116 ホテルの夜
新鮮な地物のお刺身や寒ブリしゃぶしゃぶといった名物を食し、辛口のキレある越乃白雁や清冽な水で造られた口当たりの良い〆張鶴を堪能し、夜は更けていく。
「……今、何時だ」
居酒屋を出た。霙混じりの冷たい風に吹かれて我に返る。
慌てて現在時刻を確認し、続けて新幹線の時刻表を検索する。終電はとうに過ぎていた。
つまり今日中に帰るのは不可能。つまりここに泊まる他ない。
つまり、泊まる……だとぉ……!?
「うへへぇ~、酔っちゃいました~っ」
「あ、あの? 本当にホテルに泊まるの?」
狼狽える僕の隣には、身振りも表情も綿菓子みたいにフワフワな月紫さん。僕の腕にしがみついている。
正月でも軒並み営業中の活気ある飲み屋街を抜け、覚束ない足取りの月紫さんが案内する方へと歩いてい、く、のだが……え、マジですか……?
「着きました。ここが今日私達が泊まるホテルですっ」
月紫さんが指を差し、僕も見上げる。
どの地域にもある、ごく普通のビジネスホテルだった。
「あ、あのー」
「チェックインは水瀬君がライブ中に済ませましたっ」
「ね、ねぇ聞いて? 本当に泊まるの? ねぇ!?」
「えへへぇ~っ」
「えへへぇ~!?」
月紫さんが酔っぱらって話を聞いてくれない。
当初の予定では、僕がライブを観終わり次第すぐに帰るはずだった。泊まるという選択肢は考えてもいなかった。
まさかこんな展開になるなんて……っ。
「駄目な気がするのですが」
「えへへーっ」
「やっぱり帰ろう。どうにかして帰ろう! ね?」
深夜バスならあるかもしれない。最悪タクシーで帰れないこともな……た、タクシーは無理かな。さすがに遠すぎる。
「水瀬君とお泊まりです~」
「も、もうっ! 話を聞いてよ!」
「今更何を言っているんですか」
とろ~ん、としていた瞳が鋭く光った。ずり落ちていた眼鏡をかけ直し、月紫さんの口調がまともになる。
「本当に帰ることを考えたら、ホテルを取ったと知った時にキャンセル出来たはずです。居酒屋に行くことに賛同した時点で水瀬君も泊まることを容認したってことですよね」
「うぐっ」
鋭いのは瞳だけではなかった。酔っているくせに鋭い正論を放ってきよったで……!
た、確かにその通りだ。せっかくだしこっちの銘酒を飲んでみたいな、と思った自分がいましたよ……あ、あはは。
「でもやっぱり泊まるのは……」
「レッツ&ゴー&ぐおー&えへへー、です~っ!」
だ、駄目だ、月紫さんは酔っている。この状態で長距離の深夜バスに乗るのは酷だし、他に現実的な帰る手段がない。一泊するのが現状のベストアンサーであることは明白。
ぬぬぅ、で、でもでもぉ……!
「……待てよ?」
「水瀬君~?」
「わ、分かった、行くよ。行くから腕にくっつかないで」
月紫さんが腕にべったりとくっついたまま、僕らはビジネスホテルのロビーへと入る。
僕は少し落ち着きを取り戻した。というか、何を勝手に決めつけていたのだと思う。
ホテルを取った。イコール、同じ部屋だと思い込んでいた。
僕は馬鹿だ。アホだ。その前提が間違っている。
ガードが固いと評判(不知火談)で、気立ての良い月紫さんのことだ。シングルの部屋を二つ取ったに違いない。
つまり僕と月紫さんは別々の部屋で寝る。つまり安心だ。つまりああ良かった。
「到着ですっ」
ロビー、エレベーター、廊下と経て、月紫さんがカードキーで部屋のドアを開ける。
室内にはベッドが一つあった。大きなベッドだ。つまりダブルベッド。
「ここが今日『私達』が泊まるお部屋です~っ」
「へぇ~…………えへへぇ~!?」
つまり、僕らは同じ部屋に泊まる、だとぉ!?
「結構狭いですよね。冷蔵庫も小さいですっ。途中コンビニで買ったビールを入れておきます~」
「いやいやいや」
僕は首を横に振る。ついでに月紫さんを引き剥がす。まだくっついていたんかいっ。
この流れは良くない。話がどんどん進んでいく。進むにつれて僕の中で安心が霧散して不安が再沸騰していくんですが?
