5 関羽
その名乗りを聞いて玄の身体がびくりと震えた。その見事な顎髭と赤ら顔から、その名を予想はしていた。しかし、いざ本人の口からいざその名を聞くと身体の奥底から湧き上がってくる興奮が隠しきれない。
「加えて一つ問いただしたい」
そんな玄とは対照的に関羽は静かに佇み無表情のままだが、その声には先程よりも剣呑な響きがある。歴戦の武将の問いかけに、玄は気圧されて口を開くことができず、かろうじて頷くことで了承の意を伝える。
「なにゆえに玄徳を騙る! その名は我が生涯を通じ忠誠を誓い、義兄弟の契りを交わした兄者のもの! お前ごとき軟弱なわっぱが名乗ってよい名ではない!」
決して大声ではないが、部屋中がびりびりと震えるような威圧感。さっきまでの関羽ですら、すでに飲まれていた玄。その圧倒的な威圧感に腰を抜かし、床に座り込んでいてもおかしくは無かった。
ただ、関羽にとって生涯唯一の主にして義兄弟の長兄というかけがえの無い存在が劉備玄徳だったとしても。その名前を他人に使われる事が我慢ならなかったとしても! 玄の名前も両親が考えに考えて付けてくれたものだった。
玄という文字には、天という意味がある。玄という文字には、奥深く微妙なもの、深遠な道理という意味がある。プロを玄人というように、一つの道を極めて欲しいという願いがこもっている。決して誰かに頭ごなしに否定されて良いものではなかった。
その想いが玄の身体に芯を通した。
「ふざけるな! 俺の名は玄だ。姓は徳水、名は玄! 俺の両親が考え抜いてつけてくれた、ただ一つの名前を誰にも文句は言わせない。父母のつけてくれた名を否定されて怒りを覚えない者などいるものか! 関羽よ! お前がその羽という名を捨てろと言われて捨てられるのか!」
玄は肩で息をしながら一気に言い放ち、関羽の視線を真っ向から押し返し睨みつける。
「…………」
「…………」
室内に満ちる玄にとって永遠とも思える静寂……
くっくっくっ……
「???」
その静寂を破ったのは、睨みつける玄の視線を泰然と受け止めていた関羽の低い笑い声だった。
「なるほど……確かに私の方が礼を失していたようだな。この通り謝罪しよう」
関羽はそういうと小さくこうべを垂れた。
「名は玄と申すのか……字はなんという?」
「あなたが、自分の現状をどこまで把握しているのかは知りませんが、いまはあなたがいた時代から千八百年程経っているんです。しかもここは中国……じゃなくて漢の国のあった場所じゃありません。漢の東の洋上にあった日本という島国なんです。この国には字をつける風習がないから、俺に字はありません。玄、これが俺の名前です」
関羽はその言葉にわずかながら驚愕の表情を浮かべた。呼び出された側にしてみれば、千八百年とかなんとか言われても到底理解できないだろう。
「……私の理解していることは少ない。本来は死んでいるであろう事。ここは私が生きていた世界ではないこと……そしておぬしの持つその武器に逆らえないこと。そのぐらいだ」
玄はそれを聞いて小さく頷くと、さすがに張りつめていた緊張感が辛かったのか関羽に断りをいれてベッドに腰を下ろした。
「正直にいえば、俺にも今の状況を完全に説明できるだけの情報はないです。それでも少しはあなたの知りたい事を教えることができると思う」
「ふむ。おぬしはその武器を持っているにも関わらず我に対し礼をもって接した。そして他人の非に対し、真っ直ぐに怒る心をもち我に対しても非を正そうとした。たったそれだけのことだが私はおぬしを、少なくとも今のこの状況を確認するために話し合う相手としては充分信頼できる相手だと思っている。どうか知っていることを聞かせて欲しい」
玄は関羽の言葉を嬉しく思いながらも黙って頷き、静かに話し始める。いつの間にかヘルプはその姿を消していた。
