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思った以上に、時間がかかってしまった。
幾ら急いで行こうとしてもそれには限界があり、ほとんど沈んでしまっている太陽を睨み付ける様にしながら、男は車から降りる。
あの場所へ行くには一本道をしばらく歩かなければならず、少しでも急ぎたい男にはそれが疎ましかった。ここからあそこまで、全速力で走って行くしかない。
しかし、この曲がりくねった道を数多くの観光客などが降りて来ていて、男は小さな声で毒づいて、その坂道を登り始めた。
ほとんど沈んでしまっているその太陽を眺めながら、女は小さく息をついた。
やはり、来ないか。そう思った自分は死ぬのが怖いのか、それとも男と会う事が楽しみなのか。
もしかしたら、自分が死ぬかどうかを、あの男に賭けていたのかもしれない。来たら生きて、来なかったら子供に会いに行く。そういった、ある種の賭けをしていたのだ。
切ったはずの運命を、もう一度引き寄せられるかどうかの、賭け。自分には本当に生きていく価値があるかどうかの、賭け。子供への哀情に引き寄せられるか、男への愛情に引き寄せられるかの、賭け。
それら全ての賭けに、男の運命を巻き込んだのだ。
ほとんど光だけになってしまった太陽を眺めながら、女は苦笑する。
もう、この賭けは負けなのだろう。やはり、自分には運がない。最後に自分の命の賭けでさえ、負けてしまったのだから。
自分の命も、後もう少しだ。
救われる事もない命を抱いて、後もう少しだけこの美しい風景を独占できる。そう思うと逆に、運が良いのではないかと自虐的な笑みさえ浮かんできた。
脱いだ靴を揃えて足を踏み出そうとして、男が自分の名を呼んだ声を聞いたような気がして、思わず立ち止まった。
しばらく耳を澄まして勘違いかと首を振ろうとした瞬間、もう一度声が聞こえて、女は後ろを振り返った。そしてゆっくりと、微笑を浮かべる。
名前を呼びながら道を駆け上がった男は、ようやく頂上まで来て、直ぐに膝を突いた。両手を地面に付いて、藍色の空の下で荒い息をつく。そして男は、息も上がり脈打つ自分の心臓の音を聞きながら、再び女の名を呼んだ。
荒い息の間から搾り出すように、その弱々しい声で何度も、繰り返して女の声を呼んだ。
そして女は、再び海の方に向き直った。
男は、来なかった。余程あの男が来る事を望んでいたのだろうか、幻聴まで聞いてしまったようだ。男の声だと思った声は風の音、なのだろう。苦笑して、大きく波打つ心臓を沈めようとするかのように、深呼吸をする。
死ぬとしたらこの海だろうと思ったのは、あの映画と同じように男が来る事を期待したからなのかもしれない。そんな事を思いながら、さて、最後の言葉は何にしようと考える。
最後、生きている人間として、誰も聞かない最後の言葉を述べようと、そう思ったのだ。
自分に向かって労いの言葉を述べようか、それともどこかに居る誰かに向かって謝罪の言葉を述べようか、もしくはもうこの世には居ない家族に向けて感謝の言葉を述べようか。言葉が暴れて、纏ろうとしない。
女は苦笑して、もう太陽の光すら届かなくなった事に気付き、足を踏み出す。
そして、口を開いた。
「……ごめんなさい」
言葉を発すると同時に、女は、宙へと足を踏み出した。
くそ、と毒づいて、男は再び地面を叩いた。
間に合わなかった。地面を何度も拳で叩いて、男はゆっくりと息をつく。
鈍い痛みを持つ右拳を左手で包んで、ゆっくりと立ち上がった。そして、すでに真っ暗な道を歩んで、女が居たであろう場所に立つ。覗き込んだ海は暗く、前に女と共に見たあの海よりも更に黒く見えた。
その場にしゃがみ込んで、その両手を額近くに持っていき、再びくそ、と毒づく。下を向いたまま目を開けると、女の靴が揃えて置いてあることに気が付いた。そして、その靴に封筒が入っている事にも。封筒を手に取り蓋を開け、ひっくり返してその中身を取り出した。
小さめの指輪が、男の手の中に転がり込む。
薄い月の光に反射されて見るそれは、紛れもなく、男が最後にプレゼントした指輪だった。
震える手でそれを両手で包み込み、男はそれを額の所まで持ち上げる。ゆっくりと瞳を閉じると、それはまるで、広大な海に向かって祈りを捧げている様であった。
そして、小さく震える声で、呟く――。
海の上に輝く濃い橙色をした月が、全てを嘲け嗤うかの様に男の事を見下ろしていた




