35 恋人のように
「ごめん月紫さん……」
大喝采と熱気に包まれたステージの遥か後方に避難し、僕が広げる両手には割れた眼鏡。フレームは歪み、レンズの一つはヒビが入ってもう一つはレンズすらない無残な状態だ。
「謝らないでください水瀬君。私が眼鏡をしてきたのが悪いんです」
謝る僕を、月紫さんはさらに上回る回数で頭を下げる。
上げた顔はただの美少女。眼鏡を取ったら美少女になるを体現していた。可愛すぎる。
「えーっと、見える?」
「ぼんやりとしか」
月紫さんは目を細めて手を伸ばす。僕の顔をベタベタ触ってきた。
「これは水瀬君の顔ですか?」
「そ、そうです」
「なるほど。これは唇ですね」
「唇をぷにぷにしないでぇ」
やはり眼鏡がないと見えないらしく、月紫さんの足取りは覚束ない。
「ど、どうしようか」
「視力は低下しましたが音楽は聴けます。次行きましょう」
「意外と前向きだね」
「はいっ。前を向いて……ぎゃふん」
前を向いた月紫さんが盛大にコケる。見事に足を挫いた。
あー……歩くことも厳しそうだ。
「とりあえず今後は後ろの方で聴くとして、まず移動が大変だね」
ここはフェス会場。どこへ行っても人がいっぱい。よく見えない状態で歩くのは危険だ。
どうしたものか、と考える僕に月紫さんが歩み寄ってきた。
「……水瀬君」
「はへぇ?」
きゅ、と僕の服を掴む。
「見えないので案内してもらえますか?」
「……」
「水瀬君?」
「へ? あ、う、うん、任せて」
思わず固まってしまったのは仕方がないこと。服をきゅっと掴まれて心地の良いゾワゾワ感、さらには月紫さんの潤んだ頑是ない瞳。
美少女に服を掴まれたら硬直するに決まっている。こんなのズルイ……!
「い、行こうか」
「はいっ」
別のステージに移動する。月紫さんは僕の服を離さず、ピッタリ後ろをついてくる。
……ゾワゾワする。採寸された時のような言い表せない心地良さがする。何これすごくゾワゾワするよ!?
「あの子可愛い」
「マジ可愛い」
「声かけるか?」
「彼氏っぽいのいるじゃん。地味な奴だけど」
同時に周りからヒソヒソと声がする。みんなが月紫さんを見ていた。そして僕は貶された。ぐはっ。
まぁ、ね? 眼鏡を取った月紫さんならこの注目度は当然と言えよう。
「あわわっ、水瀬君っ」
人混みの多さに戸惑ったのか、月紫さんはさらに密着してきた。なんて可愛さだろうか。
月紫さんが今のように眼鏡を外した状態でもし一人でいたら、間違いなく男から声をかけられるだろう。
「水瀬君……」
視界の悪い状態が不安を煽り、その状況下で知らない男性に話しかけられたら……。
そう思った途端、僕の手はすぐに月紫さんの手を握った。
「ふぇ?」
「はぐれたら大変だから」
今は僕がいる。僕がこの子を守ろう。
「僕なんかに手を握られるのは嫌だろうけど我慢してね」
「……」
「ごめんやっぱ離そうか。黙る程に嫌だった!?」
「いえ、そんなことないです」
離しかけた手を月紫さんはすがるようにして繋ぎ直す。きゅ、とではなく、ぎゅ、と。
「嫌じゃないです。水瀬君なら平気です」
「そ、そっか」
「寧ろ嬉しいくらい。……眼鏡壊れて良かった。行きましょうっ」
とろけるような笑みは夏の日差しより眩しかった。
僕はヘッドバットのように暴れる心臓を抑えながら歩く。隣に月紫さんを連れて。
広大なフェス会場にはいくつものステージが設置されている。大きいのもあれば小さいのもある。
人気のバンドは大きなステージで、そうでないバンドは小さなステージで演奏する。誰もハッキリとは言及しないが、どうしても格差を感じてしまうよね。
