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66 ご褒美?

「乾杯」

「乾杯ですっ」


 青い炎が土鍋の底を熱する。コトコト、と具材が煮込まれていく音。

 鍋をやっている感が出ますね。鍋をやっている感ってなんだ。日本語がおかしい。でも通じる気がする。日本語ってすげー。


「ちびちびと、ちびちび舐めるように……」


 月紫さんはゆっくり慎重に紙コップを口へ運んでいる。一口分すらも含まず、文字通りひと舐めするようにビールを啜った。

 啜り、顔をしかめる。むぎゅぎゅ~、とどこからともなく可愛らしい擬音が聞こえてきそうな顔だ。キュートにも程があるだろ!といったツッコミを入れたくなる。キュートにも程があるだろっ!


「んん、ぷはぁ……に、苦いです。ぐにゅぬ……でも飲めましたっ」

「飲んだ、のかな?」


 苦悶した顔で唇を波状に結んでいた月紫さんが嬉しそうに微笑む。

 舌先を濡らした程度の量であっても当の本人は非常に満足げ。僕に向けてピースサインを掲げる。何それ可愛い。


「私にとっては大いなる進歩ですっ。石器時代から黒船来航レベルですっ」

「時代が大いに進んだね。まぁそれは何よりだよ」

「はいっ」


 出会った頃のノータイム噴き出しに比べたら大いに進歩した。少し、ほんの少しだったとしても月紫さんはビールを飲めた。訓練の成果が表れている。


「恐らく2ミリリットルは飲めました。この調子だと、えっと」

「訓練を開始して三ヶ月だから、缶ビールを完飲するのには単純計算であと四十年はかかる計算だね」

「絶望的な計算結果ですねっ」

「自分で言う!?」


 大いなる進歩とはいえ、まだまだ先は長い。ゲームで例えるなら、チュートリアルすらも終わっていない。やっとAボタンを押せたってところか。確かに絶望的だね……。

 僕はこっそりひっそりとため息をついてビールを飲む。僕がこうして意識もせず簡単に飲めるこの一口を、月紫さんはいつになったら飲めるようになるのだろう。


「……そっか、水瀬君と出会って三ヶ月も経つんですね」

「ん? そうだね」


 月紫さんと出会ったのは六月で、今は九月。あっという間だ。

 二十歳になったせいか、月日が経つのが早く感じる。とある研究によると、六歳児が感じる一年と六十歳の老人が感じる一年は十倍違うらしいね。この説を知った時へぇ~と思った。


「水瀬君にはずっと訓練に付き合ってもらっています」

「教えると言ったからね。発言に責任は持つ」


 六月末、僕は月紫さんにビールの飲み方を教えると言った。奇妙な出会いだったにしろ、その関係は今も続いているし僕らは友達としての関係も築いた。


「訓練に付き合うと決めた以上は途中で投げ出さないよ」

「顔をビールまみれにされてもですか?」

「そ、それは嫌だけど、ご褒美の一種として受け止めるよ」

「大変っ、水瀬君が変態です!」

「あなたが原因ですよ!?」

「2変態です」

「いやそんな2単位ですみたいに言わないでよ」

「10変態貯まると罰ゲームですっ。ちなみにさっきの『ふっ、構わないよ』は7変態ですよ」

「既にリーチかかってる!?」


 さすがに四十年は付き合えないからなんとしても在学中にビール完飲を達成させてみせるよ。

 それに四十年も時間はない。月紫さんのお父さんが……いや? 常軌を逸した破天荒なアル中なら存命しているかも。アル中ってすげー。


「罰ゲームは冗談です。水瀬君にそんなことしません」

「助かります」

「……んー、罰ではなくお礼をしなくてはいけませんね」


 と、月紫さんが移動する。すすっ、と隣に並んで僕の肩に手を置く。


「お礼しなくてもいいって」

「いえいえ、します。そうですそうです、ご褒美です。ごほーびです。これはご褒美なので仕方ないのです。感謝の意を伝える為には必須科目なのです」

「か、滑舌が良いですね」

「水瀬君、目を閉じてください」

「目?」

「はい」

「こ、こう?」


 指示に従い、僕は目を閉じる。

 視界は真っ黒。耳には鍋のコトコト音。肩には人肌の温かみ。


「えっと、お礼って何を……」

「お礼はお礼です。静かにお待ちください」

「は、はゃい」


 はゃいって何? どう発音するの僕!?

 視界を閉じたのが原因で緊張しているわけではない。


 もしかしての可能性を感じて、僕の心臓は高鳴り始めた。


 もしや……あれなの? 漫画やアニメでさ、目を閉じた主人公にヒロインがすることと言えばキ……キ、キ……ス……!?


