126 一日目終了
入室時は清潔感ある立派な和室だった。それが今、宅飲み後のような凄惨な状態になっていた。
「ぐすっ、りゅーせー……!」
「えへへぇ~っ、みーなーせ君~っ」
僕が夢心地に浸っていた間に、金束さんと月紫さんによる飲みバトルが勃発した。
そして現在、二人は酔っぱらっている。
「ふ、二人共、落ち着い……あわわっ……!?」
大晦日に行われた対決では、飲み物がビールのみだった。月紫さんも金束さんもビールは飲めず、まともな戦いにはならなかった。
だが今回は日本酒や焼酎を飲んだ。さらに売店でカクテルを買い足してきたのであろう。数多の空き缶が転がっている。
この二人はビール以外なら飲める。飲めるけど……酔っぱらってしまう。
「ひっく、こっち見てよ馬鹿りゅーせー……私だけを見てぇ……!」
金束さんは泥酔すると、泣き上戸になる。こちらが何もせずとも勝手に大泣き。普段なら絶対にありえない行動をしてくる。
例えば、むぎゅうと抱きつい……てえぇえ!?
「こ、こぢゅかさん、胸が……っ」
むぎゅう、と。むにゅむにゅうぅ、と。僕の腕が沈んでいく。金束さんのきょぬーに沈み込んでいくぅ!?
なっ、なんという柔らかさ。何度か体験したことがあるが、いやあるのかよ僕すごいなおい、じゃなくて……いや、本当にすごい。
二つの大きなお胸に挟まれて自分の腕が見えなくなる。腕を包み込む、むにゅむにゅの感触……!
「やだ! 絶対に離さない! ひっく、ひっぐ……!」
「あばばばば」
浴衣は布が薄く、その分だけダイレクトに伝わってくる。水着の時と同じかそれ以上の感触。
こ、これはすごい、これはマズイ。僕も酔っているから余計にムラムラする。ムラムラするって言っちゃったよおい。
「みぃなぁせぇ君~っ!」
金束さんだけでもヤバイ。とんでもない。
それなのに、月紫さんもいる。
「え、永湖さん、缶を置いて。これ以上飲んではいけない」
「グビグビ~っ」
「あ、あぁイッキ飲み……」
金束さんとは反対側にいる、缶の中身を飲み干して緩みまくった月紫さんの笑顔。
上機嫌なのだろう。これ程に緩み弛んだ彼女は見たことがない。頬も瞳も熱したチーズみたくとろけて、声は柔を含んで甘ったるい。
「えへへへへへぇ~っ」
「す、すごい声だね」
「水瀬君のお顔が八つあります~っ。ヤマタノオロチです~っ」
ふにゃふにゃの声、注がれる熱視線。
酔った月紫さんの可愛さと見たことのない状態に対する不安、二つのドキドキが心臓を羽交い絞めにする。
「私はまだ飲めます~っ。グビグビ、ガブガブ~っ」
月紫さんはビールを受けつけない体質だが、他のお酒はすんなりと飲める。寧ろお酒が好きなタイプ。
ほろ酔いの姿は見たことがあるが、泥酔と呼ばれる状態の月紫さんを僕は知らない。
金束さんは酔うと泣き上戸になる。
ならば、月紫さんは? 金束さんと同様、月紫さんも泥酔すると豹変するのでは……?
「えっへへぇへへ~っ」
「それどうやって発音しているの?」
もしかすると、月紫さんまでもが泣いたり甘えてきたりする恐れが……それはマズイ、それはヤバイ。一人では耐えられる自信がない!
「ぐかー! すぴー!」
ちなみに不知火はアテにならない。布団を敷き終えたと思いきや、耳栓とアイマスクを装備して布団に潜り込みやがった。んな露骨に寝たフリしなくても……!
「と、とりあえずお水を飲んで酔いを醒まそう」
「私はまだ酔っていませんよ~っ」
「いや酔っている人はみんなそれ言うから!」
金束さん一人だけでも大変なのに月紫さんまで……。
「えへへ…………ふ~……」
……? 今、何かがブツッと切れる音が聞こえたような……。
「りゅ~せー! こっち見て……そっち見ないでぇ……!」
金束さんが僕の頬を叩いてきた。相変わらず痛くないけど連続で叩き込まないでくださ……い……?
