32 渡渉
「では、渡渉するとしよう」
「おっと、ちょっと待ちな、関羽」
下馬して川へと入ろうとした関羽を悪来が呼び止める。
「む、どうした悪来?」
水際で立ち止まった関羽をそのままそこで待たせた悪来が、川へと足を踏み入れていくと岸からすぐに深くなっているようで、悪来の腹部が半分ほど水に沈んでいた。
その場でしばらく体を動かしていた悪来は馬首を下げ頷くと、軽く嘶いて関羽へと鼻先を向ける。
「よし、関羽。お前は俺に跨っていけ」
「む……よいのか?」
「ああ、水深はそんなに深くはなさそうだし、泳ぐのも問題なさそうだ。ならば俺が泳いだ方がいい。そうすれば、もし敵が来たとしてもお前は両手が使える」
悪来の言葉に玄はなるほどと深く頷く。確かに関羽が泳ぐとなれば、武器は典韋に縛り付けるか自らで背負って運ぶこととなる。そうなると、ただでさえ泳いでる最中は無防備になってしまうのに、武器すらもすぐに使えなくなってしまう。
だが悪来に跨って渡渉すれば、関羽は両手が自由に使える。思いがけぬ奇襲があっても、手にした武器で応戦することができる
「確かにおまえの言うとおりだな。ここは素直に甘えるとしよう」
「いいってことよ。俺のことは馬として扱えと言ったはずだぜ」
「ははは! 悪来よ、私が自らが跨る馬に感謝もしないような漢に見えるのか?」
豪快に髭を揺らした関羽は素早く悪来に跨る。
「……なるほど。確かに馬に感謝もできない奴は戦場じゃ生き残れねぇな、じゃ遠慮なく恩に着せておくぜ」
悪来は愉快そうにひと声高く嘶くと、大河へと踏み込んでいく。おそらく中州までは500メートルほど、人を乗せた状態の馬が流れを横切って泳ぐとなれば到着まではせいぜい十数分というところだろう。
時間にして十数分、いまや残り70人となったこの世界で、その十数分に誰かとあいまみえる可能性は低いはずだが油断はできない。玄は関羽たちを見守りつつマップに表示されるマーカーを見逃さないように集中する。
現在関羽たちがいるエリアは一番東端。北東、東、東南の三方向に関してはエリアがなく、誰かが現れる可能性はない。そして北、北西、西のエリアは既に到達エリアになっているため、誰かがいればすぐにマーカーが表示されることになるが、そのエリアにもいまは反応がない。
仮に誰かがそのエリアに入ってきたとしても、関羽たちのところに至るには約10キロメートルの距離を踏破しなくてはならず、関羽たちが川を渡りきるほうが早いはずだと玄は考えている。
警戒するべきエリアはふたつ、南と南西のエリアだった。このふたつのエリアに関しては未到達エリアである。つまりこの範囲に誰かが潜んでいたとしても自分たちには知る術がない。
逆に相手が関羽たちがいまいるエリアを到達エリアにしていたとしたら、こちらの動きを完全に把握していることになる。
「エリアの境界線は……ちょうど中州の真ん中付近か」
関羽たちが川の中に居るため、自分の周囲も水の映像で満たされている。それはそれで幻想的な風景なのだが、状況が状況なだけにその風景を落ち着いて楽しむことなどできない。
「無事に着いてくれよ」
玄は祈るように呟いた。
◇ ◇ ◇
その頃、茜と孫仁もまたフィールドにいた。しかし、その様子は関羽たちとは違ってのんびりとしたものだった。
ふたりの目的はフィールドの雰囲気に慣れることと待機時間を稼ぐためで、戦いが目的ではないためだろう。そのため、茜の提案で孫仁はあえて見晴らしのいい街道を歩き、敵に見つからないようにマーカーも消していた。
「今日で2回目だけどこの世界はどう? レン」
茜の言葉に孫仁は街道を歩く足を止めずに周囲を見回すと小さなため息をもらした。
「そうですね……私がいたところとはどこも似ていません。それなのに、どこか懐かしい雰囲気だけは残っています。例えてるなら故郷のへたくそな絵を無理やり見せられている。 そんな感じです」
自分で言っていておかしくなったのか、くすくすと笑いながら孫仁が答える。だが、どこかその笑顔は空々しい。
「あぁ、なるほど。わかるわかる! なんの絵なのかは、わからなくもないけど……これを認めるにはちょっと、ってやつよね」
レンの例えに明るく笑った茜が次の瞬間真顔になる。
「……でも、だからこそ腹立たしいわね」
そんな茜の言葉に孫仁が今度こそ心からの微笑を浮かべる。
「ふふふ、それが分かってもらえるあなたと組める私は幸せ者です」
自分が笑顔の下に隠した細かい心情まで、自然と茜は察してくれる。孫仁にはそれがとても嬉しい。
孫仁が生きていた頃は、身分の違いからか誰もが孫仁との付き合いに一線を引き、そこまで心中を慮ってくれる人は召使はもとより、友人の中にも一人もいなかった。だからこそ最初に茜と出会った時、茜がかけてくれた言葉に魅かれたのである。
『相棒』
すなわち互いに対等の友人であり協力者。当時の孫仁にはどんなに望んでも得られないものだった。女は政略結婚の道具にされ、戦うことなどはないのが当たり前の時代。女は ただ、愚鈍なまでに家で夫を待ち子を産むだけ。
あの時代ではそれが当然であり、孫仁も疑問を抱いたことはなかった。だが、孫仁は劉備に嫁いでからは、劉備とその周りに集う人々の関係をいつも羨望の眼差しで見ていたのだ。
