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45 爆発する感情

 空気が重く、皮膚に鉛が貼りついて身動きが取れないかのように息苦しい。

 それは同じ部屋にいる目の前の人から放たれる憤懣と不満が原因である。


「な、何か飲む?」

「お茶」

「はいぃ」


 一波乱がありつつもサークルの人達が来てくれたおかげで有耶無耶になり、僕らは家へと戻ってきた。

 が、金束さんの機嫌は最悪だ。今も怒りを露わにしており、お茶を注いだ紙コップをテーブルに叩きつけている。殺気立っているのに妙に静かなのが余計に怖い。ひ、ひいぃ!?

 ……そんなにあのチャラ男のことが嫌いなのか。


 僕らの前に突如現れたのはチャラ男、日凪昭馬。

 軽薄な喋り方で金束さんに話しかけてきた。拒否されても折れず、まるで受け流すかのようにして金束さんに詰め寄っては終始圧倒し、嵐のように去っていった。


「あいつ本当にウザイ……!」

「お、落ち着いてよ」


 金束さんはチャラ男のことが大嫌い。それは考える余地もなく察することが出来た。

 日凪昭馬。彼はまさに金束さんが嫌悪する大学生そのものだった。

 チャラそうな外見に相応したいかにも遊び慣れた立ち振る舞いと浮ついた言動。軽くて鬱陶しくて、でもそれが大学生にとっては普通でありイケてるとされるキャラクターであり、それこそがまさに金束さんが最も忌み嫌う存在だ。


「ムカつく……!」

「え、えっと、あの人はいつもああなの?」

「一年生の頃は違ったわ。二年生になってからいきなりチャラくなった。会うといつも話しかけてきて……あぁもうウザイ!」


 駄目だ、金束さんの怒りが鎮まらない。たまらず僕は縮こまってしまう。


「彼氏面してくるのが本当ムカつく。あいつだけは未だに私に話しかけてくるわ。サークルにあまり顔出さないくせに偉そうにして何よ!」


 怒鳴らないでよ。それに僕に言われても……。


「何度も嫌って言っても近寄ってくるのよ。鬱陶しいわ。今日行かなければ良かった」

「お、怒らないで」

「大体、アンタもアンタよ」

「……へ?」

「アンタは私の彼氏役って言ったでしょ。ちゃんと彼氏役をしてあいつを追い払いなさいよ!」


 金束さんの怒りは僕へと向けられた。え、なんで僕が。


「だって、本当は?って聞かれたから……」

「聞かれたら本当のこと言うの? 使えないわね。アンタもキモイのよ!」

「そんな……僕だって僕なりに」

「何の為にアンタを連れていったと思ってるの。ちゃんと私を守りなさいよ!」

「無茶を言わないでよ」

「ホント使えない! 最低!」


 罵倒されて貶されて、僕は何も言えず縮こまる。


「アンタがもっとしっかりしていれば解決したのに。あいつの言う通りアンタはキョドリすぎなのよ」


 金束さんの怒りは収まらない。紙コップを叩きつけ、不機嫌に顔をしかめ、目つきはキツイ。

 罵倒されて貶されて、僕は言い返せない。



 ……頭の中に、あのチャラ男の言葉がよぎる。


「いつまで経っても口ごもるしナヨナヨしすぎだし、ホント駄目な奴ね」


 キョドリすぎて笑える。根暗。金束さんに近づくな。金束さんに二度と話しかけるな。

 詰め寄られて圧倒され、言われるがままに頷いてしまって、何も出来なかった。


「ちょっと聞いてるの! アンタのせいだって言ってるのよ!」


 でも仕方ないし、そうなって当然だ。

 僕は金束さんの彼氏ではない。友達でもない。美味しいビールを飲むという奇妙で曖昧な関係。本来、僕が金束さんの為に頑張る道理は一切ない。

 罵倒されて貶される。そんなことをされる筋合いはないのに。


「僕なりに頑張ってみたんだよ。勘弁してよ」

「あれのどこか頑張っていたのよ。全然じゃない」

「……」


 この人に振り回される筋合いはない。命令に従う必要もない。

 なのに、どうして僕がここまで言われなくちゃいけないんだろうか。


「あぁもうムカつく。あいつもアンタも。いい加減にしなさいよ」




「……いい加減にするのはそっちでしょ」

「はあ?」


 金束さんに命令されては悲鳴をあげてヘコヘコと従ってきた。今までそうしてきた。僕には歯向かう度胸はない。それは仕方ないし、そうなって当然だ。

 けど今は……無性に腹が立ってきた。


「なんだよ……」

「は?」

「なんだよ、ふざけるなよ。そっちが無理やり連れていったんじゃないか。僕は君らのサークルと無関係なのに」

「何か言った!?」

「あぁ言ったよ! 僕には関係ないだろ!」

「っ、はあ!?」


 腹が立つ。ムカつく。ぐちゃぐちゃに混ざった、溜まりに溜まった怒りが逆流する。

 どうして僕がチャラ男に馬鹿にされなくちゃいけないんだ。金束さんに怒られないといけないんだよ。いつもいつも。どいつもこいつも!

