12 訓練開始
「お邪魔しますっ」
ペコッと頭を下げ、キチッと靴を揃え、ニコッと微笑む。
大きな眼鏡をかけた黒髪の地味っ子&不思議っ子な女子大生こと月紫さんはカーペットの上に座った。
「センスの良いお部屋ですねっ」
「特に何もない平凡な部屋だけど」
「あ、そうなのですね。男の子のお部屋に入るのは初めてなのでテキトーに褒めてみました」
「ふ、フランクに述べるねぇ」
「フランク・ニ・ノーベル? 私は外国人ではないですよ」
「そういう意味じゃない。なぜ強引に人名に変換したの?」
「?」
無邪気であどけない笑顔がハテナマークを浮かべる。あ、いえ、もう大丈夫です。
顔に満面の喜色を浮かべる月紫さん対し、僕は困惑を隠せない。つい今しがた繰り広げた不思議な会話とは別に、非常に動揺している。
なんと今日も部屋に女子を招いてしまったのだ。しかも金束さんではなく違う女子。僕はリア充への扉を開こうとしているのかもしれない。好機到来、大学生用語で言うところのワンチャン。
……そんな技量と度胸はないっての。ビビリボッチですよーだ。
「これからよろしくお願いします」
「あ、あぁ、うん。じゃあ始めようか」
「はいっ」
両手をグーにして構える月紫さんはやる気十分といった具合。
その姿は見ている分には大変微笑ましいのだが、今からやることの内容を考えるとちょっぴり残念にも思える。二人の若い男女が部屋でやることが、ビールを飲む為の訓練だもの。いやまぁ教えると言い張ったのは僕なんですけどね。
「人間は三種類に分けられる。最初からビールが飲める人、訓練して飲めるようになる人、訓練しても飲めない人だ」
「私はどれでしょう?」
「僕に聞かれてもなぁ。訓練したら飲めるようになる! に期待しよう!」
「期待ですっ。ちなみに水瀬君はどれだったのですか?」
「三種類のうち? 僕は……二番目かな……」
「水瀬君も最初は飲めなかったんですね。では私にも可能性がありますねっ」
「そうだね」
気を引き締めて、僕もカーペットの上に座る。目の前には月紫さん。
本日から訓練開始だ。目標は、月紫さんがビールを飲めるようになること。この人は口に含んだ瞬間に吐き出してしまう程の耐性のなさを誇っている。下戸とかそんなレベルじゃない。
「どのように訓練するのでしょう?」
苦手ならとことん飲めば解決の糸口になる。しかし飲んだ瞬間に吐き出されてはその力技も効果的とはならない。
「まずはこれから飲んでみようか」
考えた結果、僕が用意したのはノンアルコールビールだ。
「アルコールなしのビールですか?」
「味は本物と差異ないと思うよ」
ノンアルビールとはその名の通り、アルコールが入っていないビールである。ビールを飲みたいけど車を運転しなくちゃいけない等の要望に応えて誕生したらしい。
アルコールが入っていないだけで味や喉越しは一般のビールとほぼ一緒。おいおい全然違うだるぉが、といった声もあるが、大学生に飲み比べをさせたら正解率は低いんじゃないかな。ちなみに僕は分かる。どんっ。
「思うに、月紫さんはビールではなくアルコールが駄目なのかもしれない。まずはこれで検証してみよう」
「なるほど。水瀬君は頭が良いですねっ」
ノンアルビールを眺めていた月紫さんが、視線を僕に向けて笑う。心から笑っているような、純粋な感想を述べてくれたような気がした。
女子から褒められてなんだか嬉しい。あぁ、月紫さんは良い人だ。
「げほっごほっ!」
「一秒前の僕の気持ちを返して」
月紫さんは口に含むと同時に噴き出した。僕の方を向いていたので僕の顔面はビシャビシャ。前回と同じ展開だ。
「はぁ……」
僕はタオルで顔を拭きながらため息を漏らす。
駄目だったか。ノンアルならイケると思ったんだけど。
「うぅ、ごめんなさい」
「あ、いや、謝らなくていいよ。仕方ないよ」
「私っ、頑張りますっ」
この程度ではへこたれないぞ、の意欲は伝わった。間髪入れず二口目を運ぶのも大いに結構。
けれどお待ちください。せめて僕の方を向かないで。それするとたった今タオルで拭き終えた僕の顔がまたしても、
「げほ!」
「ほらこうなる」
リプレイのような見事で完璧な再現率。僕は再びビールまみれになる。何これコント?
