36 数ミリリットルの大きな一歩
恋人のフリをしてナンパをやり過ごす。僕では眼鏡なし月紫さんの彼氏役として力不足だと痛感しつつも尽力した。
しかし限界がある。大きなステージに行けば必然的に人の数は増え、即ちナンパ男とのエンカウント率が上昇する。彼氏がいようとお構いなく話しかけてくる強引な肉食系が現れるんだ。
「水瀬君っ」
「こっちに逃げよう! サークルモッシュを利用して巻くんだ!」
円を作り、ぐるぐると回って体をぶつけ合う集団に紛れ込む。ナンパ男を撹乱して僕らは逃げる。
「ぜぇ、ぜぇ……お、追ってきていないよね?」
「水瀬君がFPSでよく見る動きをしていますっ。M24でヘッドショットしたいですっ」
「いきなり何を言っているの?」
息つく暇もなく四方八方を視認する僕の隣で月紫さんが感嘆とした声をあげる。
マイペースですね。あなたが可愛すぎるから声をかけられているんですよ? 危機感を持とう!
月紫さんにしろ金束さんにしろ、ナンパされすぎではなかろうか。美少女って大変なんだね。
そしてナンパする人の胆力に驚く。陽キャマジ恐ろしやガチ恐ろしや。
「やっぱり大きなエリアは色々と危険だ。移動しよう」
「どこに行きますか? 小さな方のステージに戻ります?」
移動を始めるとすぐに月紫さんが服を掴んできた。僕の心臓は懲りずに激しくドラムを叩く。
はは、これだから隠キャは困る。僕はいつまで服掴みにドキドキしているんだい……!
「そ、そうだね。少し休もうか」
「ベンチや休憩所ですか?」
「ううん。僕のイチオシがある」
気を落ち着かせ、僕は歩く。
行き先は決めてある。せっかくだし月紫さんに夏フェスの楽しみ方を教えてあげよう。
着いたのは小さなステージでも休憩所でもない。水が涼しげに流れている。
ここは川原エリアと呼ばれる場所だ。
「わーっ。こんな場所があったんですねっ」
「音楽を聴くだけがフェスの醍醐味じゃない。自然を満喫するのも楽しみ方の一つだよ」
「すごいです。見通しが良いので狙撃ポイントにもなりますっ」
「さっきからFPS目線で語るのはどうして? ゲーム好きなの?」
「涼しみましょう」
「本当マイペースですね……」
ま、まぁいいや。僕と月紫さんは岩の上に座って一休み。
せせらぎの静かな響きに耳を傾けつつ、遠くから微かに聞こえる音楽も聴く。同時に自然の景色と空気も堪能。
うーん、素晴らしい。これもまた夏フェスである。
「子供達が楽しそうに遊んでいますね」
川原エリアには家族連れが目立つ。水着になって存分に川遊びをする子供達を見て、不意に月紫さんが靴を脱ぐ。さらにレギンスを上げて足を晒け出……えぇ!?
「ち、ちょ」
「? 川があって足を入れない道理はないですよ?」
「それはその通りだけど」
いきなり生足を出すから興奮したとは言えない。興奮したってなんだよ僕! これだから隠キャは!
……月紫さんは両足を川に入れる。ちゃぷちゃぷ、と水音を立ててその表情はとても涼しげ。
「キャンプに来たみたいで楽しいですっ」
「よ、良かったね」
「さっきから水瀬君の声が上ずっています。私と目を合わせてくれないし……」
月紫さんが強引に目を合わせようとして僕の顔を覗き込む。
あの、察してください。あなたの姿に惚れかかっているんです。
陽キャだろうと隠キャだろうと、男なら月紫さんの容姿に見惚れてしまう。アーティストの生演奏を聴くよりも胸が高鳴っているよ。
「じー」
「つ、月紫さん?」
僕らの距離は近い。並んで座っているから当然だ。
それでも眼鏡がない月紫さんにはよく見えないのか目を細めている。それでも可愛い。目を細めても可愛いってすごすぎ……!
「なるほどです」
ポツリと呟いた月紫さんは水ちゃぷちゃぷに戻る。
その表情はどこか満足げであり、ほんの少しだけ頬が赤らんでいた。
「なるほどって何が……?」
「水瀬君にも効くみたいです。切り札が出来ました。今後ここぞという場面で見せます」
……へ? どういう意味? わ、分からない。月紫さんが何を言っているのか分からない! この人天然がすぎるよ!?
