121 同じ思いをさせたくない
客としては二度と来ないと決めた居酒屋に、今日は店員として来た。
忘年会シーズンが終わってもつくしんぼは大盛況。新年会なのか、仕事仲間に囲まれた常連のおっさんが「ここは俺の行きつけなんだぜ」と自慢げに幹事する様を尻目に僕は忙しなく働いた。
「したり顔で『いつもの頼む』と注文された時は焦ったなぁ」
僕はおっさんがよく飲む酒を把握していないし、知っているであろうおばちゃんはわざと甘ったるいカルーアミルクを出して嫌がらせをしていた。おっさんの面目丸潰れだよ。可哀想に。
「今日も疲れた。早く帰って明日の準備をしなくちゃ」
独り言を呟きながらタイムカードを押す。私服に着替えて更衣室を出る。
「流世君、かーえろっ」
時を同じくしてバイトを終えた木葉さんが更衣室の前で立っていた。
もとい、僕を待ち構えていた。目尻を垂らしてニッコリニコニコと微笑む。
ちなみに木葉さんは常連のおっさんに対して「いつも娘さんにめちゃ嫌われている話をしていますよね!」と暴露していた。悪意がないのも恐ろしいね。おっさんもうこの城に来られないと思うよ。
「……」
「あ、待ってよ。スタスタ歩くの禁止」
話を戻そう。木葉さんは僕が出てくるのを待っていた。
無言で素通りするも、木葉さんは僕の隣に並ぶ。……今日も家まで送ることになるのか。
「何を渋い顔しとるん。男なら女の子を送るのが常識やろーに。流世群は馬鹿なんなー」
おばちゃんが僕を咎めてきた。制服の豹柄Tシャツを脱いでタンクトップ姿、ぶおえぇ!? タンクトッぶぼべえぇ!?
「うえっ……」
「何をえづいとるん。あ、私に欲情したん? 流世群のエッチ~」
ちげぇです、ただの気色悪さだ。焼酎ロック連続イッキより気持ち悪くなった。
「めちゃお疲れ様でーす」
「はいおつー。ちゃんと流星群に送ってもらいんさいよ。夜は危ないんやから」
「大丈夫だよ、流世君はなんだかんだ送ってくれるもん」
「さすが流世群~」
いいからあなたはさっさと服を着るかデジョンしてください。いやもういい僕が去ります。
「お疲れ様でした」
悍ましき熟女を視界からフレームアウトさせて店を出る。正面の出入り口の地べたでおっさんが「後輩に冷ややかな目をされた……」と言いながら四つん這いになっていたが見ないことにした。ご愁傷様。
「なまら寒いね」
「そうだね」
「おしるこ買っていい?」
「僕に聞かないで」
「おしるこ~」
薄白い電灯、オレンジの提灯、照らされた飲み屋街を数多の人が行き交う。酔っぱらいのサラリーマン、我が物顔で歩く大学生、飲み屋街ならではの光景が広がっていた。
「ちゃんと傍にいてね。じゃないとナンパされちゃう」
「僕がいなくても大して変わらないよ」
「あっ、まるでアタシに魅力がないみたいな言い方だ」
自販機の前、木葉さんがしゃがみ込んだ体勢で僕を見上げた。むすっとしている。
違うよ。僕が言いたかったのは、僕がいてもいなくても木葉さんは声かけられるってことだ。
「お、茉森じゃん。今から飲もうぜ」
ほら予想通り、この通り、メインストリート通り、歩くだけで木葉さんは声をかけられる。学科以外でも顔が広いのだろう。特能『人気者』持ちだね。
「どうしよーかな。バイトで疲れちゃったの」
「いいじゃん飲もうぜ。昭馬の部屋で飲むからいくらでも暴れられるぞ。最近は茉森も酒飲むようになったからさらに楽しいじゃん」
「あはは、まだ全然飲めないよ。特訓中!」
「じゃあ今から特訓だ!」
数人の男女に飲みを誘われて、木葉さんは持ち前の快活さで会話を弾ませる。
僕は黙ったままその場を後にする。
