秘密の研究所
青海学園は元々ゴーストタウンだったが故に、にぎやかしい学生で溢れる一方で、無人の廃ビルがいくつも現存している。それらのほとんどは解体工事や改装工事を掲げて灰色の防音マットと金属の簡易塀に囲まれているが、それっきり放置されていて人の出入りを禁止するのみとなっていた。
その極秘の研究所は、そんな廃ビルを装った建物の一つに存在している。
ここは青海中央大学の権威である桜井教授の研究所の一つで、その管理は年端のいかない才女、森川結花一人に任されていた。実質、彼女専用とラボと言って差し支えは無いだろう。内部には発見されたS.D.Fのいくつかが厳重に保管されていて、それは教授に認められた人間以外には見る事も、ましてや触ることも許されていなかった。取り扱う品物が未知の危険性を秘めているため、そもそも研究所に出入りできる人間すらほんの数人に限られていて、基本的には結花は一人でここに籠っている。警備員も置かず、防犯設備は最新鋭の無人システムを用いていた。
通常の犯罪者であれば即座に撃退が可能なはずだった。
が、さしもの最新システムも漏えいしたS.D.F――常識を覆すテクノロジーを用いた侵入者にはまったく通用しなかった。
その男は突如として結花の目の前に現れた。そして爆発物を首に括りつけられたかつてのルームメイトを人質に、この研究所の主導権を握ってしまったのだ。
「窮屈だろうが、もうしばらく辛抱してくれ」
その男は手錠で拘束した鶫に対して、何かの折にはしきりに謝罪した。
その声は罪の意識を感じさせた。
彼なりに、鶫を巻き込んでしまったを悔やんでいるようだ。
だが男は結花のほうを向き直ると、一気に豹変、憎しみを込めた指を突きつけて、
「こうなったのも全て森川結花が悪いんだ!!」
と激しく糾弾した。
彼の名は加山次郎。一年ほど前にS.D.F研究所から追放され、それを結花の仕業と学園中に吹聴した男だ。
ぼさぼさに伸ばした髪の先は頭皮の脂で固まり、生えそろわない無精ひげには垢がこびりついていた。血走った眼は結花への憎しみに満ちていた。浮浪者のようなムッと来る体臭が鼻をつく。それはこの密室ではなお際立った。変装用であろう新品の作業着の方が、よっぽど小奇麗に感じる。
昔はもう少し清潔感のある風体だったと思うが、今は見る影もなかった。
「聞いてくれ!! あの女は俺が邪魔だから、教授に取り入って有りもしない罪をでっち上げ俺を破滅に追いやった!
しかもそれが明るみになる事を恐れて俺をここから追い出したんだ!!」
……一年前の妄執は、彼の中で変わらずくすぶり続けていたらしい。
「私はあなたと面識は無いんです。どうしてわかってくれないんですか!」
結花はかつてもそうしたように潔白を唱えるが、
「騙されるか! どうせ、杉田さおりを使って俺の事を調べ上げたんだ!
いや、お前ならなんだってやれるだろうさ!!」
「…………」
結花は黙した。言い返せない、いや――言い返しても何もならない。この男の陰謀論は覆らないし、何より不用意に怒らせて鶫の身に何かあったら大変だ。
奴が持つボタン一つで、鶫の首は簡単に吹き飛ぶ。
今は刺激してはならない。
さっきは杉田からの通話を切ってしまったが……何とかしてSOSを外に発信しなければ。どうしたものかと思案する結花の目の前で、加山は不意に自分の折り畳み式携帯電話を取り出した。
「も、もしもし?」
フューチャーフォン……いわゆるガラケーと呼ばれる端末だ。パステルピンクのボディーにネコやハートをあしらったストラップを複数繋いでいる。どこか、一昔前の女の子が持っていそうな印象を受けた。
「わかってる、大丈夫だ。これが終わったらすぐに会えるよ」
少し優しい声色で会話し、加山は通話を終えた。
家族にでも電話をしていたのだろうか?
不審に思ったが、どうせ憶測の域を出ない。
それよりも、このままジッとしているわけにはいかない。
説得するきっかけか、さもなくば救難信号を出す隙を作らなければ。
「加山さん。ここは極秘の研究所ですよ」
結花は会話の糸口として疑問を口に出した。
「杉田先輩ですら知らない場所なのに、どうしてここがわかったんですか?」
「彼女に教えてもらったのさ」
と、加山は項垂れる鶫を示した。
どういうことだ?
いくら元ルームメイトとはいえ、不用意に所在地を教えた事は無いし、あとは他の人間と条件は一緒だ。結花はここには地下から専用の車道を使って入場するため尾行は不可能だ。いくら軌跡を追ってもこの場所にはたどり着けない。仮に追跡する機械を取り付けられたところで、この研究所に張り巡らされたジャミングで封殺される。
どうやっても鶫にこの場所がわかるはずがないのだが……。
「……ごめんなさい……」
不意に、鶫が口を開く。
「私、とんでもないことを……」
「鶫さん、本当に彼にこの場所を教えたんですか?」
そう尋ねると、聞こえないほどか細い声で鶫は肯定した。
首に爆弾を括りつけられたのだ、脅迫に屈するのは仕方ない。
「でも一体、どうやってここの所在地を?」
そういうと彼女はまた口を噤んだ。
「車の走行距離、地下への出入りした時間、帰宅した時間。
そう言うデーターを一年間も積み上げて行けば、おおよその位置はわかる」
加山の補足に、結花は眩暈を起こしそうになった。
それで彼女は常に駐車場に現れたのか!