僕と月紫さんは一番小さなステージに来た。
前には行かず、遠く離れた丘に腰かけて数十メートル先のステージを眺める。
「ここからでも曲が聴こえますっ」
「人が少ないし伸び伸び出来るね」
「はいっ。どうせ目はぼやぼやしているからいっそのこと遠くから聴こうという水瀬君の妙案に乗っかって正解でしたっ」
元より僕は前に行って弾けるタイプじゃない。こうやって後ろの方で地味に座っているのがお似合いさ。
「わー、このアーティスト私好きなんですよ。来年こそは人気エクスプロージョンして大きなステージに行くはずですっ」
楽しそうに手拍子をして肩を揺らす月紫さん。
ここへ来るまでも男性から何度も声をかけられそうになった。僕がいるのにナンパしようとする人は何なの? そんな強引な手口を実行する? 陽キャ恐ろしい。
ナンパされる前に逃げていき、人混みに飲まれないよう月紫さんを連れていき、やっと一息つけた。アコースティックバンドの涼しげな音に耳と身を傾けて心が安らぐ。
「月紫さん、お腹減っていない?」
「そう言われるとお腹ぐーぐーとなりますね」
可愛い月紫さんが可愛い擬音を言うのは反則だ。僕は悶えつつ唐揚げを取り出す。
「さっき買っておいたんだ。食べよう」
「わーっ」
「あと塩飴もどうぞ。塩分を摂っておこう」
「これまたわーっ、ですっ」
わーっを連呼する月紫さん。唐揚げを食べて、飴を舐めて、僕を見てニコリと笑う。
「水瀬君は用意周到ですね。フェスのプロフェッショナルです」
「ありがとう」
「水瀬君と一緒で良かったです。でないと私は……あっ」
何かに気づいた月紫さんが僕に寄りかかってきた。肩に手を乗せて顔を近づけ、っ?
何事だ!? と、焦る僕も気づいた。丘の下から男性二人組がこちらに向けて歩んできていた。
「ちっ、あんなにくっついているってことはやっぱ彼氏だったか」
「諦めようぜ」
が、すぐに踵を返して去っていく。
二人組の姿が見えなくなったところで月紫さんは僕から離れて安堵したように胸をなでおろした。
「ふぅー、です。水瀬君がいるおかげでナンパを回避出来ました」
「そ、そうだね」
なるほど、密着してきたのは男二人に気づいたからか。露骨に恋人のフリをすれば向こうは諦めると思ったから。
……いきなり近づくから激しく動揺した。思わず塩飴を丸ごと飲み込んじゃった。
「普段は声をかけられないよう眼鏡をかけているんですよ」
「あ、そうなんだね」
「むむっ。私をアホな子と思っていませんか? 自分の容姿がどう思われるのかくらい分かっています」
月紫さんが照れくさそうに舌を出す。可愛い。これ可愛い以外の表現方法がないよ!?
「水瀬君がいてくれて本当に助かりました。先程からも守ってくれたり、はぐれないよう手を繋いでくれたり色々と気遣ってくれています。水瀬君はとても良い人です」
「良い人だなんてそんな」
面と向かって言われると照れてしまう。僕は気を紛らわせようともう一つ飴玉を口に放る。
「いきなり寄りかかってごめんなさい。ビックリしましたか?」
「ま、まぁ大丈夫」
「そうですか。……ではもう一度」
「ぬぐっ!?」
ほとんど舐めていないのにまたしても丸ごと飲み込んでしまう。月紫さんがもう一度、僕に寄りかかった。今度は手ではなく頭を僕の肩に乗せてきた。
「なな、なんで?」
「だ、駄目でしょうか?」
「駄目ではないけど……」
「ではオーケーということでっ!」
「は、はい」
数十メートル離れた丘の上にも演奏は届くも、僕の鼓動のドラムの方が大きくて全く聞こえなかった。
目が見えなくて不安だとしても、や、やけに月紫さんの距離が近いような気が……っ。




