47 友達
家路に着く。どうやって帰ってきたのかは覚えておらず、気づけば目の前にアパートがあった。
重くも軽くも感じない両足は階段を上がる。共用廊下を進み、視線は前方を向く。
玄関の前には金束さんがいた。
「……遅いわよ」
先程と同じ服装。あの後すぐにここへ来たのだろう。
「ごめん」
僕は一言返して鍵を開けた。靴を脱ぎ、荷物を置き、クーラーのリモコンを手に取る。
その間、金束さんの顔は一切見ない。いや、見なかった。見てはいけないと思った。
僕はもうこの人とは……。
「……」
「……」
「……その、アンタの部屋に来るの久しぶりね」
「別に。数日ぶりだよ」
「そうね……」
「座れば? 話したいことがあるし」
「……水瀬、怒ってる?」
おずおずと座布団の上に座った金束さん。その挙動が、その声音が、普段の彼女からは想像もつかない程に強張っていた。僕の様子を伺っているのが分かった。
普段とは立場が逆だなと思い、だからといって僕自身の存在価値は何一つ変わっていないことを思い知る。
「気にしなくていいよ」
僕は所詮ただの根暗野郎だ。床に座り、テーブルに視線を落とす。
もしかしたら金束さんが家に来ているかもしれないから急いで帰ろう。数十分前まではそう思っていたのに、今は落ち着いていた。……落ち着いている自分がいて、より一層惨めになる。
「み、水瀬」
「怒っていないよ」
「そ、そう?」
怒ってはいない。怒りを通り越して呆れかえっている。自分自身に。惨めさと情けなさに。
……最低だな。一人になれると思ったら冷静になれている自分がいた。もうすぐ逃げられると思い、既に安らごうとしていた。
長引かせる必要はない。さっさと言ってしまえ。
惨めで情けなくて憎たらしくて、潰された感情が出した答え。言えば楽になれる。
「金束さん」
「わ、私も怒っていないわ。その、この前は言いすぎてごめんなさ」
「もう僕の部屋に来ないで」
「……え?」
驚く程にすんなりと言えた。……そうか。そうだったね。逃げることはこんなにも簡単なことだった。
視線はテーブルから前へ。見上げた先には金束さん。僕を見て、目が潤んでいた。
「美味しいビールを教えられずじまいなのは申し訳ないと思う。でも無理だ。やめよう」
「え……み、水瀬、どうして? 怒っていないって……」
「怒ってはいないよ」
「お、怒ってるじゃない。私が水瀬に酷いことを言ったから怒っているんでしょ」
「違うよ」
「じゃあどうしてやめようって言うの!」
「それは金束さんと僕では住む世界が違うからだよ」
金束さんは美女子大生。僕は根暗大学生。誰の目から見てもそうだ。不分相応は見た目だけで分かりきっている。
そうさ。簡単で単純、とっくの前に分かりきっていたこと。それこそ出会う前から。
「僕らは出会うべきではなかった」
「……」
「僕といても時間の無駄だよ。損でしかない。日凪君のような陽気な人と一緒にいた方が金束さんには有意義になる」
「なんで……」
「これまで教えたシチュエーションは全部忘れて。あんなのは根暗男の捻くれた飲み方だ。金束さんは大学生っぽく華やかな生活を目指」
「なんでそんなこと言うのよ!」
涙が落ちる。ポタポタ、と音を立ててテーブルに落ちる涙は金束さんの瞳から溢れて止まらない。
金束さんは泣いていた。僕を見て泣いていた。
「意外と涙脆いよね」
「な、泣いていないわ」
「どっちでもいいよ。ううん、どうでもいいよ。僕みたいな存在はどうでもいいんだ」
「だ、だからどうしてそんなこと言うのよ。アンタおかしいわよ。だって、だって……!」
「おかしいも何も、僕らは本来なら出会うはずのなかった人間同士だよ。元の関係に戻ろうってだけだ。元の、無関係に」
呆気もなく言葉は出る。自分自身でも分かる冷ややかな声が響く。
これでいい。チャラ男の言った通り、僕は金束さんに相応しくない。だから、これでいいんだ。
「……何よそれ…………」
何を言っても無駄だよ。凄んでも睨んでも僕は折れない。
僕は決めた。金束さんと一緒にはいない。いてはいけないんだ。
「いつもみたいに怒っても僕の気持ちは変わらないよ。分かったら今すぐこの部屋から出ていくんだ」
「アンタは……水瀬は、水瀬だから……っ」
「金束さんはもっと良い人と仲良くなればいい。金束さんは華やかな大学生活を」
「私は水瀬だから一緒にいるの……!」
金束さんは泣いていた。瞳に涙を溜めて涙を流して。下唇を噛んで必死に懸命に僕を見つめて。
「住む世界が違うって何よ。私には華やかな方が似合うって何よ。僕みたいな奴と一緒にいるべきじゃない? 出会うべきじゃなかった? そんなの、そんなの誰が決めたのよ!」
「誰がって……違う、誰かじゃなくて誰がどう見ても僕らは……」
「違うわ! 他の人なんて関係ないわよ! っ、ぐすっ、私は、私が! 水瀬と一緒にいる方が楽しいって思ったのよ……!」
逃げることは簡単。一人でいる方が楽。冷静になれて落ち着ける。
全部、嘘だ。
だったらなんで僕は狼狽えているんだ。目の前で泣きじゃくる金束さんの言葉が突き刺さるんだ。
「水瀬なら分かってくれると思った。理解してくれると思った。だから私はアンタに頼んだ。そう思ったのは間違いだったの……?」
「な、何を……」
「一緒にいたのは間違いだったの? ……そんなことない。絶対に間違っていない。私は水瀬と一緒にいて、色んなことを知れて色んなビールを飲んで、私と水瀬は……」
「私と水瀬は友達でしょ……!?」
涙と共に問いかけられたその一言。
胸を抉られる思いだった。僕は何も言えなくなった。
今、最も、答えられない問いかけだった。
「っ、ぼ、僕らは協力関……」
「確かに最初は私が無理やりアンタに持ちかけた協力関係だったかもしれない。私の一方的なものだったかもしれないわ。で、でも、今は、今は違う、そうじゃないの……!?」
出会うべきではなかった。僕のような根暗は金束さんには相応しくない。住む世界が違う。チャラ男に言われた通りだったから。僕自身も思い知っていたから。だったら一人で逃げよう。僕は金束さんと一緒にいてはいけない。
けど、けれど……金束さん自身は、金束さんだけは、そんなくだらないことを考えていなかった。
誰かに言われたからじゃない。他の誰かの意見なんてどうでもいい。金束さんは美味しいビールを見つけたい。だから僕と協力関係になった。
最初は協力関係で、でもいつしか、いつの間にか変わっていた。
僕らは……友達になっていたんだ。
ただそれだけのこと。仲良くなっていた。気づいたら友達になっていた。ただそれだけのことなのに。
僕はその事実を受け入れたくなかった。その事実を自分の口で言うのが怖かった。
そして今も僕は言えずにいた。金束さんは問いかけてくれたのに。涙を流してまで友達と言ってくれたのに。
僕は……答えられなかった。




