57 初ファウルボールキャッチと初写真撮影
始球式が始まる頃には客席は満員御礼。応援と歓声が巨大なドームを容易く埋め尽くす。
「ビ、ビールください」
僕はチラチラと隣の人の様子を伺いつつ、男性の売り子からビールを購入する。男にビールを注いでもらって何が楽しいんだよ。
だが男の人から買わないと隣の人は許してくれない……。
「ふん」
隣の人、金束さんは頬をぷっくり膨らましてビールを飲む。いつものように「不味い」と呟き、いつもと違うのは表情の曇り方。怒るにしても頬を膨らませるのは珍しい。
「言われた通りに男の人から買ったよ」
「ふん」
「ひぇぇ……」
あぁ、26番さんが僕をチラッと見て去っていく。他の人から買ったのね、といった寂しげな視線を向けられたような気がした。
ち、違うんです。僕だって本来の予定なら今日はあなた一筋だったんです。そしてあわよくば写真撮影を頼みたかった。ぐぬへぇ……。
「気弱なくせになんで今日はグイグイいくのよ」
「なんでと言われましても。球場はそういう場所だから」
僕みたいな気弱で根暗で陰険で「やーい、お前の友達指の数以下~」と馬鹿にされる奴が調子に乗って可愛い子に話しかけても許されるのが球場だ。普段は徹底して陰キャなのだから今日ぐらい弾けてもいいじゃないか!
「お気に入りの売り子さんを探し、その人からのみビールを買う。あの子は次いつ来るかな、とペース配分に気をつけながら白熱する試合を生で観戦し、そして飲む。なんと美味しいシチュエーションだろうか! ……のはずなのになぁ」
「うるさい!」
「ひっ! ごめんなさい!?」
渾身の語りは一蹴された。毎度のことである。ぐすん……。
「デレデレしないで」
「す、すみましぇん……」
僕はおとなしく肩を竦め、料金設定の高い唐揚げを食べる。こんなにも大きなドームで縮こまっている自分がいる……ぐっすん。
「し、試合はどう? 楽しい?」
「普通」
「そ、そっか。ビールは……」
「不味い」
「そっかぁ……」
どうやら今回も駄目みたい。金束さんは不満足だ。
いや、ここで諦めたらいつもの負けパターンだ。滅多に来ない野球観戦。諦めるのはまだ早い。試合は始まったばかりだ!
「金束さん、唐揚げいる?」
「いる」
「どうぞです。ビールが不味いならカクテルを買ってこようか?」
「いらないわ」
「まぁそう言わずに。せっかくだしお酒を飲もうよ。僕も半分飲むからさ」
「……じゃあ、いる」
少しずつで良い。金束さんの機嫌を直していこう。
スーパーで買えば百円程度のカクテル。球場では居酒屋の倍はする。しかし買おう! オラの財布よ耐えてくれぇ! 通常価格の三倍だぁ!
「アイスも買ってくるね」
「ふーん」
「では行ってきま……ん?」
キンッ、と音が鳴る。それと伴い、バックネット裏の席で観客の声と視線が頭上へ向けられる。
頭上の遥か上。一つの白球が高々と上がっていた。
ファウルボール……って、僕らの席に落ちてきている!?
「あわわっ!?」
どうする!? 齷齪する思考と両手。ボールは明らかに僕らの方へ落下している。というか、金束さんに向かってきている。
「み、水瀬」
僕の腕にしがみつく金束さん。僕の名前を呼ぶ金束さん。
このままではボールは金束さんにぶつかってしまう。それを防げるのは、僕しかいない。
「てぃ!」
席を立っていたのが幸いして、僕はボールをダイレクトにキャッチすることに成功。
え……ファウルボールを捕った……!?
「いてて……」
硬球を掴んだ手に痛みが走る。周りから歓声と拍手は僕に向けられている。なんと温かい皆さん! 球場ってボッチにも優しいんだ。素晴らしい!
