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117 心細さと涙脆さ

 月が沈んで朝を迎えた。ホテルをチェックアウト、新幹線に乗り、新幹線を降りた。

 その間、月紫さんはずっとぶすっとしていた。話しかけても「むうむう」としか返してくれなかったです。

 何も間違いが起こらず無事に帰ってこられたのに、ホテルに行くまでは和やかな雰囲気だったのに、最後は微妙な空気になった。え、僕が悪いの? え、え?


 一生後悔するかもしれない。いやまぁ現段階でかなり悔やんでいるし、まさに据え膳食わぬはなんたらという状況だったと思う。


 でもあれで良かったんだ……。


「むがー!」

「……」


 月紫さんと解散し、家に帰ってきた。

 さて、数日後に向けて早急に処理しなければならない問題があ


「むがー!」

「あ、あの、金束さん?」


 ついさっきまで月紫さんのむうむうな表情を見ていた僕は、立て続けに別の人にも不機嫌な顔をされている。


「むがー! むがぁーっ!」


 髪を逆立たせて獅子の如く、溶鉱炉の如く真紅の瞳、放つは耳を覆いたくなる大怒号。

 僕が帰宅した直後になだれ込んできた金束さんは現在、ひじょ~に、不機嫌だ。


「私を置いて一人でライブに行った!」

「ご、ごめん。でも金束さんがすぐにこっちに戻ってくるとは思わな」

「うるさい!!」

「言い訳くらいはさせてくださひぃ……」


 僕がライブに行ったことに対してご立腹らしく、彼女の叫びと怒りは加速的に増していく。


「夏フェスの時も私に許可なく勝手に行った! 今回も私を置いていった! 何よ! 私とはライブを楽しめないって言いたいの!?」

「そ、そういうことではなくて」

「またアンタ一人で行……っ……ねぇ、まさか、あの地味眼鏡女と一緒に行ったんじゃ……!?」

「っ! い、いやあ、ライブは一人で観たよ」


 金束さんが鋭い。可視化したならさぞや鋭利な槍になるであろう眼光が僕を貫く。


「一人? 本当?」

「う、うん。一人でライブを観たよ」


 咄嗟に嘘を言ってしまった。

 い、いや、嘘はついていない。ライブを観る時は僕一人だった。

 ……ライブ以外は月紫さんと一緒にいて、同じホテルに泊まったことは伏せておこう。もし正直に告げたら……想像しただけで恐ろひいぃ。


「ならいいわ。いや良くない!」

「ひ、ひぃ」

「ふんっ、ライブの件は後でたっぷり懲らしめるわ」


 たっぷり懲らしめられるの……!?


「それより……ムカつく。何よあの地味女。邪魔しに来た!」

「な、何が?」

「私とりゅーせーの寝起きビールよ。あの女が乱入して邪魔したじゃない!」

「あ、あー」


 そういえば遠出する前日は金束さんが僕の家に泊まって寝起きビールに挑戦しようとしていたんだった。ホテルでの一件がヤバすぎて忘れていたよ。


「やっとりゅーせーの家でお泊ま、な、なんでもない! 同じ毛布にくるまって良いムー、なんでもないわよ馬鹿!」

「は、はあ」

「とにかくあの女は許さない!」

「あの女って呼んじゃ駄目だよ」

「うるさい! ムカつくのよ!」

「うるさいのは金束さんだって……」


 ご機嫌ナナメなのがデフォルトとはいえ、本日はすこぶる機嫌が悪い。

 月紫さんと知り合ってからの金束さんは特に酷くなったと思う。うぅん、なんだかなぁ……。


「ふんっ! ……で、りゅーせーは何をしてるのよ」

「レポートだよ」


 あと数日で冬休みが終わる。レポートを課されたことを思い出して今やっている最中です。


「レポート?」

「忘れていたよ。こいつの厄介さを」


 レポート課題は大学生の宿命であり、こればかりは避けようがない。

 数学のようにハッキリとした一つの解は存在せず、求められるのは的を射ているようでそうでないような、とにかく長い文章。場合によっては用紙が十枚にも及ぶ量を提出しなくてはならない。