「水瀬君」
「どうしたの永湖さ……ん?」
「その人の方が気になるんですか」
金束さんとは反対の頬を叩かれた。優しく、けれど力強く。
月紫さんが僕を見ていた。無表情で、僕を見ていた。
「な、何その顔は」
「私より、その人の方が、いいんですか。水瀬君、答えてください」
「永湖さん……!?」
金束さんの相手をして目を離した間に月紫さんの表情が一変。
緩んでいた、弛んでいた。それが今、真顔になっている。
「身勝手で酷いこと言ってばかりの人の方を優先するんですか。私はいつも、いつだって、水瀬君のことを第一に考えているのに、私のことはどうでもいいんですか」
強烈で冷ややか、怒気で濁らせた声ながらもハッキリとした口調。
どういうことだ。様子が変だ。何か、嫌な予感がする。
え、と、この感じは……怒り……? 月紫さんが、怒っている……?
「私があんなにこんなにアピールしているのに、どうして曖昧な態度しか取らないんですか」
「あ、あの急にどうし」
「いい加減にしてください!」
「っ!?」
ついさっきまで上機嫌だったのが嘘のようだ。様子がおかしい。月紫さんらしくない。
気立てが良く、天然でおっとり、ぴょんぴょんと飛び跳ねるような、形で表すなら丸っこい性格の持ち主の、そんな月紫さんが今はいない。
あの淑やかで温厚な月紫さんが怒鳴っている。怒りを剥き出している。
「私はお父さんとの約束よりも、正月の帰省や同窓会よりも、他の誰よりも何よりも水瀬君を最優先にして、水瀬君に振り向いてもらおうとたくさん作戦を考えていっぱい積極的にアタックしているのに。どうしてちゃんと見てくれないんですか!」
泣き上戸でも甘え上戸でもない。
これは…………怒り上戸、というやつなのでは……!?
「永湖さ……っ!? あの、えっと、ふぬぐ、ふぇあうぁう、冷静に」
「誤魔化さないでください!」
「ひいいぃ!?」
悲鳴が出る。叫んでしまう。
ついさっきまでとろけていた月紫さんの態度が急変した。金束さん相手に放っていた黒いオーラと冷淡な声で僕をぶっ刺す。
き、キレている。月紫さんが僕にキレている!?
「我慢の限界です。もうちょっとハッキリとしてください!」
「ひ、ひいぃ」
口から溢れ出る悲鳴。体内でも阿鼻叫喚。僕はビビリにビビる。
なんてことだ。月紫さんは泥酔すると、怒り上戸になるのか……!
怒り上戸の月紫さんの剣幕は、ヤバイ。本格的にヤバイ! 出会った頃の不知火の「あ?」や金束さんの「何よ!」よりもヤバイんだが!?
「前に言いましたよね? 水瀬君が決めたのなら私は文句ありません、と。でも水瀬君はいつまで経っても決めません。ウダウダしています! ホテルに泊まった時、逃げたこと今でも怒っているんですからね!」
酔っているはずなのに声が流暢だ。放つ言葉は鋭利で、僕の身と心を切り裂く。
ドキドキの騒ぎじゃない。怒気怒気だ。何言ってんだ僕は!? と、とりあえず月紫さんを宥めなくては。
「ホテル……? りゅーせーが……? わ、私、知らない……えぐ、ぐす、りゅぅせぇ~……っっっ」
しかし月紫さんだけに意識を向けられない。反対側で金束さんが泣きじゃくる。僕に抱きつく。
「金束さ……ぐにゅ!?」
「またそっちを見ています! 今は私と話している最中ですよ!」
「りゅーせーこっち見てよぉ……」
一人は大泣き、もう一人は大激怒。
泣き上戸と怒り上戸に挟まれて、僕の精神は完膚なきまでに叩きつけられ……ぐええぇ!?
