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11 飲みたい理由

 ビールの飛沫が地面の砂を点々と濡らす。

 その様を眺めて、月紫さんはしょんぼりと落ち込み、唇をもぎゅもぎゅさせる。


「やっぱり駄目でした。私、ビールを口に含んだだけでこうなっちゃうんです……」


 昨日スーパーで聞いた通り、今見た通りだ。月紫さんはビールが全く飲めないらしい。

 ビールの味が苦手とか、そういう次元の話ではなく、口の中に入れた時点で拒絶反応を起こしている。飲み込む前に、含んだ途端に。ビールを噴き出してしまうのだ。


「体が受けつけないみたいだね」


 噴き出すのは異常な気がするけども、ともあれビールが飲めないって人は一定数いると思う。

 お酒が飲めない人、アルコールが苦手な人。それらは体質の問題であり、仕方のないことだ。


「どうしたら良いでしょうか……?」


 え、僕に聞くの?


「えーと、諦めたらいいと思うよ」

「い、嫌です。飲みたいですっ」

「無理して飲まなくても……ビールって飲めない人には苦いだけだよ?」


 体質の問題とは別に、そもそもビール自体が現代では好まれていない傾向にある。苦いだけ、不味い。大抵の人はそう言うだろう。最近の若い女性は飲む人の方が少ない。

 まぁ、中には美味しいビールを知りたい!と躍起になっているレアな女子もいるけど、あれは特殊だ。月紫さんは違うでしょ?


「苦くても、私はビールを飲みたいです」

「どうしてそんなに飲みたいの?」

「それはですね……」


 二口目を飲もうした手を途中で止め、月紫さんは僕を向いた。

 レンズの奥、どこか寂しく虚ろになった瞳がそこにあった。


「私のお父さんはビールが大好きでした。お仕事がない日は浴びるように飲んで、その姿はさながら呼吸をしているかのようでした」


 とんでもない父親だね、とツッコミそうになった口を途中で閉ざし、僕は黙って月紫さんの語りに耳を傾ける。


「幼い私と遊んでくれる時も、家族で旅行に行く時も、授業参観でも常に飲んでいました」

「とんでもない父親だね」


 言っちゃった。いやこれ言うよ。授業参観? 教室の後ろで片手に缶を持って参観してたの? ただのアル中じゃん!?


「そんなお父さんが先日、入院しました。原因は過度なアルコールの接種です」


 ですよねー。


「お父さんは昔からいつも飲んでいました。そしていつも私に言っていました」


 缶ビールを眺める月紫さん。顔を俯かせ、下げたまつ毛がその目元に陰を落とす。


「私が大きくなったら一緒に飲もうね、と言っていました」

「……あの、月紫さん?」

「はい?」

「ビールが飲みたい理由って、それだけ?」

「? そうですね。お父さんと一緒に飲みたいからですっ」

「そ、そっかー」


 ビールが大好きな父親と一緒に飲みたいから。だから飲めるように練習して、そして僕の顔面にビールを噴きかけた、と。

 ……僕は完全なる巻き込まれた系被害者じゃないか。そんな理由で僕は顔に何発もご褒美という名の辱めを食らい続けたのね。とんでもない父親と娘だね!?


「……そっか」


 ツッコミを入れたくなった。怒りそうにもなった。

 けど……少し考えると、月紫さんの思いを理解出来た。だって月紫さんは僕と違って……。


「それ程にビールが好きなら自分の娘と飲みたいだろうね」

「ですがお父さんはもうビールを飲むことが出来ません。ドクターストップです。それでも、私が飲めるようになった時は必ず一緒に飲むと言ってくれました。……私はお父さんの夢を叶えたいです」

「だから訓練しているわけね」

「馬鹿みたいな話でごめんなさい。でも私は本気です」


 虚ろで寂しげな中に、月紫さんの確固たる決意を垣間見た気がした。

 ああ、馬鹿みたいな話だ。なんじゃその理由、である。

 けど、ちゃんとした理由だとも思えた。父親の為に、ビールが大好きな父親と乾杯する為に、この人は頑張ろうとしている。

 月紫さんは一人酒に逃げた僕とは違って、大切な人と一緒に飲む為に……。


「健気で父親想いなんだね」


 余計なことは言わないでおこうと注意していた口から自然と言葉が漏れた。自分でもビックリだ。

 月紫さんは僕を見て、照れくさそうに頬を赤らめた。


「そ、そうですかね。私はお父さんに喜んでもらいたいのと、お父さんがもう一度美味しそうにビールを飲む姿が見たいだけですよ」

「それが父親想いってことだよ」


 ビールが大好きな父親を、月紫さんは大好きなんだ。

 大好きなお父さんと同じビールを飲み交わしたい。幼い頃から見てきた、美味しそうにビールを飲むお父さんを見たい。

 それは一種の、僕の考えてきた様々なシチュエーションよりも遥かに素敵で、美味しいシチュエーションなのだろう。


「え、えへへ」


 照れ隠しなのか、月紫さんはビールを口に運ぶ。


「ぶぼっ!」


 ……だからと言って僕に二発目を浴びせていいわけじゃないけど。なんで学習しないの? せめて別方向に噴き出そうよ!?


