さんの怒号に慣れてきた僕は抵抗せず彼女を招き入れる。コンビニ店員になったらこんな声を出すのだろうね。コチラアタタメマスカー。
「紅茶。あのグラスに入れて」
「カシコマリマシター」
「ふん。……今のうちに髪を」
お湯にティーバッグを入れて軽く蒸らし、氷を入れたグラスへ注ぐ。意識高い系大学生なら凝った作り方があるのだろうけど僕は意識やや中くらい大学生なのでテキトーに用意します。ビールに対しては異様な拘りがあるけどね。
「お待たせ」
「っ、ふんっ」
紅茶を持っていくと、リビングでは金束さんがまた髪を触っていた。
僕に気づいた彼女はそっぽを向いて腕を組む。ご立腹だ。
「水瀬の家に入る前はいつも髪を整えているとかそういうわけじゃないんだからね。勘違いしないでよ」
「これ不知火が作ってくれたネギフロマージュ。紅茶と一緒にどうぞ」
「聞きなさいよ!」
「で、ではもう一度お願いします」
「なんでもないわよ馬鹿!」
「言葉のバイオレンス」
聞き返したらどうせ怒ると思ってスルーしたのに。聞けと言われた。聞いたら怒られた。正解の選択肢を教えてくれません?
「ふんっ。……これ、後期の履修登録?」
紅茶とネギフロマージュを味わう金束さんはパソコンに目を向ける。あ、パソコン開いたままだった。……あ、ヤバイ。
「うんそうだよ」
「ふーん」
僕はスッと金束さんの横へ座ってパソコンを閉じようとする。が、金束さんが僕の手を押さえてきた。ぐっ、は、離して。
「見せなさいよ」
「み、見せるのは構わないけど主導権とマウスは僕に握らせて」
人にパソコンを触らせたくない。操作させると下手したら見られてしまうかもしれない。インターネットのブックマークを押されてしまうかもしれない。
男なら分かってくれるだろう。けど金束さんは女の子。
「な、何よ押さないで」
僕は金束さんを押し退ける。これは悪手だった。この人はそういうことされると余計に対抗してくるんだ。
やはり僕をグイグイと押し返してきた。あぁああ女子特有の良い匂いをスーハ―スー、って馬鹿野郎!
「暴れないでください」
「アンタの履修を見せなさいよ!」
「分かったって見せるから! 僕の隣で見て!」
「っ、ふ、ふん」
押して押されてを繰り返し、僕が声を荒げる。
金束さんは肩を震わせて、僕の横でちょこんと座り直した。お、おぉ? 僕の言うこと聞いてくれるのは珍しい。
「分かったわよ。……だから大きな声出さないで」
「僕だってたまには大声を出します」
「出さないで!」
「あなたの声量には負けますよ」
「……ふん」
レアな仕草だ。しおらしく女の子座りして金束さんは僕の横からパソコンを覗き込む。
紅茶とネギフロマージュの香り、そして女子特有の良い匂いにドキドキしながら僕はパソコンを操作する。
「今期はこんな感じだよ」
「ふーん。忙しそうね」
「その分、三年生になった時に楽できるから」
「ふーん。……ここ空いているわね」
金束さんは画面に表示されている時間割の中、空白のコマを指差した。
「そうだね」
「私はそこの時間に健康科学を取ってあるわ。水瀬も受けなさい」
「……なぜに?」
「いいから受けなさいよ」
「え、でも、僕はその科目の必要単位は取得してあるし、ここに授業入れたら忙しくなる」
「受けなさい!」
「リョウカイシマシタ」
マウスを操作。空コマに健康科学の文字が埋まる。あぁ、さらに忙しい時間割に……。
「ここも空いているわ。えーと、この時間帯の講義は……」
げんなり僕の横で、金束さんはスマホでシラバスを確認していた。
嫌な予感がする。そう思った時点でフラグ。神様がニヤリと笑う。金束さんが口を開く。
「人文地理学があるわ。一緒に受けるわよ」
「嫌です」
「はぁ!?」
「カシコマリー」
マウスを操作。空コマに人文地理学の文字が埋まる。あぁ、さらに忙しい時間割に……!?
「もっと欲しいわね。他には……」
「待って。僕は既に十二分な履修を済ませているんだ」
「い、いいじゃない。学生の本分は勉強よ。もっと勉強しなさい」
正論やめて。正論だけども。でも嫌なんだ。勉強が学生の本分なら、休めるのなら休みたいのが学生の本性だ。オーバーワークは良くない。うんうん。
「これ以上の追加は不必要だ」
「二つしかないじゃない」
「二つって、いや見てよ、相当な授業数だよ!?」
「水瀬と私が一緒に受けられるのが二つしかない」
「はい?」
「……」
えーと? どしてなぜに顔を俯かせるの? 全学部共通の科目を多く受ける一年次ならともかく僕らは二年生。専門科目がメインだ。
「学部が違うんだし、無理して一緒に受ける必要はないでしょ」
「う、うるさい。いいから他にも授業ないか探すわよ! アンタもパソコンで探しなさい!」
「勝手にパソコンを操作しないでぇ」
バッと顔を上げた金束さんが僕の手元からマウスを奪おうとする。
接近してきて女子特有の良い匂いがあぁあ。女子特有。良い匂い。この匂いを科学的に説明出来る日は来るのだろうか!
「二つじゃ足りないわよ。もっと一緒に」
「あ、ちょ、やめ、ブクマが。おい! やめろぉ!」
「っ、ひぅ」
何かの拍子でブックマークをクリックしたらどうするんだ? 僕が辱めを受けるし金束さんだって不快な思いするでしょうが!
「いい加減にし……金束さん?」
「何よ馬鹿っ」
「それ、涙?」
「な、泣いていないわ」
ほんの少し、金束さんの瞳に涙が溜まっていた。不機嫌な表情をしているけど目だけは弱々しく潤んでいた。
「あわわっ? な、泣かないでよ」
「み、水瀬が大きな声出すからでしょ!」
「だって金束さんが」
「怒らないでよ馬鹿……」
「あわわっ!?」
潤んだ瞳から一粒の涙が零れた。や、ヤバイ、涙が溢れてきた。一体全体どしてなぜにWHY!?
「一緒に同じ講義受けたいだけじゃない。水瀬の馬鹿ぁ……!」
「僕が悪かった。悪かったから泣かないで!」
「泣いていないわよ!」
「目をゴシゴシされながら言われても……」
そうだった。金束さんは涙脆い一面があった。
僕がちょっと大きな声を出して怒ったから泣いちゃったの? え、えーと、いつも僕に怒鳴りつけているくせして?
「ぐすっ、泣いていないわ……」
「ご、ごめんて。もうキツく言わないから。ね? ちょっと贅沢なビールいる? エビス美味しいよっ?」
「紅茶でいい」
目をゴシゴシ、鼻すすり、紅茶を飲んで金束さんは僕を睨みつける。キツイ目つきはどこへやら。ちっとも怖くない。……寧ろ可愛い。
言っている場合か。どうにかしなくては!
「紅茶のお代わりだよっ。今度は意識高くじっくり蒸らして淹れてみたよ!」
「……」
「不知火産のネギクッキーっ。ネギ臭さがクセになるんだ。あはは!」
「……」
「この空コマとかどうかなっ? 一緒にキャリアデザインでも受けよう!」
「そこは別の授業がある……ぐす」
「あわわ!?」
普段は不機嫌で怒ってばかり。でも本当は普通の女の子。
涙脆い金束さんを、僕は午後いっぱいを使って慰め続けた。
ぐあ~……夏休みが終わっていく。