人は酔ったら性格が変わると言うけれどこれは異常。泣くも怒るもクセが強すぎる。
どちらか一人を相手するだけでも大変なのに同時に二人は無理だ。
「水瀬君!」
「りゅうぅせえぇ……?」
なんで? なんでこんなことに……!?
泣き上戸の金束さん、怒り上戸の月紫さん。両者の暴走はいつまでも続いた。
僕に出来たのは、ひたすら耐えることただそれのみ。二人が寝落ちするまで耐えた、瀕死の精神で耐えきった。
「ぬ゛あ゛ぁ゛……」
そりゃ濁りまくった声が出るよ。
しばらく経って二人は電池切れのように寝静まった。
安堵する暇もなく、僕は二人を女部屋に運んだ。一人ずつ運び、その度にはだけた浴衣の隙間にZ注目したがる眼球と欲情を抑え込んでなんとか二人を布団に寝かせた。
「つ、疲れた。スノボよりも疲れたぁ……!」
男部屋に戻った僕は顔面から布団に倒れ込む。痛い。知るか。さっさと寝たい。
雪山ビールの感動も酔いも完全に消え去った。心身に残るのは疲労感だけ。
こ、こんなことってある? 大学生がスノボ旅行に来てこんな思いをすることってある!?
「流世、お疲れさん」
電灯が消えた室内に男の低い声が響く。
僕は布団に押しつけた顔を横に向け、暗闇で見えないが隣にいるであろう不知火を睨みつける。
「不知火、起きていたならお前もあの二人を運ぶのを手伝えよ」
「俺もあの二人を抱きかかえて運べと? 俺は触っちゃいけねぇだろうが。分かるだろ」
「分からない!」
今日のお前は冷たいぞ。もっと僕を助けてくれよ。なんで無視するんだ!
「はいはいそれいいから。疲れたなら早く寝ろ。明日も滑るんだぞ」
「僕はもうお家に帰りたいよ……」
さっきの惨状とまではいかないにしても、明日も大変なのだろう。最大の楽しみだった雪山ビールが終わった今、僕は何を糧に明日も乗り切ればいいんだ……。
「どうしてこんな目に……」
「おいおい、笑わせるなよ」
不知火の笑い声が響く。
「どうしてこんな目に。それは自分に言い聞かせているのか? それとも俺に言っているのか? 後者だとしたら俺も見くびられたものだな」
「……なんだよ」
「親友の面構えがクリスマス直後とは全然ちげぇことに俺が気づいていないとでも?」
「……」
「なんで? 分からない? この期に及んでそれはないぜ。月紫が言っていた通り、いつまでウジウジしているつもりだ?」
「……寝る」
うつ伏せから仰向けに体勢を変え、慣れない枕に頭を打ちつける。
「あー、悪かった。言いすぎると流世は自虐するよな。これ以上は言わねぇよ。とりあえず俺は流世の味方だ」
「味方、か。先日、同じこと言って裏切られたばかりだよ」
「マジか。どこのどいつだ。ぶっ飛ばしてやる」
「あの性悪おばちゃんは相手にしない方が賢明だよ」
「あ?」
「おやすみ」
不知火に背を向けて目を閉じる。
「まだ寝るなよ」
「早く寝ろと言ったのは不知火じゃないか」
「修学旅行の夜みたいでワクワクするだろ?」
「高校の修学旅行は誰とも喋らず真っ先に寝たタイプの人間なので知らない」
「そう言うなよ。俺は楽しいぞ。何気に流世と旅行するのは初めてだからな」
「はいはい僕も嬉しいよ」
「マイフレが冷たいぜ」
「どの口が言ってやがる」
僕が言葉を投げ捨て、不知火がまた笑う。
寝る直前の他愛もない会話。あとは寝るだけだ。その証拠に、不知火が寝返りを打つ音が聞こえる。僕も寝よう。
沈黙が訪れた。けれど眠気は訪れない。
僕はもう一度、目を開く。そして閉じる。開いても閉じても、どちらにしても視界は真っ黒。先は見えない。
……どちらを選んでも、未来は見える。あの二人のどちらかが苦しむ姿が見える。