関羽は字を雲長といい、三国時代の蜀の国を興した劉備玄徳と若き頃に知り合い、その志に傾倒して桃の花咲き乱れる下で、
『生まれし月日は違えども死すときは同年同月同日に死せん』
と義兄弟の契りを結んだ。有名な桃園の誓いである。
長兄を劉備として次兄関羽、そしてこのとき末弟としてもう一人、張飛という豪傑がいた。しかし結論からいえばこの三人の誓いは結局果たされることはなかった。
しかし、当時の三人はお金も無ければ領地も兵もない。本当に自分の体一つで漢帝国のために旅立つ。志はあれど、現実は厳しく当初はひたすら各地を放浪。常に誰かの庇護を受けなければならないような苦しい道行きの中、義兄弟としての絆は固く裏切りや寝返りが横行する戦乱の世に決して二心を抱くことはなかったという。
そして三人は厳しい戦いをいくつも潜り抜けてのちに蜀の国を興し、漢を復興するために邁進し続けた。中でも関羽は張飛と二人、その類い希なる武勇で中華全土に名を轟かせたばかりでなく、礼の人、義の人として人々に知られ現在でも一部では、関帝聖君という神様として祀られている。
また、その胸元まで伸ばした顎髭の美しいことから美髯公と呼ばれることもあったという。
結局、玄と関羽の話は深夜遅くまで及んだ。その理由としては1つには玄自身も詳しい事情を知らなかったことがあげられる。玄もこのゲームソフトを手に入れたばかりであり、なぜこんなことができるのか、これからどうしたらいいのかということが全くわかっていなかった。
そして、もう1つは関羽が玄の生きる現代の用語を理解できなかったために、関羽でもわかるように噛み砕いて説明するのに手間取ったことなどが主な理由だった。さらに関羽は自分が死んだあとの蜀のゆく末を聞きたがった。
その想いはどうにも切実であり、玄はあくまでも後世に残された資料の下に自分が得た知識だと前置きをして関羽の死後の三国時代を知る限り語って聞かせた。
現代に残る三国志には大別して二つの系統がある。三国志の『正史』と『演義』である。 正史とは国家が編纂する史書である。この時代最終的に中国を統一したのは魏であり、魏を乗っ取った晋という国であったため、正史は主に魏の国の人物が中心に綴られている。
一方、演義とは民衆に噛み砕いて分かり易く伝えるために綴られたものである。そのためなのか三国志の演義では民に善政をおこなったとして民衆受けがいい徳の人、劉備を主役とした話となっている。
この二つは話の大筋は変わらないものの、その人物像などには顕著な違いが見られる。 物語としては民衆向けに書かれた演義の方が分かりやすく、現代でも一般的には三国志演義の方が人気があり普及している。
実際に玄も、演義の方が好きであったし関羽は蜀の人物なのだからともっぱら演義の話に基づいて語った。要約するとこうだ。
三国時代が訪れ、一国を攻めれば残った国に背後を襲われてしまうという関係が危うい均衡を保っていた頃。
土地を守る武将としても、民を治める領主としても優れた能力を発揮していた関羽は、三国の交わる中央の肥沃な地域、荊州を治めていた。
主君である劉備は、衰退した漢帝国を復興することを目指していたが中国の北半分を領地とし、漢の帝を傀儡として国政を牛耳っていたのは魏の国を興した曹操であった。
蜀は中国の南西の四分の一程度の国土しか無い国であったが、その周囲は険しい山などに囲まれ天然の城塞であったため、その国土を守るだけならば難しくはなかった。しかし、漢の帝室の血筋にあたる劉備はそれを良しとはしなかったのである。
中国の南東四分の一を国土としていた呉と同盟を結びつつ魏の国を攻めた。蜀の国と、荊州からの二面作戦である。このとき荊州軍の指揮をとったのが関羽だった。