「終わらない……」


 同じ文章を、表現方法を変えて何度も書く。ネットで拾った文献をちょこっと言い方を変えてそれっぽく仕上げる。小技を積み重ねて必死に文字数を稼ぐ。

 しかし終わりは見えてこない。未だに最初の村にいる感覚だ。ぐへー。


「ふーん。ねぇ紅茶お代わり」

「忙しいから自分で淹れてください」

「ねぇ、ねぇってば」


 やるからには集中してさっさと終わらせたいのに、金束さんが僕の隣でしきりなしに話しかけてくる。


「休み明けに提出しないといけないんだ」

「ギリギリまで放置するからでしょ」

「あなたが頻繁に来るせいで時間が取れなかったんですがそれは」

「紅茶お代わり」

「酷い」

「ねぇここのクイズ教えて」


 金束さんが雑誌を広げて僕の顔に押しつけてきた。

 さっきまで激怒していたくせして今はかまってもらいたい猫のようになっている。


「三人兄弟がおり、現在の長男の年齢は三男の年齢の2倍である。数年後、次男が17歳になると、三男の年齢は長男の年齢の7/11倍になるという。このとき、現在の次男の年齢は何歳でしょうか? 何よこれ、難しいわ」


 僕としても来客を放置したくない。前回の寝起きビールが有耶無耶になったこともあるし、もてなしてあげたいよ。


「レポートが終わったら一緒に考えるから待ってて」

「長男と次男が100m走をしたところ、長男がゴールしたとき次男は残り10mでした。次男と三男が100走をしたところ、次男がゴールしたとき三男は残り10mでした。では長男と三男が100m走をして長男がゴールしたとき三男は残り何mの位置にいるでしょうか?」

「僕の話聞いてた?」


 一問目を解き終えていないのに二問目に突入しないでよ。あとなんで三人兄弟系の問題ばかりなの? 三人兄弟系の問題って何?


「ねぇりゅーせー、ねえってば!」

「あとで考えるから」

「クイズはどうでもいいわよ」


 いいのかよ。


「私の相手をしなさい。りゅーせー、りゅーせーっ」


 い、いや本当にごめんて。僕だって金束さんと話したい。ビールを飲みたいさ。

 だが今の僕には出来ない。


「少しはこっちを向きなさいよ」

「……それが一番無理」

「はあ?」


 レポート課題があるから、というのは言い訳に過ぎない。それ以上に、僕が金束さんの相手を出来ない理由がある。

 正確には、金束さんの方を向けない理由があるのだ。


「どうしてよ。こっちを向きなさい」

「無理ですって」


 だって顔を向けたら……恐らく、当たってしまう。


「りゅーせーの机は経済学の本ばかりね。読んでいい? 読むわね」


 現在、僕は椅子に座ってレポート作業。金束さんは勝手に専門書を手に取りながら僕の横で中腰になって話しかけてくる。


 つまり、僕の視線の高さに金束さんのお胸がある。


 僕が横を向こうものなら、金束さんのたわわが視界いっぱいに映り込むだろう。下手すれば当たってしまう。だって大きいもん。

 それは良くない。精神衛生上よろしくない。超至近距離にあるんだよ? 視界いっぱいおっぱいなんだよ?


