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川辺は、気持ちよかった。
都会の中に埋もれてしまうかのようにひっそりと、だがその大きさを保ってゆったりと流れていくその川は、昔より少しは綺麗になったとは言うものの、まだ中で泳ぎたいとは思えない、そんな川。
家からそんなに離れていないこともあって、二人でよくやって来た。
夜になりかかった空を水面に映して、生温い空気に長い草が揺れる。昼より、少しは涼しくなっただろうか。荷物の中から長袖の上着を取り出して羽織ながら、女はそのように考えた。
家の鍵は、友人に預けて来た。
不思議そうな顔をする友人に、その時が来たら男に渡して欲しい、自然とその時は分かるだろうからと告げながら渡した。するとまた良く分からないことをと言われたが、苦笑しながらも分かったと言って来るあの友人は、やはりお人好しなのか。それと同時に、男から電話が来ても、絶対に私のことは言わないで、とも告げた。さすがにそれには少し心配そうな色を見せた友人ではあるが、あんたのことだからそんな心配は無用だよね、と言い、その願いを快く承諾してくれたのだ。
しかし、と川辺の柔らかい草の上に腰を下ろしながら、女は思う。
こうやってしっかりしていると思われてしまうからこそ、自分は苦しいのかもしれない。この人は大丈夫だと思われるから、その期待から逸れてはならぬと束縛されて、その事実を周りに気付かれないように、と知らぬ間に気を張っていたのかもしれない。それを知ってからなのか、知らなかったからこそなのか。そうやって居る時もそうでない時も笑顔で受け止めてくれたのがあの男だったのだ。だから、だからこそここまで心引かれ、あの男に囚われていたのかもしれないと、そう思える。
ならば、本当にこの感情は愛と呼ばれるものだったのだろうか。これこそある種の束縛、拘束、捕らえ、囚われるモノになってしまっていたのかもしれない。
そこまで考えて、女はいや、首を振った。これこそ、無駄な考えだ。自分が過去に男を恋人だと思い、そうして過ごしてきた事は変わりようのない事実であり、今更否定しても仕方がない。ならば、そうであったという事実だけを受け入れて、これからやろうとしていること、やらなければならないことをやるべきだ、と思う。
それが、自分に出来る全てのことなのだ。
そう、思う。
車通りの少ない川辺だからか、闇に沈んだ暗い河の流れの中に、明るい月が浮いた。珍しい、と思い空を見上げると、なるほど、満月だからか。
明るい月明かりが薄い雲の間を縫って、水面に筋を残していく様子は、まるで一本の道が出来ているようで、女は妙に気持ちが浮き立つのを感じた。道の左右に電灯の硬い光が落ちて、まるでその道を飾り付けるかのようにも見える。
しかし、と女は首を振った。
自分に、未来はないのだ。生まれて直ぐに死んでいった名もない我が子と、同じように。
急ぎ立ち上がって、車に戻る。
今頃、あの男はどうしているのだろうか。新しい彼女と一緒に居るか、家に戻って女の電話を気にしているか、それとも友人に女の居場所を聞いて回っているだろうか。
女から別れを告げたあの時のように、何も出来ないで居ると良い。またそれと同時に、出来れば自分を探しに来て欲しいとも、思う。
エンジンを掛けて、誰もいない川辺の道を走り出しながら、
「……まあ、関係ないけど」
そう呟いた。男がどうしていようと、自分には知る事は出来ないし、知る必要もない。やることをやるだけ。ただその前に、どうしているのだろうと考えてしまう。
ただ、それだけなのだ。
だからこの思いだけを、そっと、あの道の上に載せてあげたい。そう思った。