「なぜ同じ部屋? なぜダブル? なぜせめてツインじゃないの!?」
「えへへぇ~っ」
「いやいやいやいやいや答えてくださいよ!」
「年始に当日いきなり二部屋も取ることが出来なかったから、ダブルの部屋が空いていなかったから、ですよ」
「急にまともなアンサー!?」
それ言われたら何も言い返せない! おっしゃるだよ、おっしゃる通りだよ! 年始だし当日だし、確かにその通りだよ!?
な、何も言い返せない……。
「まあ実はツインタイプの部屋もあったし、シングルを二つ取ることも可能でしたけどね」
「今なんて言った? 本当は? 実は?」
「えっへへぇ~っ」
まともなアンサーはもう返ってこなかった。でえぇ~……?
今から月紫さんと同じ部屋で寝泊まりする。二十歳の男女が同じ部屋で、一つのベッドで。
……どうなってしまうんだ!?
「先にシャワー浴びていいですよ」
「ま、待って。色々と待って。僕は着替えがない」
「はいどうぞ、水瀬君のシャツとパンツですっ」
「なんで永湖さんの鞄から出てくるの!?」
月紫さんが僕のパンツを持ってい、ああぁああ!?
「こんなこともあろうかとコッソリ持ってきましたっ」
「それはどうもありがとう!?」
右から左へ腕を振るってパンツを奪い取る。この間、コンマ一秒未満。
パンツを握ってその場にしゃがみ込み、エンスト寸前の意識で考え込む。十秒以上を使って盛大に考え込む!
……マジ? いやまぁ泊まることはもう避けられないとして……。
「永湖さん、今日は泊まるつもりだったでしょ。じゃないと僕の着替えをコッソリ持ってこないはずだ」
「私から先にシャワー浴びますねっ」
「話を聞……うわあぁぁ!?」
月紫さんが脱ぎ始めた。服がめくれ、すべすべの白いお腹が……あがががが。
「ぬ、脱ぎゅにゃら浴室でしゅてくだしゃい!」
「水瀬君が噛み噛みですっ」
「いいから浴室に行ってぇ!」
月紫さんの背中を押して浴室へと押し込む! そんでしゃがみ込む! そんで考え込む!
僕はどうすればいいんだ? 僕らはどうなってしまうんだ!?
「あわわっ、熱いですっ。ホテルのシャワーは加減が難しいですねっ。あと水瀬君、そこにいられると脱いだ衣服を出せないのですが」
僕はしゃがみ込んだまま床を這いずって移動し、部屋の隅で丸くなった。
シャワーを浴び終えて、ベッドの上に腰かける。
「普段見ない番組がやっていますね。眼鏡を外したのでよく見えないですけどっ」
「そうだにぇ」
「水瀬君は噛み噛みですねー」
部屋の大半をベッドが占める室内。壁際に設置されたテーブルの上、小さなテレビで愉快なローカル番組が放映されていた。
僕は大学二年生。ビジネスホテルに泊まったことは指の数にも満たない。清潔で程良く狭いビジホは泊まる度にワクワクしたものだが……今はワクワク感が一切なく、ひたすらにドキドキとしている。
どうしてこんなに狭いんだ。部屋のほとんどがベッドってどういうことだよ。
二人で寛ごうとしたら、ベッドの上で肩を並べることになるじゃないか!
「今日は楽しかったですねっ。日本酒がとても美味しかったです。旅行にハマりそうです~っ」
シャワーを浴び終えて、ベッドの上に腰かける。僕の隣には永湖さん。
ガウンに着替えている。さらに眼鏡を外している状態だ。
……横をチラ見、すぐそこに絶世の美少女がいる。ガウン姿の天使がいる。日凪君なら涎ダラダラだろうよ。
いや、たとえ日凪君でなくても、男なら誰だって僕だって垂涎ものだ。気が狂いそうになる。
「十二時ですね。夜は長いです。飲み直しましょうかっ」
月紫さんは冷蔵庫からビールを取り出して、両手を使って可愛らしく蓋を開ける。僕の気も知らずのんびりおっとり普段の調子で……ぐっ、ぐぐぅ……!
あかん。これはあかん。ガウンだよ? ガウンなんだぜ!?
僕も今ガウンを着ているから分かる。これ簡単に脱げちゃうよ。僕がその気になれば月紫さんのガウンをいとも容易く、ぐおおおぉ!?
「水瀬君がベッドにダイブしましたっ。むぅー……もう寝るの?」
「叶うならこのまま一生目覚めなくてもいい……!」
同じ部屋に泊まり、同じガウンを着て、同じベッドで寝ることになるこの状況で興奮しない男の方が異常だろ! こんなの間違いが起きない方がおかしいだろぉ……!