「あ、流世君……。ごめん今日は行けないや。今度埋め合わせするからっ」
後から聞こえる木葉さんの声。足音が近づいてきて、腕を掴まれた。
「もー! 流世君ってば勝手に行かないでよ」
「知り合いと話していたからもういいかなと」
「待っていればいいし、流世君も会話に混ざればいいじゃん。流世君はコミュ障だね」
「……」
「怒った? 流世君は面倒くさいな~」
「別に怒っては……うぐっ」
缶を頬に押しつけられる。自販機のホット飲料の中で随一の熱さを誇るおしるこだった。
「あったかい?」
「……あったかいというか熱い」
「おしるこだもん。ぶち美味しいっ」
「そうですか」
よくシェイクしてから蓋を開け、木葉さんがおしるこを飲む。
夜風が吹き、ふわふわにカールした毛先が浮き上がる。飲んだ口先からは白い息がふぅ、と出る。
「流世君も飲む?」
「いらない」
「体あったまるよ」
「結構です」
「もしかして間接キスとか気にしてる?」
「別に」
「声が上ずってるよ」
「……」
そうだよ気にしているよ悪かったですね。トラウマが蘇るんだよ。
「めちゃぽかぽかだ。ねー、本当に飲まないの?」
「飲まない」
「じゃあ代わりに、ぽかぽかのお裾分け」
木葉さんは空いた手で僕の腕を掴むと、体を寄せてきた。
「……何しているの」
「暖かいでしょ?」
「別に」
「声がごっつぅ上ずっているぅ」
「……」
「まーまー、いいじゃん。ドキドキするね」
「そこ水たまりがあるから気をつけて」
「流世君が冷たい」
「普通だよ」
あなたが異常なだけだ。あんなことがあったのにこんなにも接近する。こちらを勘違いさせる行動をする。
悪意はないだろうし特別な意味もない。無邪気にやっているからこそタチが悪い。
「離れて。歩きづらい」
「ねーねー」
「うるさい」
「アタシのこと清楚ビッチって思ってる?」
「清楚ビッ、は、はい?」
急に何を言いだすんだ。
「学科の男子が言っていたのを耳にしたんだ。やっぱりアタシってそーゆー風に思われているんだね」
「……さあ、どうだろうね」
それに関しては学科の男子の言う通りだ。木葉さんは距離感を詰めすぎる。彼女としてはただ仲良くなりたいだけ、誰に対しても平等に接しているつもりなのだろう。
だが受ける側は好意だと勘違いする。一年前の僕がまさにそれだった。
……思い出して嫌になる。恥ずかしくなる。あー黒歴史。
「みんなとの接し方を改めないとな~」
「だったら今すぐ離れて」
「やだ。流世君との接し方は今のままでいいもん」
「……またそうやってからかう」
「違う違う! 本当に流世君だけは違うから」
笑う木葉さん。おしるこを飲む。そしてまた笑う。
「流世君はめっちゃ特別だよ♪」
赤い頬、白い息、冬の季節に映えるその姿と表情。僕はため息をこぼす。
「清楚ビッチ」
「あっ、流世君も言った! ごっつ酷い!」
「はいはい」
僕の腕を振りまわして声を荒げる木葉さん。僕はそっぽを向いて息を吐く。
「あっ、そういえば成人席で振袖を着たよ。写真見てみて」
「振袖……」
「けっこー似合ってるでしょ?」
「しまった、月紫さんの振袖姿の写真を見るのを忘れていた……!」
すっかり忘れていた。次会った時は真っ先に見せてもらおう。
「流世君、ねーアタシの振袖姿は?」
「あ? ああ、はいはい」
「……」
「離れて。ちょ、力を込めないでよ」
「いーよね、あの二人は」
木葉さんが力を込めて腕を掴む。その後、僕から離れる。
「何が」
「スズちゃんとエーコちゃんのことだよ」
不意に何を言いだすかと思えば、金束さんと月紫さん?
