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くたばれ、ノスタルジィ

作者: 二木 祥

わたしは、昔話というものがあまり好きではない。

高校時代の同窓会で、突然そんなことを言い出すような人間なのだから、ひねくれ者であることは自覚している。それでも、元同級生の香椎は、わたしの隣から離れようとはしなかった。

「どうして嫌いなの?」

それどころか、こんなふうに話を広げようとしてくる。いい子だと思う。そりゃあ、いい旦那さんを見つけるわけだ。

「話すと長くなるけど」

「いいよ。どうせみんなは年収がどうとか、そんな話ばっかりだし」

思わず二人で苦笑いした。乾杯からしばらくして、同窓会の会場となった座敷部屋は、すっかり乱痴気騒ぎの様相を呈している。学生時代と同じグループでつるむ人たちもいれば、そうでない人たちのグループが形成されてもいるし、特に仲の良かった相手同士で静かに酒を飲み交わしている人たちもいる。連れたって座敷をあとにする辻くんと横山さんの後ろ姿は、見なかったことにしよう。

「正確にはさ」

「うん」

「……懐古、っていうの? そういうのが、好きじゃないんだよね。むしろ、嫌い」

「それって、昔のほうがやな思い出があるってこと?」

わたしは首を横に振る。酒はあまり得意な性質ではないが、こんな話をするなら、舌滑りをよくするために必要だ。コップに半分ぐらい残っていた日本酒を、きゅっと呷る。喉を通るかっとするような熱い感触に、少しだけ眉根を寄せた。

「そうじゃなくて。なんていうかな……」

相槌を打って話を聞く姿勢になった香椎を輩に、わたしの心は過去へと遡っていく。高校時代より前、小学生より前の頃へと……。



* * *


はじめて疑問を覚えたのは、たぶん6歳ぐらいの頃だったと思う。

きっかけは、ありふれたものだ。なんてことはない、休日に家族揃って出かけた、その帰りのこと。

「いやあ、今日は楽しかった」

車を運転する父がそう言ったのを覚えている。たしか、その時は、もともとわたしが行きたがっていたプールかどこかに遊びに行った帰りで、遊び疲れたわたしはうとうとしながら、窓の外を流れていく風景を眺めていた。

「三人で来れてよかったわね」

母が頷いた。まどろみに片足を突っ込んでいたわたしは、きっと、そうだね、と適当な返事をしたのだろう。

「すっかりおねむさんだな」

「仕方ないわよ、あれだけ楽しそうに遊んでいたんだもの」

父と母の、穏やかな会話が、どこか遠くのもののように聞こえる。そうだ、今日は楽しかった。たっぷり遊んで、屋台のお菓子もねだったし、お昼ご飯も美味しくて……。

「最近、あまり家族で出かけられてなかったからなあ」

「そうだったかしら。けっこう、あちこち行っていた気もするけれど」

「そうかな」とぼけたように父は返して、笑った。「そうかもしれないね」

何か重大なことを話し合うわけでも、腹に一物を抱えているわけでもない、ありきたりな家族な会話だったと思う。だから、父のあの一言に違和感を抱いたのは、きっとわたしがひねくれ者だからなのだ。

「そういえば、みんなで出かけたというと……去年の今頃にいった公園も楽しかったねえ」

「あら、懐かしい。そういえば自然公園にピクニックに行ったわね」

そこで、気持ちよくまどろんでいたわたしに、疑問が生まれた。自然公園、自然公園……おぼつかない頭で、記憶を探る。たしかにそうだ、ちょうど去年のこの時期に、家族三人でピクニックへ行った。たしか、隣の市にある自然公園に。わたしが引っかかったのは、そこではなかった。「楽しかった」という、父の言葉にだ。

「そうそう。遊びすぎて筋肉痛になっちゃったのを思い出したよ。明日、いや明後日も危ないかもしれないなあ」

「明後日って、まだそんな歳じゃないでしょうに。帰ったら湿布でも用意しておこうかしら」

朗らかに笑い合う父と母をよそに、わたしは記憶のサルベージを続けた。自然公園に行ったのはたしかだ。わたしも最初は楽しんでいた。けれど、着いてから父と母が喧嘩を始めたのを覚えている。お弁当を忘れたんだったか、母が用意しているものだと思っていた父が怒ったのだったか……理由は些細なものだったはずだが、とにかくそれで険悪な空気になったのは間違いない。子供にはどうしようもない両親の諍いに、わたしは形見を狭くした覚えがしっかりと残っている。

「でも、喧嘩してたよね。お父さんとお母さん」

だからわたしは、素直にそう言った。きっと眠くなかったら、そんなどうでもいいことは聞き流していただろう。そして、わたしの唐突な言葉に、父と母は(ちょうど信号待ちしていた)顔を見合わせて、

「そうだっけ?」

と、声を揃えて言った。

大人になったいま思えば、それはごく普通のことだ。いつ、どこで、どんな理由でどうやって喧嘩をしたかなんてことをいちいち覚えていては、友達関係だって長くは続かない。ましてや夫婦関係ともなれば、多少の諍いは水に流して忘れるのが当然、むしろそのほうが健全だ。わたしだって、そうやって生きている。

けれど、その時のわたしはまだ子供だった。なにより、自分の言ったことが否定されたような気がして、言いようのないいらだちがふつふつと湧いてきて、言い張ったのだ。

「そうだよ。それに、そのあと、お父さん機嫌悪くなってたもん」

「そうだったかなあ」

父はそれだけ言って、また動き出した車の列に意識を向けた。何もおかしくないその振る舞いが、幼稚なわたしには、まるであしらわれているように感じられて、いよいよむかっ腹が立ってしまった。