「まだ寝ちゃ駄目ですよ~っ」
ぽすんっ、と倒れ込む音がすぐ横で聞こえた。月紫さんも寝転がり、大きな瞳が僕を見つめていた。
寝転がった体勢で、僕らは見つめ合っ……っ!
「ぐぬぬぬぅ!」
「あっ、起き上がりましたっ。では私も~っ」
間違いなくマズイ。火事場よりも力を込めた腹筋で一気に起き上がる。
すると月紫さんも起き上がる。ベッドに腰かけて、肩と肩が触れ合う。ガウンとガウン、薄い布越しに月紫さんの体温を感じりゅ……!
「に、逃げ場が」
「水瀬君は面白いですねっ。顔が赤いですよ」
「だ、暖房が効きすぎているかもね!」
暑いなぁ! えぇおい! ここは真夏ですかな!?
「確かに暑いですね」
パタパタ、と手を団扇のようにして自分を扇ぐ月紫さん。
その様を横目で観察する僕。悶え苦しんでいるくせに視線は横へと逸れていく。僕はムッツリスケベですねはい。
「……んしょ、と」
と、月紫さんが扇いでいた手でガウンの胸元を摘まむ。手ではなくガウンをパタパタとさせる。
それにより、月紫さんの胸元が開かれて……。
「っ~!?」
い、い、いいい、今、ガッツリと谷間が見……!?
「暑いですね~。ガウン脱ごうかな、です~っ」
「……」
「ねえ水瀬く」
「てえぇい!」
右から左へ腕を振るってエアコンのリモコンを手に取る!
冷房はどのボタンだ! これか? これだな!? てえぇい!!
「はい冷房モードに切り替えた! はいもう暑くない! だからガウンは脱がなくていい! ね!?」
「は、はい」
「いやぁ寒いねぇ! 冬に冷房とか頭おかしいよねぇ! あはは!」
知るかよ! あのままだと僕の理性は完全に崩壊していた。
大声を出せ。誤魔化すんだ。奇声を出せ。これ以上は駄目なんだ。
「あははぁ! 僕もビール飲もうかな!」
冷やされた缶ビールを取り出して冷蔵庫のドアを勢いよく閉じる。
ベッドの端に座り、月紫さんとの距離を十分に開けてからビールを一気にイッキ飲み! 流し込め! 喉を全開にしろ!
「ぶはぁ! ああ美味しい! ビールは最高だな!」
僕史上最速でビール一本を飲み干した。頭が痛い? だから知るか!
ビールの力で渦巻く全ての感情を忘れてしまえ。ビールを飲めば全てを消せ…………っ、ぐにょおぉ……?
「う……」
「水瀬君?」
僕は馬鹿だ。アホすぎる。
ビールを飲んだら余計に駄目だろ。こんな状況だからこそ冷静でいるべきなのに。
酔ったら僕自身を抑制するこ、とが出来な、い…………歯止めが効かな、くな……っ……。
「……」
「水瀬君」
横目ではなく、姿勢を変えて月紫さんを正面から見る。
濡れた髪。整った小さな顔と大きな瞳。外された眼鏡、解放された色気。
「どうぞ。来てください」
しゅる、しゅる。ガウンの紐の結び目が解かれる。紐が長くなるにつれて胸元が開かれていき、月紫さんの白く艶やかな鎖骨と十分に大きな胸が露わになる。
「え……っ……?」
「水瀬君なら、いいよ」
「……」
残り僅かな理性が音もなく崩壊して、音を立ててビール缶が床に落ちる。
空いた手を、月紫さんの肩へと添えて、ぐっと近づいて僕の視界は月紫さんで埋め尽くされる。
片手は永湖さんの肩に。そして、もう片方の手は彼女の胸元へ向かう。
誰かに教わったわけではないのに分かる。どうするべきか、どうなるのか、脳と心が叫ぶ。
この白い肌を。受け入れることを覚悟した永湖さんの全てを。僕は今から……。
「ビール貸して」
「……へ?」
迷わずまっすぐ進んでいた手は急に逸れ、月紫さんの手ごと缶ビールを掴む。指を引き剥がし、缶ビールを奪い取る。
「んぐ、んぐ」
僕はまだいっぱい残っている缶の中身を、再び一気にイッキ飲みする。
酔うな。寧ろ意識を冴え渡させろ。ビールごと自分の全てを飲み込むんだ。
「ぶはぁー! あぁ美味しい!」
「み、水瀬く」
「永湖さん! 女の子がそんなことしたらいけませんっ。胸元を広げちゃ駄目でしょうがっ」
僕は息を吐いて二本目の缶を放り投げる。
月紫さんのガウンを掴み、広げるのではなく閉じる。力強く紐を結び直し、それを終えたら一歩で一気に後退した。
っ、っっ、よくやった水瀬流世。
危うく一線を超えるところだった。今年始まったばかりだが、今年一番のファインプレーだったぞ水瀬流世!