「……」

「いきますね」


 月紫さんは僕に何をするつもりなのだろう!?

 た、確かにお礼としてキスされるのはとてつもなく嬉しい。非モテ男には願ってもない展開だ。


「……」

「ぁ……ぁぅぁぅ」


 ついに僕にも春が! 中秋の名月だけど、秋真っ最中だけど春が訪れた!


「……」

「せ、せーの……っ、ぅ」

「……永湖さん?」


 目を閉じて体感で五分は経過した。月紫さんは何もやってこない。


「い、今からです。今からやります」

「は、はい」

「……」

「……っ」


 肩に置かれた手の感触と温もりを過剰に受け取る僕の神経。研ぎ澄まされていく神経が頬に集中する。頬に息が当たっている。月紫さんの息が当たっている。艶かしい息遣いの音と熱帯びた空気も感じる。

 これはもしかして本当に……。


「あうぅ~……まだ無理です!」


 息遣いが遠ざかり、肩に置かれた手の感触が消えた。


「見てください、お月様が綺麗です!」


 僕は目を開ける。月紫さんは僕の隣にはいなかった。

 立ち上がった月紫さんは窓の向こう、空に浮かぶ満月を見上げていた。


「……へ?」

「綺麗ですね」

「永湖さん? お礼は……?」

「さすが中秋の名月ですっ」

「無視!?」


 ぴょんぴょん、と上体を揺らす月紫さん。僕に何かしようとするようには見えない。

 ……う、うん。そりゃそうだ。キスなんてありえないよ。


「ほ、ほら水瀬君も見てください」

「ふぁい……」


 目を閉じたら女子からキスされる? 漫画やアニメの世界だけだ。ましてや主人公のみに許された展開。僕みたいな根暗には縁遠い、生涯を通してありえないのだ。

 動物園の時にも自責しただろうが。勘違いしてはいけない。勝手に興奮してるんじゃないよ。恥ずかしいな。


「ぅ……私の馬鹿。意気地なし」

「意気地なし?」

「わわっ、そこは拾わなくていいですっ」

「ご、ごめん? 今全身のあらゆる神経が研ぎ澄まされていたから」

「1変態です!」

「10変態貯まってしまった!?」

「罰ゲームですね」

「あ、結局罰あるのね」

「んーと」


 月紫さんはテーブルに戻ると、僕を手招きする。僕は「んーと」の抜群の可愛さに悶えることを一旦やめて月紫さんの隣に座る。


「鍋が美味しいですね」

「それは良かった。ネギは不知火産なんだよ」

「不知火さん産でしたか」

「燦々みたいなイントネーションだね」

「ネギは鍋の底に沈めるとして」


 月紫さんは箸で不知火ネギを沈めていく。さ、さいですか。


「これにします」


 代わりに掴んだのは鶏肉。とても美味しそうだ。

 と、ここまで月紫さんの言うことやることを見てきた。あのー、罰ゲームとは一体何をするおつもりで?


「水瀬君、目を閉じてください」

「ん゛? ああ、はい」


 再び目を閉じる。隣から聞こえるのは月紫さんのボソボソとした声。


「本当は唇でしたかったけど今日は間接で……んっ……」


 何を言っ……っ!? あ、ああ、あ、あ……?




 熱いぃぃいぃ!?


「熱っうぅ!?」

「水瀬君が螺旋丸を食らった人みたいに飛んでいきましたっ」


 いやそりゃ吹っ飛ぶよ? 熱いもん!

 僕の頬に何かが当てられた。たぶん鶏肉だ。鍋から取り出した熱々の鶏肉が頬に? いやそりゃ熱いから吹っ飛ぶよ!?


「な、何をして」

「鶏肉を経由してお礼をしました。今はこれで精いっぱいです。え、えへへ」

「お願い今だけは不思議トークやめて!」


 訳が分からない。何がしたかっ……罰ゲームって、今のが? 僕の頬に鶏肉をくっつけるのが罰ゲーム? 熱々おでん的なノリ?

 お、おぉ? そういうことでしたか。なら納得。……納得していいの?


「どうでしたか」

「すっごい熱かった」

「ですね。私も熱かったです」

「永湖さんも? なんで?」

「なんでってそれは……っ、お月様が綺麗ですねっ」

「さっきと同じ展開っすね……」


 この子は本当の本っ当に天然で不思議な人だ。

 空に浮かぶ満月のように満足げで曇りなき笑顔。名月の月明かりに照らされて笑う月紫さんを見て再度そう思った。

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