「あの二人がなんだって?」
「どっちも可愛いよね。アタシなんかよりむちゃ美人で良い子だよね」
「それは間違いない」
「……」
「おしるこを頬に押しつけないで。まだ熱いんだね。おしるこのポテンシャルすごいな」
プルタブを開けてしばらく経つのに容器は未だに熱を持っている。おしるこの熱さを思い知った。
「こじゃんこ酷い。アタシのことはどーでもいいの?」
「まあ、あの二人に比べたら」
「だよね。アタシよりもエーコちゃんの振袖姿を見たがっているし、スズちゃんが抱きついた時はもっと嬉しそうにしていたもん」
「あの二人は僕にとって大切な友達だからね」
「友達ねぇ……へー」
おしるこを啜り、空になったのか、缶をゴミ箱に押し込むようにして捨てる。木葉さんは空を見上げて勝手に喋りだした。
「今日、スズちゃんと一緒に地理学を受けていたのを見たよ。くっついて座っていたね」
「あれは金束さんが『隣にチャラい男が座ってきたキモイ! もっとそっち詰めなさいよ!』と騒ぐから」
「それに先週はエーコちゃんと二人で新幹線に乗っていた。偶然見たよ」
「友達なら遊びに行くでしょ」
「友達、ねぇ~」
「……さっきからなんだよ」
一定の距離を空けて歩く。距離を空けた分だけまるでタイムラグが発生したかのように、木葉さんからの返事は遅くなった。物憂げに何かを考えている。
その分だけ僕も考える時間が生まれる。……渦巻く感情が蓋をこじ開けようとする。
「友達以外の、ううん、友達以上の感情があると思うよ。あの二人も、流世君もね」
「……」
「だってアタシがくっついたら嫌な顔するのに、エーコちゃんやスズちゃんがくっついても嫌がらないじゃん」
「友達だからって言っているだろ。単に君よりも仲が良いからだよ」
「だからそれだけじゃないって。流世君自身も、多少なりと気づきかけているんじゃないの?」
「……」
「ベタベタしてスキンシップを取って、それを友達としての関係で済ませられると本気で思っている?」
「うるさい」
「それはスズちゃんの真似?」
「……うるさい」
やめろ。それ以上、言わないでくれ。
これ以上、僕は望んでいないんだ。
「こもろお姉ちゃんに聞いたよ、またスズちゃんとエーコちゃんがお店に来て大変だったらしいね。その時も感じたんじゃないの? あの二人がどうして仲が悪いのか、どうして自分に寄り添ってくるのか。流世君のことになるめっちゃくっちゃ必死になるのはどうしてだろうって考えたことあるでしょ?」
「……」
「まー確かに流世君はにぶにぶだけど、それでも本当は分かっていると思うんだ。でしょ?」
「君が人の気持ちが分かる人間だとは思わなかったよ」
「えっへん、アタシも成長しているんだよ。それに今のアタシは流世君のことちゃんと見ているからね」
「一年前は僕を見捨てたくせに」
「謝ったじゃん~。流世君はネチネチだなー」
「はいはいごめんなさい」
「ねー、いい加減答えてよ」
おしるこの異様な熱さがまだ残っているに違いない。隣から向けられる視線が熱く、痛いくらい突き刺さる。
僕は尚もそっぽを向いて、吹きつける夜風に目を細める。既に蓋は崩壊した。
「あの二人のこと、どう思っているの?」
……本当、君は酷いね。あの頃と変わらない。悪意もなく遠慮もなく、僕の心をかき乱す。
「ねーってば。流世君は二人のこと好きじゃないの?」
「友達としては大好きだよ」
「じゃあ異性としては? ねー、答」
「今のままが一番良いだろ」
それ以上言うな。これ以上はいらない。
何度でも言う。僕にとっては、友達になれただけで奇跡なんだ。
「なんですぐ付き合うとかそういう話に持っていくんだよ」
木葉さんも不知火さんも、鋭いことを指摘してくる。この先に待っているであろう展開を当事者でもないのに言ってくる。
言われなくても分かっている。ありえないと蓋をしながらも、友達以上の関係になる未来も思い描ける。考えるだけで烏滸がましい僕なんかじゃ不分相応な可能性だと思いながらも、考えてしまう。
あの二人がどうして険悪なのか、どうして僕との友好度を競い合うのか、その理由に思い当たる節がある。……原因が僕自身にある。
でも、僕は今以上の関係を求めていない。欲しくないし、崩したくない。
「一人酒に逃げた僕に、君や学科の人に見捨てられた僕に、誰かと一緒にいる楽しさを教えてくれた。誰かと一緒に飲むビールの美味しさを教えてくれた。それで十分だ」
「それは……今の関係を崩したくないってことかな?」
「現状維持でいい。今のままでいいんだ」
そりゃ月紫さんと金束さんが喧嘩する姿は見たくないけど……でも……。
君のような華やかな人気者や陽キャとっては些細なことだろう。でも僕にとっては友達だと言えただけでもすごいことなんだ。
僕は今が一番幸せだ。ビールを楽しく飲めている。一人ぼっちだった自分が、一人だけのシチュエーションしか考えてこなかったこの僕が、最高のビールを知れた。あの二人が僕を救ってくれた。僕と友達になってくれた。
今この時を崩したくないって思って何が悪い。
僕なんかのせいで、あの二人のどちらかを裏切りたくないと思って何が悪い……!