「えへへー」
しかし詳しく問い返すことは出来そうにない。
スラッとした綺麗な足で水面に波紋を広げる月紫さん。満足げにニッコリとした彼女の顔は容易に僕の心を困惑とドキドキでかき乱した。
「ところで水瀬君はビールを飲まないのでしょうか?」
「へ? あ、あぁうん、僕はもう飲まないよ」
「準アル中の水瀬君にしては珍しいです」
「準を付与して緩和しているようだけど僕はアル中ではないからね? 帰りの運転があるからビールは午前中までって決めてあるんだ」
僕は会場にまで車で来た。帰りも運転する。
人の体内でアルコールが抜けるのに約八時間かかるらしい。夜九時頃に帰るとして、午前中までならアルコールを摂取しても良いがさすがに午後も飲むのはよろしくない。
「飲酒運転だけは絶対にしてはいけない」
「水瀬君のそういうところ、とても良いですっ」
「あ、ああうん、どうも」
「でも困りました。ここでなら水瀬君とゆったりビールを飲めると思ったのにーっ、です」
月紫さんが「いーっ」と歯を出して悔しそうに呻く。足をバタつかせて水飛沫が上がる。
叶うなら僕も今すぐ生ビールを口に流し込みたいよ。生ビールを飲みながら月紫さんの生足を眺め、って馬鹿野郎このムッツリ野郎!
「ご、ゴホン!」
「咳ですか?」
「なんでもない! ところで月紫さんはどうやって帰るの?」
「私は電車です」
「そっか。じゃあ飲めるね」
「私だけ飲むのは気が引けます。ドン引きですっ」
「気を遣わなくていいよ。丁度近くに販売所もある。僕の代わりと思って飲んでよ」
「そうですか?」
月紫さんを説得し、一人分のビールを買う。
「どうぞ」
「はい。あ、お金を……」
「僕の奢りってことで。さ、飲んでみよう」
「ありがとうございますっ」
足を水に漬けて、遊ぶ子供達を眺め、遠くから聴こえる音楽と共に。夏フェスを五感で思う存分に楽しめる最高のシチュエーションにて月紫さんがビールを飲む。
いいなぁ。それ絶対美味しいよ。
「んくっ」
喉を鳴らす音が可愛らしい。この人はどんなことをしても可愛い。
月紫さんが生み出すキュートな一挙手一投足。ドキドキしながら隣で眺める僕はふと気づく。
……今、喉を鳴らした?
ということは、ビールを飲んだってことでは……。
「ぶばぁー!」
束の間だった。月紫さんが盛大に噴き出す。何度も間近で見てきた光景。何度も味わってきた顔面スプラッシュ。
でも。だけど。今のは少し違……!?
「けほけほっ。あ、ごめんなさいっ。川に噴き出すのは駄目だと思って咄嗟にいつもの的に向かってつい」
「的って言った? 僕は的扱いなの? いつもそう思って噴き出していたの? いやそれよりも!」
「はい?」
「月紫さん……今、飲んだ? ビールを飲めた?」
「……あっ。そ、そうですね。数ミリリットルだけ」
「お、おぉう」
「飲めました……私、遂に飲めました!」
そう言うと月紫さんは嬉しそうに肩を揺らす。頬を綻ばせてニッコリニコニコと笑った。僕も嬉しい。
嬉しい、けど……たった数ミリリットルなのか。喉を鳴らしたから一口はイケたと思ったのに。数ミリリットルってスポイト一回分もないのでは?
「やったーっ、ですっ。水瀬君ありがとうございます。ビールが飲めました!」
でも、それでもいいか。
月紫さんが笑っている。嬉しそうに僕を見つめる。その姿を前にして、今は素直に喜ぼうと思った。
数ミリリットルでも大きな一歩だ。
「良かったね月紫さん」
「はいっ。……う」
「月紫さん?」
「に……苦いですぅ……!」
満面の笑みは崩れる。月紫さんは舌を出して、まさに苦々しげな表情を浮かべた。
「あぁ、最初はそんなものだよ」
「ビール苦いです。けど美味しいとも思いましたっ!」
必死に堪えつつも笑顔を作る月紫さん。
無理しているようで、それでいて本心を表している。何より、彼女らしい可愛らしい素敵な表情だった。