このような訳のわからないゲームに狩り出されてしまったことには怒りも感じるが、茜や玄に出会えたことや、もう一度あの人に会えるかもしれないことを思えば正直悪くはない。孫仁はそう思っていた。
「ちょっと、なによレン。いきなり照れるじゃない」
顔を赤くした茜の言葉に(孫仁から茜の顔は見えないのだが)レンは再び笑う。
「ふふ、本当のことですから」
「うっ! ……でも、ありがと。私もあなたと組めて嬉しいわ」
まっすぐに気持ちを伝えてくる孫仁。茜は照れくさいながらも素直に好意を受け取ることにし、自分も同じ気持ちであることを伝える。
そのあと茜は熱くなった顔を手であおぎながら周囲を見回す。
「それにしても、そろそろ緊張してこない?」
「こう見えても私は、敵に備えてある程度の緊張感は保ってるつもりですよ」
「ああ、違う違う。そういう緊張感なら私だってあるってば」
孫仁が疑問符を浮かべて立ち止まる。
「レンは見えないと思うけど、もうすぐ私たちも今いるエリアを出るじゃない? でもそこは私たちにとってはまだ行ったことないエリアな訳だから、そこに誰かがいたとしても相手のマーカーはわからないでしょ。隣のエリアに行った途端に誰かと遭遇することだってあるかもしれないじゃない」
茜の説明を聞いていた孫仁は一瞬きょとんとしたあと…………笑った。
「え、え? なんで笑うのよ、レン!」
「ふふふ、笑ったりしてごめんなさいね茜。でも考えても御覧なさいな。あなたの目にも見えるでしょう? あの地平が」
孫仁がぐるりと周囲を指差した先々には、地平線や山の稜線、遠くにきらめく水面、青々と茂る木々等の自然の景色が見える。
「え? 確かに見えるけど……」
ぐるりと見回した綺麗な景色を見ても、茜には孫仁が何を言いたいのかがわからない。
「茜、あなたはその道具に頼りすぎて私たちにとっては当たり前のことに気づいてないのよ」
くすくすと笑いながら孫仁は言う。
「えっ、私なんかおかしなことしてた?」
「いえ、あなたが少しでも私たちの役に立とうと一生懸命にその道具を使いこなそうとしているのはわかっています。それはとっても嬉しいの、でも私もあなたも人間でしょ。近くに誰かを探す時にそんな道具はいらないわ」
「あ……」
孫仁の言葉に、ようやく自分の思い違いに気づいた茜の顔がさきほどよりも、さらになお赤くなる。
「気づいたかしら? 今のあなたの顔が見えないのはとても残念だわ」
口元を手で隠し上品に笑う孫仁。
「きゃぁ…………恥ずかしい。そうよね……私たちには目があるんだもん。自分の周囲なんて目で確認すればいいだけじゃない。確かに道具に頼り過ぎてたみたい、当たり前のことなのにね。教えてくれてありがとう、レン」
「ふふ、どういたしまして。さて私の相棒さん、方向はこちらであってるのかしら? その道具で確認してちょうだい」
「あ! それって皮肉? もぅ‼ 本当にお姫様だったの?」
茜が口を膨らませて抗議する。
「お姫様なんて言われるようになったのは権兄さまが後を継がれてからだから、基本的に育ちはいいわけではないのよ」
ころころと笑う孫仁は本当に楽しそうだ。茜も口では怒ったふりをしているが、気兼ねのない会話を楽しんでいる。とはいっても、勿論戦場にいるということも忘れてはいないのでVSもしっかりと確認している。
「私たちは昨日、今日と始まりの場所から北東に向かって歩いてきて……もうすぐ最初のエリアの北東の角に到達する。そこで玄から教わったとおりにくるりと動けば到達エリアが一気に4つになるはずよ。玄たちがスムーズに川を渡ってきていれば、もしかしたらエリアが繋がるかもね。だから、方向はいまのままで大丈夫よ……えっと、ちょうどあの先に見える大きな岩のあたりが境目ね」
孫仁は茜が指摘しているだろう岩を見て小さく頷く。
「関将軍のことですから、きっともう近くまで来ていることでしょう。私も待っているだけではなく戦うと決めたのですから、少しでも進まなくてはなりません」
「レン、体力もったいないから戦闘状態解除もしたわ。見晴らしいいし、誰かが近づいてくるようならすぐわかるもんね」
先ほどの一件で自分たちが相手を見つけられるということは、こちらがいくらマーカーを消していても視認されてしまえば結局見つかるということに気づいたからである。
ならば、こんな見晴らしのいいところで体力を削るのは無駄である。見える範囲よりも遠くから位置を把握される恐れはあるが、そんなに長居するつもりはないしその辺は問題ないと判断したのである。
「今日はそこでエリアを拡大したら、一度戻ろう。玄に連絡してどの辺にいるのか聞いて、合流地点とか聞いてみるから」
茜の言葉に孫仁は微笑んで頷く。
「茜は本当に玄殿のことが好きなのですね。名前を呼ぶときの声でわかります」
「な! なにを言ってるの! そ、そそそんなのわかる訳ないじゃない、ちょっとばかり長く生きてるからって適当なこと言っちゃダメよ」
言い逃れができないほどに狼狽えている茜の声を、楽しそうに聞きながら孫仁は再び歩き始めるのだった。