「ふーん、よく分からないわね。というかつまらない」


 金束さんが教科書を流し読みして不満を言う今も、僕は視界の端で大きょぬーの存在感を感じ取っている。こんなの興奮するに決まってる。興奮するって言っちゃったよおい。


「面白い本はないの? 卒アルは? 実家? 使えないわね」


 はぁ~……。月紫さんもそうだけどさ。金束さんも、もっとこう、注意してほしい。

 あなたは男性を魅了する素晴らしい武器をお持ちなのです。あまりに無警戒だ。僕じゃなかったら襲われている。日凪君や亀仙人だったら大変なことになっているよ。


「つまんない。りゅーせー勉強ばっかり」

「学生の本業は勉学ですから」

「アンタの仕事は私の相手よ」

「勝手に決めないでくださいな」

「……何よ。あの女にはデレデレしていたくせに」


 大きょぬーの存在感を上塗りする、不機嫌なオーラ。声が一段と低くなる。

 話題が月紫さんに関するものへ戻った。別の意味でヤバイ気がする。


「別にデレデレしているつもりは……」


 そう言いながらも、昨夜の記憶が蘇る。

 月紫さんのガウン姿、白い肌、谷間……っ、ゲフンゲフン。レポートに集中しろ。えーと、経済では貨幣価格がやはり外生的でありながらも量の多少によって倫理よりは少なからず月紫さんは着痩せするタイプであり魅惑のおっぱ、おおぉい? やっぱお前めちゃくちゃ後悔しているじゃないかっ。


「本当あの女ムカつく。何様よ」


 金束さんが怒りを再燃。また月紫さんに対しての不満が爆発している。

 僕に言われても困る。どうして目の敵にするんだ。

 それに、そんなにキツイ言い方しなくても……。


「前から言っているけどさ、あの女って言ったら駄目だよ」

「うるさい、うるさい! ムカつくのよあいつ」


 金束さんの口は閉じず、まだ全てを吐き出せていないとばかりに次々と悪態を放つ。


「地味女のくせに生意気なのよ」

「……」

「私より優位に立っている感がしてウザイ。キモイ!」

「……言いすぎだ」


 何かが沸々としてくる。


「うるさい! あの女は気持ち悪いの! いちいち邪魔してきて、本当、最低の人間よ!」

「……」


 僕は手を止める。レポート作業をやめる。いっぱいおっぱいだった思考も中断する。

 いくらなんでも言いすぎだ。


「あのさ」

「私達の邪魔ばかりする。図々しくて鬱陶しいわ。りゅーせーもそう思うでしょ!」

「いや思わない。月紫さんの悪口を言わないで」


 椅子を引き、金束さんの方を向く。レポートがヤバイとか胸が近くてヤバイとか、今はどうでもいい。さすがに酷すぎる。


「な、何よ、その目は」


 僕を罵倒するのはいくらでもしてもらって構わない。僕はビビリで根暗で陰キャだ。キモくてウザくてキモくてキモイだろう。何回だってキモイと言えばいいさ。


 でも月紫さんは違う。

 おっとりと不思議なテンションでごく稀に毒舌、ついていけない時もあるけれど、僕にとってかけがえのない友達。大切なことを教えてくれた恩人だ。


「本当のことでしょ。あの女はムカつくの!」

「やめて」

「は、はあ?」


 二人の仲が険悪なのかどうしようもないとしても、だからといって相手のことを酷く言うのは見過ごせない。


「永湖さんはウザくないしキモくもない」


 月紫さんが鮮明に思い浮かぶ。笑う姿、ビールを噴き出す姿、真剣な表情で僕を叱咤激励してくれたあの優しい顔。

 あんなにも良い人を、かけがえのない友達を、月紫さんのことを貶すのは僕が許さない。たとえ金束さんでも。


「な、何よ」

「いい加減にしろ。不快だ」

「っ、り、りゅー……」



「永湖さんの悪口を言うな」



 沸々とする怒りを言葉にして言い放つ。


「侮辱するな。最低なのは金束さんだろ」

「……っ」

「少しは反省してよね。僕はレポートする」


 柄にもなく怒ってしまった。でも我慢ならなかった。気分が良いものではない。でも黙っていられなかった。

 月紫さんのことを悪く言われるのは、自分のことを侮辱されるよりも苛立ったんだ。


「……」


 にしても、僕にしては語気が荒れていたな。不知火には遠く及ばないけど、僕もあんな低い声が出せるんだね。


「……っ、っ」


 カッとしてしまったし、スッとしたなぁ。

 けど……ちょっと言い方がキツかったかも。金束さんが黙ってしまった。

 まっ、どーせいつもの調子で「はぁ? 何か言った!?」といった感じで余計に憤慨するのだろうよ。焼け石に水ってやつか。今のうちに悲鳴をあげる準備をしておきましょ。


「な、何よ……」


 ほらきた。

 僕はもう一度椅子を引いて金束さんの方を向く。




 ……金束さん?