関羽は歴戦の強者であった。そして、長い戦乱で厳しい戦いをいくつも経験してきたため戦上手でもあった。関羽率いる荊州軍はなみいる魏の猛将や、自軍に倍する大軍にも一歩も引かず魏の国へと攻め上っていった。
しかし、一方で同盟という仮面の下で肥沃な荊州を呉が狙っていることも関羽は知っていた。その為、自分が遠く離れていたとしても有事にはすぐに連絡が届くように数里おきに烽火台を設けていた。いざという時は連鎖的に煙があがり、関羽の下にへ非常事態が伝わるようになっていた。
だが呉は烽火台を一つ一つ籠絡し、関羽への連絡を完全に断った上で荊州を奪ったのである。
本来であれば関羽は帰るべき領土を失い、魏と呉に挟まれたこの時点で蜀へと撤退するべきであっただろう。しかし荊州は重要な戦略拠点であり、関羽にとって義兄より預かった大切な土地だった。
そのため、関羽は魏軍に追撃を受けることも構わず荊州へととって返し、呉軍を追い払うことを選択するが、それを想定し待ち構えていた呉の軍勢には、連戦と長距離の移動で疲れ果てた関羽の軍は対抗できず敗走を余儀なくされてしまう。
それでも関羽は、減っていく兵士を慰撫しながら驚異的な善戦を繰り返すが、とうとう最後は麦城という廃城にわずかな兵士と共に押し込められ包囲されてしまう。
もはやこれまでかと、死を覚悟で討って出ようとする関羽だったが『あなただけは死んではいけない。あなただけは何があっても玄徳様の下へと帰らなければならない』と腹心の周倉らの説得に従い、わずかな兵と共に包囲を突破して蜀への帰還を謀るも、その行動は遅すぎた。関羽の退路を予測していた呉の策にはまり結局は捕らえられしまい、養子の関平と共に首を斬られてしまうのである。
ここまでが生前の関羽の覚えているところであった。
その後、関羽の死を知った劉備は嘆き悲しみ、そして激怒した。すぐさま呉を滅ぼすため出兵しようとする劉備を、稀代の天才軍師諸葛亮は必死で諫めるがその諸葛亮をもってしても劉備の怒りを止めることは容易ではなかった。
それでも、なんとか一度は諸葛亮の諫めに従い戦を思いとどまろうとした劉備を、劉備以上に激怒していた末弟の張飛が説き伏せ、開戦に踏み切らせてしまうのである。
張飛は劉備を説得するや否や、自分もすぐさま戦支度にかかる。しかし、義兄である関羽の弔い合戦だと意気込んで配下に無茶な注文を繰り返し、できなければ殺すと脅迫まがいの命令をしたため、命を惜しんだ配下に開戦間際に寝首をかかれて落命してしまう。
それを知った劉備は、もはや怒りを通り越してひたすら落胆するしかなかった。自分よりも遙かに強かった二人の弟を失い、嘆き悲しみながらもそれでもここまできたら呉への戦だけはやめる訳にはいかなかった。
漢帝国のために常に行動してきた劉備が、初めてそれを忘れたのがこの時だったのかもしれない。
蜀の留守を諸葛亮に任せ、自ら大軍を率いて出陣した劉備は序盤は勢いに任せ次々と呉軍をうち破っていくも、一つの敗戦から次々と後退を余儀なくされ、やがて陣中において病に倒れる。
そして、結局その病は癒えることなく劉備は戦の最中に白帝城というところでその生涯を終えることになる。
死の間際に蜀の都、成都より諸葛亮を呼び寄せ後事を託して……
劉備の死後、諸葛亮は劉備の子の劉禅をよく補佐し、何度も魏を追い詰めるが国力で大きく劣る蜀では長期の戦に耐えられず、大国となった魏を滅ぼすことは結局できなかった。
やがて、その諸葛亮が幾度目かの遠征の途中で病没すると、蜀に残された武将たちに有能な者は少なく、姜維等の一部の武将が必死に劉備や諸葛亮の遺志を継ぐべく力を尽くすが、蜀の要害を切り開いて攻め入ってきたわずかな魏の軍勢に盟主劉禅は戦う意思すらも見せずに降伏し、ここで蜀の国は滅びてしまう。