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ラストコール  作者: せい
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 コール音が数度鳴り響いた後、電話の先で、聞き慣れた声が「もしもし」と返事をしてきた。そこまで低くはない若さを滲ませた男の声が、少し不機嫌そうに響いてくる。その懐かしさに少し目を瞑って聞き入っていると、男は更に苛ついたように「もしもし」と繰り返してきた。そこで電話を切られてはたまらないと、慌てて「あの」と声を出す。

 その声を聞いて、男は少し不思議そうな声を発した。誰、と聞かれる前に

「私……分かる?」

 と聞く。男を試そうと思って聞いてみたは良いが、男の返事を待っているうちに段々と不安になってきて、自分から名前を言いだそうとした矢先、「あー」とようやく男が声を発し、女の名前を告げた。小さな声で聞いてきたのは、隣に新しい彼女でも居たのだろうか。そう思い苦笑して、女は「うん、そう」と短く返事をした。

 男が自分のことを分かってくれたことに安心して、女はようやく、ソファーに腰を下ろした。赤い布張りのソファーは、二人が座ればもう他に余裕の生まれない小さなものではあったが、一人暮らしの女には大きすぎるぐらいに贅沢な代物で、彼女自身はとても気に入っている。向かいにあるガラスのテーブルに乗ったカップを手に取り、濃い色をしたコーヒーを口に運んだ。口に含むと同時にコーヒーの香りがその中に広がり、苦味がそっと舌の上を転がっていく。

 電話口で男が驚き、息を呑むのが分かった。何か声を発しようとして、しかし何を言うことも出来ずに居るのに気がついて、女から「あのね」と声を出す。数度深呼吸をして、言い忘れたことがあって、と言葉を続ける。

「……何?」

 戸惑い、だろう。男は戸惑うといつも、このように沈黙してから、何、と聞いてきた。

 その事を思い出して懐かしみながら、うん、と小さな声で答える。

「ちょっと、言い忘れたことがあったからさ……」

 そう言うと、男が無言で促してきた。

 いや、嘗てはこういう状態になった時に、優しく、無言で次の言葉を促してきていたからこそ、そう思うのだろう。その様に思い直してから、男が待ち草臥れて言葉を発してくる前に、安心してね、と言った。そうすれば男が一瞬でも沈黙することを、女は過去の経験から良く分かっていたのだ。

「大丈夫。貴方の今の生活を乱そうとか、そんなことを思って電話したんじゃないの。だから、口を挟まないで聞いて頂戴……」

 いつも、言いたいことを言うまでが長い、と言われていた事を思い出す。そうかも知れないな、と少しだけ反省した。今更だけど、と一瞬だけ思って、意識して息を吸い、高鳴る心臓の音を聞きながら、「貴方と、」と言葉を発する。

「貴方と私の、子供が居たんだ……」

 電話口で、男が驚き慌てだすのが良く分かった。

 男の顔が見えないのにも係わらず、今一体どのような表情をしているのかまで、逐一目の前に浮かんできてしまう自分が、情けない。

「な、ちょ、ちょっと」

「口を挟まないで」

 昔のように少し厳しい声で言うと、少し迷った後、前のように沈黙した。その前に首を縦に振っただろう事も、もし自分が目の前に居ればじっと目線を合わせてきただろう事も同時に思い起こされる。

「生まれてすぐ、三日して死んじゃったんだけどね。それが今からちょうど三年前の一週間後なの……」

 男は、安心したのだろうか、それとも悲しんでくれたのだろうか。

 それが分からず聞いてみたい衝動に駆られたものの、女は沈黙してそれを抑えた。

 そして、言葉を続ける。

「それで、一週間後なんだけどね」

 心臓が、更に高まるのを感じる。手に持っていたカップを再びガラスのテーブルの上に載せて、立ち上がった。腰の辺りにある窓枠に腰掛けるようにして、じっと外を眺める。

 高層マンションの上層、薄い霧に包まれたように存在する都会を眺めるのは、なんとなく胸を締め付けられるような哀しい気分になる。温かみも冷たさも、寂しさも喜びも、何の感情も含まない町に安心し恐怖する、その感覚を味わいながら、女は再び一週間後さ、と繰り返した。

 電話を持っていないもう片方の手で、そっと冷たい窓に触れる。外部と自分とを遮る、透明な硝子に手を触れると、その固い感触が女の指に優しくあたった。

「私、死ぬから」

 言えた。ちゃんと、言えたじゃないか。

 そう、思った。


「おい、お前……っ! 何を……」

「言ったでしょ、黙って聞いて」

 思わず男が声を上げると、電話口の女は昔と変わらず、慌てることも甘えることも、むしろ感情の波さえ余り無さそうなその声で、静かに遮ってきた。

 思わず口と目を閉じ、ああ、矢張り彼女には敵わないのか、と思う。

 付き合っていた当時も、女が静かな感情を波立たせて命令するように言ってくると、何も逆らえなくなって、はい、とその指示に従った。それでもそのことには何一つ苦痛を感じず、むしろその様にはっきり言える女に、妙に憧れや尊敬に近い感情をも抱いたものだ。向こうが年上であることに、どこか寄りかかっていたからなのかも知れないが。