そしてなんてことだ。運動部経験なしの運動神経は永遠のゼロ、守備力Gエラー回避Gである僕が見事にキャッチしてしまうとは。奇跡の類である。
「み、水瀬」
きっと、金束さんがいたからだ。
金束さんに危険が及ぶかもしれない。そう思った時、咄嗟に体が動いた。
「捕れた……! うおぉ! っと、金束さん大丈夫?」
「へ、平気……ぁ」
「あ」
白球は金束さんの頭上に落ちてきた。それを捕った僕は、金束さんへ寄りかかる体勢になっており、思いきり金束さんに密着していた。金束さんの顔が目の前に……っ、っ!?
「ご、ごごごめん!」
はわぁはあぁぅぅあ!?
慌てて離れて自分の席に座って身も心も萎縮、人生初のファウルボールキャッチや手の痛みなんぞ吹き飛んだ。
やってしまった。少しは良くなった金束さんの機嫌がまたしても最悪になってしまう……!
「わ、わざとじゃないよ!? つい体が動いて」
「……」
「金束さん?」
「……べ、別に」
恐る恐る様子を伺うと……ど、どうやら怒ってはいないみたいだった。
「ありがと……」
顔は赤い。でも怒気は感じない。もごもご口を動かし、微かに聞こえたのは「ありがとう」と一言。
「へ?」
「あ、アンタは私を守ってくれたんでしょ。お礼言うのは当然じゃない馬鹿っ」
「は、はい」
お、おぉう。金束さんは激怒して帰ると思ったが、なんとか大丈夫だった。
ボールキャッチの感動を上回る衝撃とピンチを乗り越えて、今になって硬球の質量にビックリする。こんな硬いのを投げたり打ったりしているんだね。野球ってすごい!
「ふーん。よく捕ったわね」
「マグレだよ」
「……写真撮るわよ」
「写真?」
僕が聞き返すと、金束さんは答えるようにして携帯を取り出す。画面は撮影モード。
金束さんは「早く」と言って、体を近づけてきた。……あへ?
「な、何よ。写真撮るんだから近づかないといけないでしょ」
「そ、そうだね。……えっと、そうなの?」
「そうなの! 早くしなさい!」
言われるがまま金束さんに近づく。肩をくっつけて、ボールがよく見えるように胸元に掲げる。
カメラを起動したスマホの画面には、僕の間抜けな顔と金束さんの赤い顔が映し出されていた。
「撮れたわ」
そう言って金束さんはパッと僕から離れると、背を丸めて携帯を凝視しだした。眩い横髪が垂れて、その奥に覗かせる艶っぽい横顔に笑みが綻んでいる。
そう見えたのは気のせいだろうか……?
「えっと、僕にも見せて」
「い、嫌よ。なんでアンタに見せないといけないの」
「だって僕も一緒に写ったから」
「うぅうるさい。水瀬には見せないし写真も送らないから!」
「えぇー……?」
僕だって写真欲しいよ? 陰険な僕が球場に来て、根暗な僕の近くにファウルボールが飛んできて、気弱な僕がダイレクトキャッチした。こんなラッキー今後一生ないよ!?
「写真送ってよ」
「嫌よ」
「そこをなんとか」
「駄目! アンタはビールでも飲んでなさい。また飲みすぎて酔っぱらってなさい!」
「飲みすぎて酔っぱらったのは前回の金束さんじゃないか」
「う、うるさい! そんなこと覚えてないわよ!」
「ひえぇえ……」
何度か嘆願してみるものの、金束さんが頷くことはなかった。
「わ、分かったよ。一人で撮ります……」
記念撮影をすべく僕もスマホのカメラを起動。撮ろうとしたが、僕が自撮りしたところで見返すことはないと悟り、中断した。
金束さんと一緒に写った写真は欲しいけど僕一人で撮ってもねぇ……。
「本当に駄目?」
「駄目。いいからカクテル買ってきなさい」
「はひぇぇ」
嘆願と情けない声を残し、僕は席を立つ。
階段を上がり、チラッと下を振り返ると、金束さんはまだ携帯を眺めていた。
「うん、良く撮れてる。……ふふっ」
屈んでいるし長い髪の毛でハッキリとは見えなかったけれど、やっぱりその顔は嬉しそうに見えた。