「不知火」
「あ?」
「行きの車内で言いかけたことだけどさ」
「ああ、言いかけていたな」
「……僕は今のままでいいんだ」
選んだら、崩れる。
身に余る今の幸せを、楽しい日々を失ってしまう。
「今日みたいにみんなで楽しく過ごす。それでいいんだ」
「……」
「気づいたよ。絶対にありえないと言って誤魔化したけど、痛いくらい伝わってきた。あの二人が僕のことをどう思っているのか。だから喧嘩するんだよね」
「それでも、僕は選ばない」
僕の選択が誰かを傷つける。
「月紫さんと金束さんは僕の恩人で大切な友達だ。傷つけたくない」
想いが報われない苦しみを、失う辛さを、どちらにもさせたくない。僕のせいで、一年前の僕と同じように……。
それに気づいた時にはもう手遅れだった。このありさまだ。
「分かっている。今になってこう悩むことも、選ばないという選択すらも、余計に苦しめるだけ。どうなっても苦しんでしまう……傷つけてしまう」
「……」
「僕は最低だ。僕が悪いんだ。だから、このまま僕のせいにさせてくれ」
どうせ苦しめてしまう。ならばせめて最も苦しむのは僕であるべきだ。
現状維持。答えを出さない。どちらも選ばない。そうすれば、きっといつか訪れるはず。
いっそのこと今の日々が崩れてもいい。僕が一番苦しむのなら。
「もしかすると、あの二人は僕を見捨ててくれるかもしれない。そうなったら、いや、そうなるのが一番……」
「ぶん殴るぞテメェ。それだけはぜってぇ許さねぇからな」
「っ、な、なんだよ……」
「悩んでいい、手遅れでもいい、何もしない以外の選択をしろ。自分が一番苦しめばいいとか思ってんじゃねぇよ」
ぼすん、と音が鳴る。不知火が寝た体勢で振り下ろしたのであろう拳が、僕の胸を叩いた。
「くだらねぇこと言いやがって。酔っているんだな。じゃあ寝ろ。さっさと寝やがれクソが」
「……おやすみ」
「おう」
しばらく経ち、不知火の寝息が聞こえてきた。でもこいつはまだ寝ていないだろう。
僕も寝ない。眠れない。……二人の顔が思い浮かんで離れない。
どちらも大切で、どちらも傷つけたくない。
それでも伝えなくてはいけない。苦しめることになっても、僕の口からハッキリと。
「……僕は…………」
「んっ……あれ、ここは……?」
「あ、起きましたか。気分はどうですか」
「なっ……! ふん、気分は最悪ね。アンタなんかと並んで寝なくちゃいけないから!」
「私ではなく水瀬君と一緒に寝たかったですか?」
「う、うるさい」
「どうやら私達は酔い潰れてしまったみたいです」
「うるさい。アンタとは話したくないわ。黙って寝なさい」
「水瀬君のどこが好きなんですか?」
「…………好きじゃないわよ」
「分かりきっていることなので隠さなくて結構です」
「……」
「私は水瀬君の優しさに惹かれました。水瀬君自身はそんなことないと言うし自分を卑下しちゃいがちですけど私は知っています。一人の楽しさも寂しさも理解していて、だからこそ他人に優しい。自分のことを蔑ろにしてまで人を思いやることが出来るんです。それが少し心配で、でも私はそんな水瀬君が好きです。大好きなんです」
「……私だって知っているわよ」
「でしょうね」
「ふんっ」
「あとビールのことになると無邪気になるところが可愛いですっ。笑顔も大好きです。あの笑顔は可愛すぎますよね」
「あんなのキモイだけよ」
「あなたは素直になりませんねー」
「別に! ふんっ!」
「そうですか。……そんなことしていて後で悔やんでも知りませんからね。私はこれからも遠慮なくアタックしますよ」
「うるさい! 勝手にすれば! 私はあんな奴大嫌いよ!」
「……」