「な、何よ……そんな言い方しなくても……っ、っ」


 涙が落ちる。何滴も落ちて、線となって頬を伝う。

 顔はくしゃくしゃ。掠れた声はしゃっくり混じり。


 金束さんが泣いていた。


 ……この光景、どこかで見たことがあるよーな……。


「りゅーせーは、ひっく、私の味方じゃないの……?」


 あ゛ー…………こ、これは、マズイパターンですね。


「もう遅いけど言っていい? あのー……な、泣かないで?」

「何よっ、ぅ、あの女には優しいのに私には、ぐすっ、厳しいのよぉ……!」

「あわわわっ!?」


 やはり手遅れだった。金束さんが泣きじゃくる。

 決壊した涙腺からは止めどなく涙が溢れ、金束さんの顔はくしゃくしゃどころかぐしゃぐしゃになる。

 わ、忘れていた。金束さんは涙脆いんだった。僕がちょっとキツイ言い方をしただけで泣、あわわわぁっ!?


「ぐすっ、えぐっ、怒らなくてもいいじゃない……」

「お、落ち着いて。泣かないでぇ!」

「うりゅさい、っ、りゅーせぇが怒るから涙が止まらないのよ馬鹿ぁ……!」


 金束さんは泥酔したら泣き上戸になるし、シラフの状態でも涙脆い。僕がちょっと、ほんのちょーっと怒るだけで号泣してしまうのだ。


「ご、ごめん。少しイラッとしちゃって……」

「お、怒ってる。キツく言った……!」

「ななな泣かないでぇえぇ!」

「あの女の肩ばかり持つ……っう、私だってりゅーせーを……なんでよぉ……」


 小さな子供のように両手で目をぐしぐし、と擦りながら涙は全っ然止まらない!

 涙の滴が落ちていく。顔どころか胸元も濡れていく。どんだけ泣いているの!?

 なんという罪悪感。心臓が万力によって締められていく。あわわあぁ!?


「ぼ、僕が悪かった。強く言いすぎた。謝るから。ね? ね!?」

「う、うるさい、止まらないのよ、っ、ぐす」

「泣かないでぇえ!」

「りゅーせーの馬鹿ぁ……」

「罪悪感がぁ!」


 緊急事態だ! なんとかして宥めなくては!

 急いで紅茶を汲んでくる。紅茶を差し出して、続けざまに雑誌を手に取る。


「クイズ一緒に考えようか! うーん難しいね! 他にも三人兄弟系の問題があるよっ、えぇと長男がバイクで、三男が三輪車でP地点から移動すると」

「りゅ~せぇー……ぐす、ぐす、えぐぅ……」

「ひええぇ!」


 お、大泣きになってきた……!


「最近、全然、かまって、えぐっ、くれない……私はもっと、ぐすっ、いっぱいりゅーせーに甘えた、ぐすん、っ……!」

「ぐえええぇ!」


 このままでは金束さんが脱水症状になるまで泣きじゃくるし、このままでは僕の精神が死ぬ。申し訳なさで絶命しちゃう!


「ほ、ほら、顔をこっちに向けて」


 タオルで金束さんの顔を拭く。


「私だけ、何歩も遅れてる気がする……こ、心細くて焦って一、生懸命かまってもらおうとして、いるの、に、なんでりゅーせーは冷たいの……? 馬鹿ぁ……!」


 ほ、本当、この子はもう……。

 普段は僕に怒号をぶつけるくせに自分が言われる側になるとすぐ泣く。攻撃性は高いのに防御力が低いのだ。


「ぐすっ、ひっく」

「あぁ、いくら拭いてもキリがない。誰かバスタオル持ってきてぇ」

「あの女と出会ってから良いこと全然ない……私以外にもりゅーせーのことを……い、嫌、ひっく、うぅ、嫌なんだからぁ……」

「ごめん本当にごめん僕が悪かった言いすぎたもう絶対にキツイ言い方はしないと改めて誓うから泣きやんでお願いします!」


 レポートなんてどうでもいい。

 涙としゃっくりが収まるまで、僕は全身全霊をかけて金束さんをあやした。

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