55 二喬
-土曜日-
「悪来殿、重くはありませぬか?」
騎乗する関羽のうしろに横掛けで座った孫仁が、力強い走りをしている悪来へと問いかける。
「いいってことよ。姫さんには借りが一個あるしな」
「あら、この程度で返せたとは思わないでくださいましね」
「おおっと、相変わらず厳しい姫さんだ」
目に入る景色はのどか、視界に敵影なし、玄や茜のレーダーにも感なし。油断をしているわけではないのだろうが、孫仁と悪来の間にそんな気安い会話ができる程度には順調な道程だった。
そんなのんびりとした雰囲気で西へ向かっていた関羽たちが敵に遭遇したのは正午を少し回ったころだった。
「奥方様、悪来、おしゃべりはそこまでだ」
黙々と手綱を操っていた関羽がなにかを感じてふたりに声をかける。同時に悪来も関羽に導かれるままに馬足を緩めて立ち止まる。関羽たちがの前には林の中へと続く細い道があるだけで、玄たちには特に異常があるようには見えない。
「ふん、確かに気配があるな……でもこりゃなんだか変だな」
だが立ち止まった悪来も関羽と同じようになにかの気配を感じていた。しかしその気配には妙な違和感を感じているらしく、長い首をかしげている。
「そうだな、気配を全く隠していないわりに殺気がなさ過ぎる」
関羽はそう呟くと手綱を離して下馬する。その手にはしっかりと孫策が変化した偃月刀を握っている。
「争うつもりはないのかもしれませんね」
関羽に続き孫仁もひらりと下馬すると、静かに関羽の隣に立ち前方を窺う。
孫仁は周瑜が変化した衣を纏い、両腰に一本ずつ初期装備の剣を帯剣している。当然一本は関羽のものだ。孫策が変化した偃月刀という得難い武器を手に入れた関羽は、初期装備の剣を持つ必要性が下がった。勿論、あればあるに越したことはないが、関羽は自らが持つよりも孫仁が持ったほうが孫仁の危険を減らすことができると判断したらしい。
不測の事態に備え、武器に手をかけたままふたりは林道の入口を睨んでいたが動きがない。関羽は小さく髭を揺らすと一歩前に出る。
「出てまいられよ。我は関羽 雲長である」
関羽は特に威圧することもなく、ただ静かに名乗りをあげる。その声は大きくはないがしっかりと周囲に響き渡る。相手に戦意が乏しいのならば、相手が関羽だとわかることで戦闘自体を避けようとこの場を立ち去ってくれるかも知れないと考えたのだろう。
しかし、どうやら相手は立ち去ってはくれないらしい。がさがさと下草を踏む音がこちらへと近づいてくる。
「……い、いや! 行きたくない! もう嫌なの! やめて! やめて! やめてぇ!」
草を踏みわける音とともに聞こえてきたのは、泣き叫ぶ女性の悲痛な悲鳴だった……
「おやめください! 私が! 私だけが参ればよいではないですか! これ以上、妹を辱めるのはおやめください!」
「ふたりか?」
悪来の呟きと同時に林の陰から出てきたのは女性。取り乱している桃色の衣を身に纏った女性を、青い衣を着た女性が抱きかかえるようにしている。ゆっくりとこちらへと歩いてくるその姿はとても戦えるようには見えない。
どちらの女性も薄く化粧を施し、その整った顔立ちは間違いなく美女といっていいだろう。ただその美しさの質は、孫仁がしなやかさと強靭さを兼ね備えた雄々しい美だとするならば、ふたりはたおやかさと上品さがある美だ。
「義姉上! 大喬ではないですか!」
その姿をひと目見た孫仁が驚愕の声をあげる。その声に青い衣の女が孫仁の顔をまじまじと見つめると、ゆっくりと口を開く。
「レン……レン姫なのですか?」
「いや! いやなの!」
孫仁の声に反応したのは孫仁が義姉と呼び、大喬と呼んだ青い衣の女性だった。だとすればその大喬に抱きかかえられながら泣き叫んでいるのは、どことなく顔だちが似ていることから考えても妹の小喬であろう。
大喬・小喬
大喬は孫策の妻であり、妹の小喬は周瑜の妻。
孫策軍が皖城を占領した際に一時捕虜となっていたが、その美しさを見初められ姉の大喬は孫策の妻に、妹の小喬は周瑜の妻へと迎えられた。
このとき孫策は小喬を娶った周瑜に「『江東の二喬』は確かに美女だが、我等を夫にできるふたりも幸せであろう」と言ったという。
なお、「江東の二喬」と称されたふたりは名に恥じぬ絶世の美女であった。魏の曹操が呉の孫権のところへ攻め寄せた際には、曹操が二喬を手に入れるために攻め込んだのではないかと噂され、諸葛亮からそれを聞いた周瑜は激怒し、躊躇していた曹操軍との開戦を決意したという。
「義姉上、なぜあなたや小喬のような戦いに向かぬ者がこのようなところへ……」
孫仁の問いかけに暴れる妹を必死に抱きしめながら大喬は静かに首を振る。
「わかりませぬ……わたくしたちは伯符様や公瑾様亡きあと、ふたりで菩提を弔いながら過ごし、最後は病に倒れましたが天寿をまっとうしたつもりでいました。ですが、気がついたときには小喬と共に……」
「奥方様、彼女たちも武をたしなむのですか?」
「とんでもございません! 関将軍、義姉たちはわたくしなどとは違い、まさしく淑女の鑑。剣など持ったこともないはずです」
関羽の問いかけに首を振る孫仁。関羽の目から見てもふたりからはまったく武の片鱗は窺えない。
「レン……ここであなたに会えてよかった。頼みがあります」
妹を力強く抱きしめながら大喬が力なく微笑み、孫仁を見つめる。
「なんでしょうか、義姉上。わたくしにできることならばなんでも仰ってください」
「ありがとう、レン………………ならば、私たちを斬りなさい」
「な!」




