第二・五話 「 」
穢れなき新雪。何物にも染まらない純粋無垢。そんな陳腐な形容を彼女は許さない。
どんな美姫でも、美しいモデルでも、スクリーンの向こう側で都合のよい偶像を演じる女優たちでも。きっと彼女には及ばない。
どんな風景にも彼女の〝色〟が一つ加わるだけで絵画となるだろう。
柔らかで滑らかな、純白の体毛に包まれたしなやかな肢体。ツンと澄ました、形の良い三角形の耳。ゆらゆらと揺れる長い尻尾は、優美な曲線を描き出す。
彼女の高貴な佇まいは万人を魅了し、傅かせる天性のものだ。
そんな彼女は我が家の〝お姫様〟だった。
十人が十人、美人と評するだろう容姿をしていた、真っ白な猫。そのはずなのに不思議と誰の記憶にも残らない、完成された空白のような存在。
俺は久しぶりに実家に帰っていたらしい。俺は彼女のお気に入りである西日の差す窓際にいた。夕暮れの窓辺に佇む彼女のシルエットは絶妙な配置で。四角い窓をキャンバスとしていた。
彼女は俺が生まれる前から実家にいた。生まれた頃からずっと一緒で、そこにいるのが当たり前。幼い頃の俺にとっては姉のようで。物心ついてからは妹や娘、あるいは近しい友人のようで。
彼女は俺がそばに寄ると、スッとその場を離れて部屋から出て行ってしまった。
残された俺以外、リビングには誰もいなかった。
何かが階段を上り近づいてくる音がする。
目を覚ますと俺は、ほんの七ヶ月ぶりなのにもはや懐かしき我が家のベッドで横になっていた。
俺の部屋は二階にあって、階段を上ってすぐ右の所にある。そのため誰かが階段を上ってくると足音がうるさいくらいによく聞こえるのだ。
だが今聞こえてくるのは明らかに人のものではない、軽く、少し不規則に響く足音。そのことから彼女が部屋に向かって来ているのだと分かった。
毎晩の恒例として、彼女は酔っ払った親父に捕まり布団に拘束される。しばらくして親父が寝付くと、布団から抜け出して隣で寝ている母の布団に潜り込む。それに飽きると、いつも俺が深い眠りについているような頃合いに二階へと上ってくるのだ。
俺の部屋はドアノブを捻って開ける開き戸ではなく、向かって右側にスライドして開閉する引き戸で、鍵なんてものはついていない。つまり少し器用で賢いネコならば簡単に開けられるのだ。
カリカリと扉を引っ掻いてからしばらく待ち、俺に開ける気がないのが分かると億劫そうに彼女は自ら扉を開けて入ってくる。そして足音を隠すつもりもない様子で、優雅に、泰然と俺の眠るベッドへ歩み寄る。
俺の足下から布団の中へ肌触りの良い高級な毛皮が潜り込んでくる。脛に触れるその滑らかな感触と高めの体温が心地よい。彼女はそのまま胸の辺りまでモゾモゾとやって来て、俺にピトっと背中をくっつけて丸くなった。胸の辺りに感じるあたたかさについギュッとやりたくなるが、それをすると手痛い反撃を受けたあげく逃げられてしまう。
嫌われたくない一心で、今すぐにでも抱きしめたい気持ちや、思いっきりお腹にダイブしてお日様の匂いをクンカクンカスーハースーハーしたい気持ちを必死で押さえる。そんな風になったのはいつからだったか。
親父がちょっかいを出しまくった末に、蛇蝎の如く嫌われている(だが本人は全く懲りていない)のを見てなのか。それとも単純に俺が大人になっただけのことなのか。
小さい頃はそんなことは気にせずベタベタ触っては引っ掻かれ、羽交い締めにしては思いっきり噛みつかれていたな。
再びの眠りへと落ちていく最中、俺は働かない頭でそんな取り留めのないことを考えていた。次第に思考は鈍化して、ほとんど何も考えられなくなる。
俺は彼女の喉元を無意識に撫でながら、その心地よい手触り――この辺りの毛がふかふかしていて最高なのだ――を堪能していた。ゴロゴロと喉を鳴らしているのが触れた背中からも伝わってくる。
しばらくそうしていると、彼女は布団から這い出て来て、俺の枕を半分ほど占領するという暴挙に出た。しかも俺の二の腕にも思いっきり乗っかっている。これでは全く身動きがとれない。
朝になったらきっと腕がしびれてるんだろうな……。俺は仕返しでもないけどほっぺの辺りに鼻を埋めてやった。どこか懐かしい、とても落ち着く匂いがする。
彼女は少しくすぐったそうにしたが、抵抗するつもりはないようだった。