「そうだよ。お母さんも覚えてるでしょ。お弁当……」

「そうそう、お弁当作り忘れちゃったのよね。でも、たしか自然公園にあるレストランでランチを食べたでしょ?」

そうじゃなくて、とわたしは言いかけたが、直後に母が、地図に目を戻して父のナビゲートを始めたものだから、話は続かなかった。別に、父や母がわたしのことを疎んでいたり、どうでもいいものとして扱っていたわけではないのだろう。それでも、わたしにとって、そのやりとりが強烈に残った。

どうして、あんなに嫌な気分になったのに、それを忘れてしまったんだろう。

どうして、忘れるどころか、「楽しかった」などと言ってしまうのだろう。

わたしは幼かった。だからこそ、その小さな疑問を、誰にも打ち明けられずに、ずっとぐるぐると反芻し続けた。よく懐いていた祖父に、こっそりと打ち明けるまでは。



「人はね、そうやって昔のことを懐かしむものなんだよ。あの頃はよかった、とね」

小学生となったわたしに、祖父はそう言った。うららかな春の日の、祖父の書斎でのことだった。

「いやなことは、みんな忘れちゃうの?」

わたしの言葉に、祖父は苦笑していた。祖父は……おじいちゃんは、頭がよくて、落ち着いていて、わたしが疑問に思ったことに、どんな些細なものでも、まっすぐに答えをくれる人だった。

「全部ではないと思うよ。でも、たいていなことは忘れてしまうのではないかな」

「どうして?」

「いやなことばかり思い出していたら、ずっといやな気分になってしまうじゃないか」

これ以上ないくらい、シンプルな答えだった。それでも、わたしは納得できなくて……あるいはしたくなくて、食い下がった。

「そんなの、変だよ。いやなことでも、ちゃんとあったことを、すり替えちゃうなんて」

「すり替えているわけではないさ」おじいちゃんは言った「その公園のことだって、全部が全部いやだったわけじゃないだろう?」

嫌なことを、勝手に頭のなかで書き換えているわけじゃない。ただ、楽しいことと一緒に起きた嫌なことを忘れているだけ。そして、それは、人が生きる上で必要なことなのだと、まだまだ子供だったわたしに、丁寧に説いてくれたおじいちゃん。

「ノスタルジィと言ってね。人は自分が体験したことがないことでも、なんとなく「懐かしい」と思うものなんだ」

そういえば、父や母が、何かのドラマで映った木造りの家々や、立ち並ぶ煙突、そういった風景を見て、懐かしい、とこぼしていたのを思い出した。そんな風景は、おじいちゃんの年齢でもなければ実際に見たことがないはずなのに。

「そうして昔を……「いい思い出」を振り返るためには、嫌なことは忘れたほうが楽なものなのさ」

「だから、みんないやなことを忘れちゃうの? でも、それはほんとの思い出じゃないよ」

「そうかもしれないね」

おじいちゃんの瞳は優しかった。それでいて……そう、どこか寂しそうだった。

わたしを諭すように頭に手を置いて撫でてくれたその暖かさを、今でもよく覚えている。

「人は、そういうものなんだよ。大きくなればそのうちわかるさ」

微笑みながら呟かれたおじいちゃんの言葉に、わたしはそれ以上何も言えなくて、俯いた。


* * *



「それで、昔話が嫌いになったの?」

香椎の言葉に、わたしは首を振る。

「他にも色々あったのよ。家族の間でもそうだし、学校でとか……ほら、小学校で遠足とか、修学旅行に行くでしょ?」

「うん」

「はしゃいだ男子が問題を起こしたりして、同じクラスだからってわたし達もとばっちりを食ったのに、それがさもみんなで楽しく遊んだ、みたいに卒業式のあと話されてるのを聞いたりさ」

あるある、と言いながら香椎は笑ってお酒を注いでくれた。どこにでも、誰にでもよくあるありふれた話なのだろう。

だからこそ。

「わたしは、そういうのイヤだなって」

「……つまり?」

「わたしは、嫌なこと、本当は楽しくなかったことを、「楽しい思い出」になんてしたくない。それがどれだけ、過去を振り返る上で辛くても……」

日本酒を煽った。どのくらいお酒が回っているんだろう。あまりお酒には強くないわたしだけれど、今日は不思議と頭がはっきりしていた。

「わたしだけは、ちゃんとすべてを覚えて、思い出す。ノスタルジィなんか、くそくらえ。ってさ」

香椎は、ぽかんとしたあと、くすくすと笑った。

「面白いね、そのこだわり」

「そう?」

なぜだか照れくさかった。香椎はわたしのことを馬鹿にしたりするような子じゃない。だから、思わずこぼれたらしい笑みは、本当に好奇心からのものなのだと、信頼できた。

……でも、もしかすると、わたしが香椎を「そういう子」だと思うこの気持ちすら、本当はあったはずの、香椎とのいやな記憶、楽しくなかった思い出を、自然と削ぎ落とした結果なのかもしれない。

過去は変えられない。けれども、自分の中の思い出は変わっていく。自分自身が望む、望まざるにかかわらず。

「楽しかったあの頃」なんてものはない。いつでも世界は、昨日より明日のほうが素晴らしいものだと。わたしは、後ろを向いて、その郷愁に浸るようなことはしないと。

これから先、わたしは何度も、自分の「思い出」に不安をいだいて、あるいは、忘れようとしない嫌な過去に苦しめられるだろう。それでもいい。過去を美化して懐かしむ人々の言葉に、苦い思いをするだろう。それでもいい。

だからこそ、わたしは、わたし自身に、そしてわたしが生んだ「思い出」に、こう言い続けるのだ。


くたばれ、ノスタルジィと。

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