「酔いすぎだよ。自分を大切にしなさい」
良いムードだったんだから襲ってしまえよ、という邪な思いは心の奥底に封じ込める。ここでいかないとか男じゃねぇとか関係ねぇ。僕は正しい。
僕の選択は正しい。間違っていない。
「……」
「分かった? もう寝ようね」
「待ってくださいっ」
缶を拾う僕を、月紫さんが掴んだ。
見ると……月紫さんは、すごく不満げな表情をしていた。
「む、む、むぅ~!」
「は、はい?」
「水瀬君がビビりなのは学習済みでしたが……え、えぇ~、です! なんでやめたんですか!? 今もう、そういう雰囲気でしたよねっ!?」
「そういう雰囲気? 何のことでしょか?」
「む、むぅ!」
アハ~ン? 僕には分かりまちぇ~ん。僕は陰キャで根暗野郎なので。ウェイウェイ学は履修しておりません~。
何のことやら。月紫さんに何かしたいとか思っていませんよ。……ホントダヨ。っ、おい本音漏れるな。ちゃんと蓋をしろ。
「ここまで来たのに……み、水瀬君はマジでビビリなんですね……」
「はい~? 何か言いましたか~?」
「あと少しだったのに……っ、まだ諦めませんっ。もう一度……ひ、紐が解けませんっ!」
「残念でした。紐はかた結びですー」
というか紐を解こうとしないで。あなたは痴女ですか。酒に溺れてしまうような子に育てた覚えはありませんよ。
「絶対に駄目だ。僕だって男なんだから惑わすような真似はいけません」
「解けない……っ、今日を逃したらこんなチャンスはもう…………み、水瀬君っ」
「こっちに来にゃいで」
ぐぅ、少し噛んでしまった。
それでも平静を装え。静かに、冷やかに、冷静になって制するんだ。
月紫さんは酔ったせいでどうかしている。僕なんかに何かを求めようとしてくる。絶対に駄目だ。
「ど、どうしてですかっ。私は眼鏡を外しているんですよっ!?」
知っています。だからめちゃくちゃヤバかったよ。
「こ、こんなに攻めても駄目なんですか……?」
「攻めたって何? おかしなこと言ってないで寝よう。明日は早朝に帰るよ」
「……ビビリ」
「はいおやすみー」
ベッドに倒れ込み、月紫さんに背を向けて目を閉じる。
月紫さんはぶぅぶぅ、と唸る。僕の背に手を乗せて揺すってくるし、今もガウンの紐を解こうと躍起になっている音が聞こえた。
僕は全部無視した。
「水瀬君はビビリです!」
「ぐかー、すぴー」
「むうむう! ……作戦が……今日こそは、と思ったのに……あうぅ……っ」
ようやく諦めたのか、月紫さんも黙った。
「……おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「まだ起きているじゃないですかっ。……ねえ、水瀬君」
「ぐかー、すぴぴー」
「……もういいっ」
灯りを消して、室内は真っ暗になる。
月紫さんが隣でピッタリとくっついている中、見えない視界の中、僕はリモコンを操作して冷房から暖房へと切り替えてまた目を閉じる。
これでいいんだ。
きっと月紫さんは酔って思考能力が低下している。だから僕なんかに迫ってきた。どこにでもいる大学生のように、酔いに身を任せて過ちを犯そうとしている。
駄目だよ。
絶対に、本当に、駄目だ。
僕らは友達だ。これ以上は進んではいけない。これ以上の関係は許されないんだ。
永湖さんが僕のことを好きなわけがないし、僕が永湖さんのことを好きになってはいけない。……いけないんだ。
「水瀬君は後悔しますよ」
「過去に痛い程してきたよ」
「……いつか絶対に」
「おやすみ」
月紫さんの言葉を遮り、僕は頭にシーツを深く被る。
今夜は眠れないだろう。全ての感情を押し殺し、目を強く瞑った。