「頼むから邪魔するな。放っておいてくれ」
裏切られて苦しんだこともない木葉さんが勝手にベラベラ言うな。
自分自身で痛い程分かっているんだ。そんなことありえないと否定しながらも、その先に待つ未来を考え尽くしている。
もし僕がこれ以上進もうとしたら。
誰かを傷つけることになる。裏切ってしまう。
だったら現状維持が一番だ。選択しないのがベストだろうが。
僕が味わった思いを、思いが報われない苦しさを、どちらにもさせたくない。
「……そっか。ごめんね、無粋な詮索しちゃった」
横を見る。木葉さんは閉じたかのように目を細くさせていた。空いた両手を胸の前で擦り合わせ、尚も物憂げな表情を浮かべる。
「分かったら二度とその話をしないで。さっさと帰るぞ」
「傷つけたくないってことは分かったよ。けどさ、今の話に」
僕の一歩先を進み、こちらを振り向く。
「今の話に、流世君の想いは一つとして入っていなかったよね」
夜風が吹く。夜風が寒く、体の奥底が煮えたぎるように熱く、木葉さんの視線は全てを無にして貫いた。
僕は……言葉に詰まる。胸が詰まる。
「ねー、いい加減答えてよ。流世君自身は、どう想っているの」
「……」
「自分が選択すると苦しい思いをさせてしまう。だから場を濁してどっちつかずにする。ちょびっとズレているよね。あの二人のことを言い訳にしてるだけ、二人の気持ちを無下にしてる、自分の気持ちにも向き合おうとしていない」
「流世君は自分自身の想いをぶつけようとは思わないの?」
言葉に詰まる。胸が詰まる。
痛い。痛くて苦しくて、何も言い返せない。
「うるさい。自分が楽しみたい為だけに他人を振りまわしてきた木葉さんが言えた義理かよ」
やっと出た言葉は質問に答えられていなかった。
「あははっ、それ言われたらアタシは何も言えないや」
また風が吹く。体を冷ましてくれる。
爆発寸前の感情に蓋をして、僕は立ち止まった木葉さんを追い抜いて歩く。
「帰るよ。明日は早いんだ」
「どこか遊び行くの? エーコちゃんと? それともスズちゃん?」
「うるさい」
「怒らないでよ~。アタシが悪かったって」
「別に。木葉さんは悪くない」
……分かっている。何かもかも、悪いのは僕だ。
「うーん、変な空気になっちゃった。あはは。とりあえずアタシは」
「……アタシは、入る隙がないってことは痛感させられたよ。一年前はアタシが一番近かったのにねー……」
「……」
「ねー、またおしるこ買っていい? 今度は一緒にシェアしよーよ」
「勝手にどうぞ」
「あっ、今了承した! じゃあ飲み合いっこしよーねっ。流世君とめちゃ間接キス~」
「僕もおしるこ買う」
自販機のボタンを強く二回押す。
「ほらよ清楚ビッチ」
「あーまた言った!」
木葉さん用のおしるこを彼女に押しつけて、僕は自分用に買った異様に熱い液体を喉に流し込んだ。