「本当に毎日監視してたんですか!?」
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
鶫はむせび泣いて謝罪した。
例えばこれが、不審者や、産業スパイの類ならどこかのタイミングで監視が発覚していただろう。少なくとも杉田がそれを許すとは思えない。
だが相手が鶫であれば、その兆候を見逃していた可能性は高い。
常日頃結花の傍を離れなかったのは以前からの事であり、彼女がそこまでの執念を燃やしていたとは、さしもの杉田も盲点だったのだろう。
「私、少しでも森川様の傍に居たくて、どこで何をしているか知りたくてっ!
いつの間にか、この場所を見つけてしまったんです――っ!!」
結花が鶫と距離を置いたのは、彼女が結花に対して強い依存心と承認欲求を抱き始めていたことに気付いたからだった。だが突き放すという選択は完全に裏目に出てしまったようだ。
嗚咽する彼女をどうしたものかと悩んだが、彼女の首には命をもぎ取る凶器が括りつけられている。――今、鶫を責めるのはあまりに酷だ。
結花は加山に向き直り、
「彼女の役目は終わったはずです。
物騒な首輪を外して、解放してあげてください」
「ダメだ、お前が何をしでかすかわからないからな!」
――自分の事を棚に上げてよく言う。
結花は毒づきそうになったが、ぐっと堪えた。
「森川様……私……」
まだなお涙を流す鶫に、結花はその目線まで腰を屈めると、
「大丈夫。私が必ず守りますから、安心してください」
「その子から離れろっ!!」
手を取って宥めようと思ったが、人質に触れるなという事か。
相手もずいぶん神経質になっている。
奴にとっては、私は怪物にしか映っていないのだろうな……。
何となく感じ取ってしまい、理解してほしいとは思わないものの、少しだけ悔しくなった。その間にも加山はひたすらパソコンを叩く。
何かのS.D.Fのサンプルを探しているのだろうか。あるタイミングで、
「おい、どうしてないんだ!」
と、血走った目で怒鳴った。
「〝賢者の石〟だよッ! ここに保管しているんだろ!」
賢者の石……エリクサーなどと別称される、錬金術の力の源だ。
ファンタジー小説やコンピューターゲームに頻繁に登場するため名前を知っている人間は多いだろう。その力があれば不老長寿や死者の蘇生などが可能などと伝説にされているが――、
――確かにその現物が一つ、S.D.Fとしてこの研究所に保管されている。
世界の真理、アルス・マグナを垣間見た錬金術師は実在している。
結花はある錬金術師の少女に交渉し、力の源をサンプルとして譲り受けたのだ。
それは加山が研究所を去った後の話だが、どこでそんな情報を掴んだのか。
しらを切っても無駄そうだな……。
「ここの所員だったなら、S.D.Fの私的な利用がどんな事態を招くのか。
それは理解できているはず」
「説教できる立場かよッ!!」
加山が起爆用のボタンを取り出す。それを見た鶫が悲鳴を上げた。
「人の命がかかってるんだぞ!!」
金属製の小箱に簡素なスイッチと小さなデジタルディスプレイを付けた、存外に雑な発信機だ。彼が自分で造ったのだろう。
「お前はその子がどうなってもいいって言うのかよ!」
「そんなわけありません!」
まずいな、これ以上の説得の余地は無さそうだ。
だとしても、とにかくあの起爆装置を手に入れなくては。
「保管場所に案内します、ですから、そのスイッチをこちらに渡してください」
そう持ち掛けると、加山はふっと笑った。
「なんだ、お前を信用しろって言うのか?」
結花に対する憎しみで気に触れてはいるが、この男は鶫を案じる素振りは見せた。
無闇に危害を加えたくはないはず。
そう読んだ結花は、とにかく鶫の解放を第一に考え、
「でなければあなたも目的を果たせません。
無関係な彼女を巻き込むぐらいなら、私自身を人質にすればいいでしょう?」
「……」
加山は沈黙し、しばし悩む。
悩む余地があるという事だ、ここは奴の良心を信じて待つしかない。
すると加山はもう一度携帯電話を取り出し、
「も、も、もしもし?
あ、ああ、大丈夫、何も問題ないよ」
この状況でまたも着信のようだ。
通話の時だけ、加山は殺気を隠し、優しい声色になる。
電話の相手はよほど大切な相手らしい。
……まてよ。
あんな古い端末で、この情報隔離空間にどうやって着信しているんだ?
だいたい着信音も聞こえないし、これくらい狭ければマナーモードのバイブレーションの音くらいは聞き取れそうな気がするが、それすら無い。
「すぐに会える。――あ、ああ、そうだな。
お前の言う通りだ、そうするよ」
いやそもそも相手の会話する声も聞こえないのだが……?
「お前の好きなシュークリームを買って帰ろう」
何か特別な装置でも搭載しているのだろうか。
そう首を傾げる結花の目の前で、加山は、
「いいだろう。渡そう」
と、頷いた。
ホッと結花は胸を撫で下ろす。今の電話が奴の気を宥めたのだろうか?
とにかく、鶫の安全は確保できた。
起爆装置を手に入れて、あとは案内をする道中で警備システムを使って、奴の身柄を確保すれば……。
カチッ。
――え……?
「ほらよ」
加山はON状態の起爆装置を結花に投げ寄越した。
結花はその簡素な信号送信機を受け取る。
ガラクタで組み立てた簡単な機械は、起動以外の機能を有していなかった。
画面でカウントダウンを示しているが、おそらくこれ自体が起爆タイマーとして連動しているわけでは無く、単に時間を測っているだけだろう。
要するに、――もうこの機械では爆弾を止める事はできない!
「も、も、森川様……っ!
こ、こ、こっ、これ……動いて……」
鶫が震える声で首輪を示す。装着者本人は微振動でわかるのだろう。
「5分だ。5分間でその首輪を外さない限り、彼女の命は無い」