僕の顔面もテーブルもカーペットもビチャビチャだ。そして心はどんよりグッタリだ。
「ごめんなさい!」
「オーケーです。とりあえず三口目は待って。被害を拡大させたくない!」
月紫さんには落ち着いてもらって僕は後処理を始める。顔を拭いてテーブルを拭いてカーペットを拭いて、拭きまくりだ。
それはともかくとして、いくつか分かったよ。
「月紫さんはビールそのものに拒絶反応を示すみたいだね」
アルコールの成分が関係しているわけではない。ビール自体がNGなのだ。ビールすなわち吐き出すもの、と脊髄反射で反応している。
「発泡酒や第三のビールも一応は用意したけど……」
「?」
「や、やめておこうか」
結果は見えている。これ以上の被害は御免こうむりたい。もう一つ分かったのは、こういった訓練をする時は事前に新聞紙やシーツを敷いておくべきだ。僕も顔をビニール袋で防御することにしよう。
「三口目いっていいですか?」
「駄目。絶対に駄目!」
言っとくけど僕は女子にビールを噴きかけられて興奮しないからね。アブノーマルな趣味はございません!
「となると、どうしたものか」
詰んだ。訓練の仕様がないのだ。口に含んだ瞬間に吐かれては練習も何もあったものじゃない。
無理やり飲ませ続けたらいつかは慣れるかもしれないだろうけど…………無理はさせたくなかった。
無理して飲む。無理やり飲ませられる。あの辛さを味わってほしくない。あの頃の僕のような、惨めな思いは……。
「水瀬君?」
「……ぁ、いや、だ、大丈夫。なんでもない」
「私、闘志を燃やしますっ。三口目の許可をくださいっ」
「げ、元気だね」
「元気? 私の名前は月紫永湖です。月紫元気ではありません」
「いやだから強引すぎる。頑なに人名と間違えるのは何? 不思議を通り越して摩訶不思議だよ!」
「月紫摩訶不思議アドベンチャー」
「……月紫さん、わざとやってない?」
「最後のはボケました。え、えへへ」
ごめんなさい、と付け加えて恥ずかしそうに笑う月紫さん。
照れた表情が可愛らしく、心をくすぐられた。わざと冗談を言える女子は可愛い。断言します。
うん、可愛らしいけど……最後以外はボケたつもりなかったのね。フランク・ニ・ノーベルは本気だったのか……。
「さすがにこれ以上水瀬君のお部屋とお顔を汚すのは忍びないので一旦休憩します」
「そうだね……。適当に寛いでください」
「漫画を読んでもいいですか?」
「どうぞご自由に」
「ありがとうございますっ」
嬉しそうに漫画を読む月紫さんを眺めて僕は思う。道は険しい、と。
前途多難だろうなぁ。どうやって訓練すればよいのか……。
「水瀬君のお部屋は素敵ですねっ。漫画喫茶みたいです」
「それ褒めてるの?」
「割と」
「割となんだね!?」
「冗談ですっ」
「あ、あはは。……次来る時にはビールの訓練方法を考えておくよ」
まだ始まったばかりだ。諦めるのは早い。次こそはビールを飲んでもらおう。欲を言えば、ビールの美味しさも知ってもらおうっ。
僕は改めて決意して、月紫さんが残したノンアルビールを飲……コップに移してから飲んだ。悪かったね、僕はビビリボッチですよーだ!




