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ラストコール  作者: せい
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-2-

 電話の電子音が、妙に耳に残っている。

 右手に子機を握ったまま窓の外を眺めていた女は、ふとそんなことを思った。

 いや、そう思いたいのか。電話なんかしなければ良かったのかと、そう思う。電子音を聞き続けた時のように不快に感じているのは、もしかすると、あの男の声を聞いたからなのではないか。それとも今でもあの男が好きだから、だからそう思いたくなくて、電子音が耳に残っているなどと、まどろっこしい考え方をするのではないだろうか。

 霞んだ空気が停滞し、幾ら晴れても消えることのない不愉快な霧のような物が沈殿している都会を見下ろして、女はため息をついた。

 自分の行動に意味がないわけでは、なかった。

 男にその事を知らせなくてはならないと、そう思ったのは事実だし、そうしなければならぬという強迫観念があったのだ。だからこそ、電話をし、事実を言った。

 それだけだ。

 その中には何かを期待するような甘い考えは微塵もないし、そもそもあの男に何か期待したところで、何か返ってくるとは思えない。今更何か返してきたところで、それは女に対する侮辱と同じだ。だからこそ、男はどこまでも無力に女の言葉を聞き、戸惑い、そして何をすることも出来ずに後悔するのが良い。それが、男が女のために出来る、唯一の事のはずだ。

 結局は、自分を満足させる為の行動なのだ。

 そう結論づけて、女は窓枠から離れて、子機をテーブルの上に置いた。そして、前もって買ってあった旅行鞄に数日分の服と持ち得る金、どうせなら一緒に消滅させてしまおうと思った、男がプレゼントしてきた品を詰め込んで、乱暴に蓋を閉める。テーブルの上にあるカップを洗おうとして、どうせ誰も使わないし、もう見ることもないのだから、もうそうする必要もないのかと思い、少し哀しげに微笑んでそのカップを再び同じ所に置いた。

 立ち上がり、鞄を持って家から出る。テーブルの上に置いてあるメモは、見る人が居るのかどうかも分からない遺書のような物だから、死んだ後でも知らない人にそれを見られるのはさすがに恥ずかしくて、女はしっかりと扉の鍵を閉めた。

 一週間の、最後の旅行。

 男との思い出を、自分の中で最高の時期だったその時を反芻する為の、旅行。死ぬ間際まで未練たらしくそんなことをしようとする自分に呆れてしまうが、しょうがない、男が思っていたほど自分は強くなかったのだろう。ただ、それだけのことだ。

 だからこその、最後の旅行なのだ。

 地下にある駐車場に降りて、赤い車の所まで来る。あの男と別れてから後、会社に就職して纏まった金が手に入るようになってから買ったものだ。いつもならば特になんとも思わないその車にも、まるでその赤さに引き出されるかのように、これを買える頃であったなら男と別れることもなかったのだろうか、と妙な感慨を抱いた。

 車に乗り込み、エンジンをかける。するり、と車の間から滑り出して、出口へと向かう。

 そう、この車を買える頃であったなら、別れることはなかった。そのように、思う。

 そもそも男の両親が反対した原因は、女が何も持っていない、貧乏な上に両親も既に居ないことにあったのだ。

「どこの馬の骨か分からない人なんかと」

 と、面と向かって言われた時はさすがに衝撃を受けたが、それと同時に、しょうがないのか、という思いもあった。

 男の父親は大きな会社を経営しているし、男自身も超一流大学の出で、どこぞのお嬢さんと結婚するのが望まれるような、今の時代に信じられないがそう望まれるような、そんな人だったのだから。だから、仕方が無いと思った。

 だから、別れようと思ったのだ。

 男と旅行に行った最後の土地で、大きな泉に明るい橙色の太陽が沈んでいくのを眺めながら、別れよう、とそう言った。その時の男の顔は見ていない。ただ、息を呑むのが後ろから聞こえて、何でだよ、とそう問い返してきたのだ。当然の質問なのかもしれない。当然なのかもしれないが、不思議な質問であった。