 僕が何をしたっていうんだ。僕は関係ないだろ!


「うんざりだ。僕は金束さんの彼氏じゃない。都合の良い下僕でもない。なのにいつも僕を巻き込んで僕の生活を邪魔して、で悪いのは僕だけなのかよ。僕が悪者かよ」

「う、うるさい」

「うるさいのはどっちだ」


 溢れ出す感情に抑制が効かない。一度出たものはもう止まらない。怒りが、不平不満が、ありとあらゆる負の感情が爆発する。

 金束さんが、この自分勝手な人がひたすらにムカつく。


「鬱陶しいのもウザイのも金束さんの方だろ!」

「っ、な、なんで」


 叫ぶ。怒りをぶちまける。




「理不尽で自分勝手だ。自分のことしか考えていない。何が協力関係だ。もう、うんざりなんだよ!」


 叫ぶ。怒りをぶちまける。喉の奥がガリガリと痛む。それでも腹ん中のぐちゃぐちゃは解消されない。




 解消されない。それでも意識は戻る。ハッとした。

 思いきり叫んだのは僕だった。それに気づき、慌てて視線を前へ。


 そこには、金束さんが涙を浮かべて潤んだ瞳で僕を睨んでいた。


「な、何よ……どうして急に……」

「あ、いや、今のは……」


 睨みつけてくるけど目力に普段の覇気はなく、動揺が見て取れる。僕が大きな声を出して怒りをぶちまけたせいで……。

 僕は今……怒った……?


「いきなり何よ、っ、あ、アンタは、水瀬は……っ」

「ご、ごめん。つい思わず……」


 動揺は僕にも伝染する。

 口が渇き、喉が締まる。喉の奥がガリガリと痛み、腹の中はぐちゃぐちゃ。吐き出した後に残ったのは、ちょっとした後悔と疑問。掻き乱れるは焦燥。


「水瀬は……水瀬だから私は……」


 先程まで怒っていた金束さんは弱々しく何か言おうとして、けれど言葉に詰まり、言葉の代わりに溢れ出てくるのは涙。

 彼女は泣いていた。


「あ、っ、その、っ……!」

「以前は助けてくれたのになんでよ……。馬鹿ぁ……!」


 金束さんが立ち上がって部屋から出ていく。飛び出ていく金束さんを目で追うだけしか出来ず、体は動かず、思考はそれ以上に硬直している。

 聞こえる足音は次第に遠くなって、扉が閉まった。一人部屋に取り残されて、やっと息が出る。溜め息でも普通の呼吸でもない、どこか熱冷めた酷く酸っぱい唾液混じりの息。


「……金束さんに怒ってしまった」


 金束さんが僕に対して怒ることは多々ある。理不尽な言い分、自分勝手な命令、全て彼女がその瞬間に思うがままの感情に振り回されてきた。

 そんな僕が金束さんに怒ったのは今のが初めてのこと。だから金束さんは動揺して泣いて部屋を飛び出ていって……。


 いや、そこじゃないだろ。


 どうして、どうして僕は……。

 ちょっとした後悔と疑問。金束さんにキツく言ってしまった。なんで、なんで僕はいきなりあんなことを……。


 僕がチャラ男に何も言い返せないで、チャラ男相手に何も出来なかっただけじゃないか。

 ……そうだ。僕は何も出来なかった。それが情けなくて憎たらしくて言葉を荒げてしまった。

 なんてことない。僕がムカついていたのは、腹を立てていたのは、僕自身に対してだった。


「じゃあ、なんで……どうして……」


 どうして、どうして僕は、こんなに焦っているんだ……っ。

 急に現れたチャラ男に対して何を思った。金束さんとの関係を問われて言葉に詰まった。友達、と言えば良かったんじゃないか……? なんでそう言えなかったんだ……。


 最低だな、僕……。

 テーブルの上に置かれた紙コップ。佇むような寂しいそれが去り際の金束さんの姿を鮮明に思い出させて、自分が心底に嫌になった。

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