「あわわ、ごめんなさい!」

「と、とりあえず月紫さんがビールを飲みたい理由は分かったよ。どこかの誰かさんと違ってちゃんとした決意だね」

「どこかの誰かさん?」

「気にしないで。こっちの話」


 あの人もあの人なりに理由があるし真剣なのは同じだけど、月紫さんの方が立派だ。

 だって、誰かの為だから。金束さんとは違う。いや……僕か。一人酒に逃げた僕には手の届かないモノ……。


「……私、どうやったら飲めるようになるんでしょうか」


 声を落とし肩を落とし、落ち込む月紫さんは缶をベンチの上に置いた。


「そうだね……」


 さっきも言ったけど体質の問題だ。どんなに訓練しても飲めない人はいる。父親が酒豪でもその子供も飲めるとはならない。

 月紫さんとそのお父さんには悪いけど仕方のないことなんだ。ノンアルコールで妥協が妥当案でしょ。諦めるしかないよ。


 そう言えばいいのに、僕の口は開いたが言葉を出そうとはしなかった。代わりに缶ビールを取って口に流し込む。


「んぐ、んぐ」

「水瀬君?」

「ぷはーっ……美味い!」


 妙に明るくて絶妙に不思議で、たぶんアホの子だし、出会ったその日に三回も噴き出された。今日のを合わせると合計五発だ。今すぐに逃げるべきだ。関わるべきではない。

 そんな月紫さんを、なぜか見放せずにはいられなかった。確かに昨日は逃げたよ。ただ、今は放っておけなかった。


「ねぇ月紫さん。ビールを口に含んだ時どんな味がした?」

「えっと、苦い……?」

「そう、ビールって苦いんだよ。でもね、その苦味がクセになるというか、これじゃなきゃ駄目っていうか、なぜか美味しく感じるんだよ。ビールが美味しくなる瞬間が、いつか訪れるんだ」


 僕にとっては一人酒の時、自分なりに美味しいシチュエーションで飲む時のビールは特別で格別なんだ。

 そういったモノがあるからビールは美味しい。それは人それぞれだ。


「きっと月紫さんが美味しく飲める日が来るのは、お父さんと一緒に飲む時だと思う。その時、最っっ高に美味いんじゃないかな」

「……そうだといいですね。でもまずはビールを吐き出さずに飲めるようにならないとですね……」

「僕が教えるよ」

「ふぇ……?」

「月紫さんがお願いしてきたんじゃないか。僕にビールの飲み方を教えてくださいって」


 こちとら既に図々しい美人に付き合わされている最中だ。金束さんには教えるのに、月紫さんに教えないとは出来ない。


「い、いいんですかっ?」

「うん。少し、羨ましいから……」

「羨ましい、ですか?」


 僕は一人酒が好きだ。一人で飲めたらそれでいい。大学生的なウェイも、大学生ノリの大騒ぎも捨ててしまった。

 でも月紫さんは違う。月紫さんは一人じゃない。お父さんと飲むのだから。


「一人酒に収まってしまった僕には味わうことの出来ない、素敵で楽しい美味しいシチュエーション。月紫さんにそれを味わってほしい」


 だから手伝うよ。こんな僕で良ければね。


「……水瀬君にお願いして良かったです」

「ん?」

「私、ビビッときたんです。スーパーで水瀬君を見た時に」

「何それ」

「直感ですっ」

「そ、そうなの。だからといっていきなり話しかけるのはチャラくないですかね?」

「私、チャラくないです。ガードは固いです。でも自分の直感には従いますっ。水瀬君は、とても良い人だと直感で分かりましたからっ」


 月紫さんは微笑む。ベンチにちょこんと座って僕を見る彼女の姿は、見ていて楽しかった。


「水瀬君、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」

「水瀬君の手腕に期待ですっ」

「僕は月紫さんの伸び率に期待してる」

「私は伸びる子ですっ。高校生の頃も背伸びで身体検査を受けていましたよっ」

「それただの不正」

「健気なんですっ」

「自分で言う!?」


 一人酒派の僕が二人酒をしたい人の為に頑張る、か……。

 だけど、嫌な気持ちはしなかった。


 月紫さんの笑顔を見ていると僕も頬が緩んだ。

 酔いそうな気分になったのは、顔にかけられたビールのせい。もしくは、奇妙で絶妙な、月紫さんの不思議な雰囲気が心地良かったからなのかもしれない。

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