 何故、分からないのか。何故、分かろうとしないのか。それが、不思議であった。

「これが、貴方の為なの。私みたいなのと付き合ってないで、本気で、好きだと思える人、探したら?」

 言ってから、まずかったか、と思う。それが男の気持ちを裏切るような言葉であると、そのことは良く分かっていた。

「どういう、意味だよ?」

 女の方に手を掛けながら言うと、女は男に見られないように顔を背けながら、そのままの意味でしょ、と答えた。

 その言葉にかっとして、あのな、と言いながらぐいと手に力を込めて、自分の方に女の顔を向かせる。長い髪が揺れて、俯いた顔は翳っていて良く分からなかったが、大きな瞳が今まで見たことのない程に潤んでいて、それがじっと睨みつけるようにして男の事を見ているのに気がついた。

 そのことは、良く覚えているし、三年経った今でも、忘れることは出来ない。

「……ごめん」

 思わず謝って手を離し、顔を逸らす。視界の端で、女が目を擦っているのが見えた。

 女がそんなことを言いだす原因は、少し考えてみればすぐに分かった。男の両親が女との結婚に反対し、その時に女のことを蔑むように見て、そしてやめときなさい、と言ってきたのだ。だからその時、男は黙り込んだ女を連れて急いで外に出て、女の部屋に戻り、ごめん、と謝った。

 でも、絶対に二人を納得させるから、無理だったら一緒に何処かへ行こう。俺は、お前と暮らすことしか考えてないから。だから……。

 そう言った男に対して、女は小さく微笑んで、うん、と頷いた。

 うん、わかってるよ……。

 そう答えてこつんと頭を預けてきた女を軽く抱きしめて、だから、俺に任せてと、そう言ったのだ。

 しかし、それは簡単なことではなかった。毎日のように両親に訴えても、二人は、どうせ本当に好きな女じゃないんでしょ、といった感じで取り合ってはくれなかった。だから、この日は女に一緒に逃げようと、そう言おうと思って来たのだ。

 それなのに。

「……なあ、俺が好きなのはお前だけだよ。他の人と結婚したいとか、一緒に居たいとか、そんなこと考えてないよ」

 そう言って女を見、お前は、俺のこと好きじゃなくなったの? と、そう続けた。その言葉に、女はゆるゆると首を振る。

「だったら……」

「……だから、よ」

 そう言って顔を上げた女の瞳に沈みかけた太陽の光が反射して、明るく輝いていた。涙はもう浮かんでおらず、それだけに、女の強い意志を感じられたのだ。

「だから、お願い。私と別れて。それで、幸せになって」

 じゃあね。

 そう続けて、女は直ぐに男に背を向けた。そして、止める間もなく半ば急ぎ足で去って行く。

 だから、こそか。

 その時、男は止めるべきなのかを迷ったのだ。迷い、悩んで、止めるべきではないのだと、そう思ってしまった。女の気持ちを推し量ることが出来ず、何をすることも出来ずに追い詰めて、終に最も辛かったであろう台詞を言わせてしまったのだ。そんな自分に、女を止める資格はないのだと、そう思えた。

 だから、止めなかった。

 今になって、間違った選択だったのではないかと、そう思う。今更どうしようもないことを分かっていても、そう思ってしまう自分は愚かなのだろうか。あの時に見た女の瞳を思い出しながら、男は再び毒づいた。

 女の家の電話にも携帯にも繋がらず、続けてかけたあの女の友人で知っている人も、そしてあの女を知っている自分の友人も全員、女の居所を知っている者は居なかった。むしろ、何故今更あの女の事を聞いてくるのか訝しく思われ、どうしたのかと聞き返されたから、理由が分からないように曖昧に答えて、電話を切った。

 迷いながらも車を出して、どこへ行くべきか、と思う。

 自分の良く知っている場所だと、そう言っていた。そう言うからには二人で出かけた所なのだろうが、一体幾つ行ったと思っているのだ。あれだけの数の中から女が死のうと思う場所を探し出すなんて、不可能だ。

 そう思っても、このまま何もしないわけにはいかない。だったら、どこへ行くべきか。

 曲がり角を右に曲がって、ああ、と声を漏らす。

 哀しいことは、水のある所で。

 いつだったか、女にそう言われたことを思い出した。確か、そう、水があれば、その哀しいことも皆押し流してくれるから。だからだと、そう言っていた。

 ならば、最初に二人で行った水のある所を、思い出せる限り回ってみよう。一週間内で行ける所、出来得る限り全ての所を。

 どこかで女に会うことを、死ぬ前に女に会えることを、それだけを思って。

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