「貴方の、良く知っている場所で。来てとは言わないし、止めて欲しくもない。ただ、知らせなきゃって、そう思っただけだから」

 だから、気にしないでといわれた。

 冗談だろう、と思う。

 昔付き合っていた女に死ぬことを宣言されて、止めるなと、そういうのか。それとも、自分が困惑するだろう事を知っていて、わざと言ってきたのだろうか。それもありえる。

 ありえるが、良く分からない。

「それだけ。もう二度と電話しないから、安心して。……じゃあね」

 平然とした声を残し、

「え、おい、待てよ」

 慌てて掛けた声も無視して、女は電話を切った。高い電子音が、耳元で反響するように響く。

 しばらくの間呆然とその音を聞いて、男はくそ、と毒づき携帯を畳んだ。

 女からの電話を聞かれまいと部屋を移っていた男がイライラと元の部屋に戻り、彼女が座っているベッドに腰掛ける。こういう気分の時のいつもの癖で、右手に持っているシルバーの携帯を開けたり閉めたりを繰り返していると、彼女が不思議そうな顔をして、男の事を覗き込んできた。

「どうか、したの?」

 分かってしまうのだろうか。いや、分かるか。直ぐに納得して、しかし元彼女が死の宣言をしてきたなどと、そんなことを言ってもどうしようもないし、まして混乱させてしまうだけかと思い、男はいや、と返事をした。

「いや、なんでもないさ……」

 答えて、首を振る。

 そう、なんでもない。俺なんかにそんなことを言ってきて、どうなるものでもないことぐらい、向こうにも分かっているはずだ。

 電話をした元の男が女を追いかけて、そして死ぬのを止める? 

 冗談も甚だしい。

 そんなこと、出来るはずがないじゃないか。現実は、映画ともドラマとも、小説でもない。運命なんてありえないし、ただ現実に翻弄され時に流されていくしか出来ないのだ。

 だから……。

「大丈夫? 顔色、よくないよ……」

 心配そうな声で言ってくる彼女を見て、初めて、どことなくあの女に似ていると、そう思った。どうも、自分はあの女に会った時から何も変わってはいないらしい。そんなことに思い当たって、思わず苦笑する。

「大丈夫だよ……。いや、ちょっと疲れたかな」

 取り繕うように言うと、何かあったのかと聞かれ、少し迷った末に、ちょっとした報告を受けたんだ、と答えた。

 嘘は、言っていない。ちょっとした、死を告げる報告。

 嘘は言っていないが真実も言っていない。

 そんな男を彼女はじっと見上げ、やがてふうん、と呟いて引き下がった。

「疲れたなら、ココで寝てる? しばらくしたら起こしてあげるけど」

 こういう、所だ。何かあったと感づいても、男がわざと隠しているのだと分かった時には決して深追いして聞こうとはせず、じっと待って、辛い思いをさせまいと、優しく包み込むように微笑んでくる。その優しさに寄りかかってしまい、甘えてしまう。それは四つ年上だった女と付き合っていた時から、数ヶ月しか違わない今の彼女に続いて、ずっと変わらないことだ。

 本当に、何も変わっていない。

 男はゆっくりと微笑んで、いや、と答えた。彼女の心配そうな顔を振り返って

「もう、帰るよ。ごめんな、慌しくて」

 そう言った。不審な思いを抱かせなかったなど、そんなことは思っていない。しかし彼女は、何も不自然なことはなかったかのように微笑んで分かったと答え、気をつけてね、と続ける。それに軽く頷いて、持って来ていた小さな鞄を持ち、じゃあねと見送る彼女に軽く手を振って、半ば駆け足でその場から立ち去った。

 しばらく人通りの少ない道を歩いて、少し遠くに置いてあった自分の車に乗り込む。助手席に鞄を放り込んで、くそ、と再び呟いた。そう呟いたせいでか再びイライラとしてきて、男はもう一度毒づいてどん、とハンドルを叩く。

 そして

「……どうすりゃいいって言うんだよ」

 呟き天井を見上げて、男は大きくため息を吐いた。黒っぽい車の天井が、ずんと上から押さえつけてくる感覚。それで余計に重苦しい気分になって、男は再びため息を付くと、くそう、と小さな声で呟いた。

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