第二話 ネコ美さん名前をもらう
「名前がない?」
「ん。名前、まだない」
即答された。
「困らないのか?」
「?」
少女の様子を見て、具体性に欠ける聞き方だったと気付いた俺は、改めて問いかけた。
「名前がないと不便じゃないのか。他の誰かと話したりする時に相手が困るだろうし、自分が呼ばれたかどうか判断するのも難しいだろ?」
「わたしは困らないよ? もしかして、ミケ、困ってるの?」
言われてから気付いた。そうか、俺が呼び方に困っていたのか。
「……そうかもな。俺が困っていたのかも知れない」
「そっか、じゃあミケが考えて」
「え、」
俺はまた、途方に暮れることになるのだった。
* * * * *
俺は寝起きのいい方ではない。
例えば。俺は意識が半覚醒して、夢のことをさも現実のことであるかのように真剣に考えている。そして、そのことが夢であるということに気付くまで一時間くらいそうしている。そんなことはざらだ。
おそらく、今もそうなのだろう。
昨日深夜に猫耳の妖怪――しかも美少女の――に出会ったこと。
その少女を餌付けして家に連れ帰ったこと。
今まで一度も女性が踏み込んだことのない俺の部屋で、何故か俺のベッドを使ってその少女が寝ている、なんてことは。
きっと夢に違いない。今回は珍しくあっさりと気付けたな。
俺は目をつむったまま、気持ち良い微睡の中でそんなことを考えていた。
でも何故か体のあちこちが痛いような……。それにどうして俺は何かに寄りかかって寝ているんだ……?
…………。
……。
「っ!!」
俺は珍しく一瞬で覚醒した。
相変わらず少女はベッドの上にいた。タオルケットは大事そうに抱えたままだ。
Tシャツは俺が意識を失う前に見た時よりも危なげな感じだし、トランクスも尻尾があるせいか盛大にずり落ちていて。適度に引き締まった柔らかな曲線が半分近く見えてしまっている。
目の毒だな。そんなことを考えて現実から目を背けていると、少女の目がパチッと開いた。目を逸らす間もなく、思いっきり目が合ってしまった。
しばし見つめ合う少女と俺。当然目を逸らしたら殺られるっ、なんてことではなく、俺の目は単純に少女の瞳に縫い止められてしまったのだ。
俺が何のアクションも起こせずにいると、少女は口の端の涎を拭って、
「おはよう、ミケ」
と、寝ぼけ眼のトロンとした顔で、見る者全てが蕩けてしまうような笑顔で、当たり前の朝の挨拶を口にした。
俺は顔を洗って洗面所から部屋に戻ると、少女にも同じように顔を洗ってくるよう勧めた。すると少女は猫流のやり方で始めようとしたので、人間流のやり方を教えるはめになった。
何がいけないのとキョトンとした表情を浮かべた少女は、それはそれは愛らしかった。だが甘やかしてばかりはいられない。これからのことを考えると少女には他にも様々な人間流のやり方を教えていかなければならないだろう。
朝食の準備をしていた俺は、そこまで考えてから気付いた。あれ、これ俺が面倒見なきゃいけないパターンじゃね? と。しかも何の違和感もなくそのことを受け入れている自分自身にも。そもそも少女はどうしたいのだろうか。そのことを少女自身に聞いてみないといけないな。
「アチッ」
考え事をしながら調理をしていたせいか、俺は熱々のフライパンに思いっきり触ってしまった。
大学二年・男の一人暮らし。きっと世の男子学生もそうであるように、普段は朝食なんてほとんど摂らない。
実家も同じ『猫の町』にある俺は大学への進学を機に実家を離れた。
当然、両親には、同じ町の大学に通うのに何で一人暮らしをする必要があるのかと、真っ当な反論をされた。そんな両親には社会勉強だの、大学卒業後に自立した際のシミュレーションを余裕のある学生時代にやっておくべきだの、といった屁理屈で納得してもらった。
でも本当は実家にいるのが嫌だっただけなのだ。別に両親が嫌いなわけではないし、姉とは普段、会話らしい会話もないが、仲が悪いわけではない。ある理由から、俺は実家にいるのが苦痛だった。ただそれだけだ。
両親を納得はさせたが、家賃分は自力で稼ぐというのも条件に課せられた。そのため、俺はコンビニでバイトをしている。ミッドナイト・アルバイターだ。
昨日深夜は俺のシフトの日ではなかった。だが、その日シフトに入っていた子が出勤中に電車が停まってしまったとのことで、家も近く、夏休み真っ只中で暇な俺が代打に選ばれたのだ。その子が無事到着して、交代した俺は店長から(本当はいけないらしいのだが)廃棄の商品をいくつか頂いて、帰宅の途に就いたところで猫耳少女と出会った。
その少女は今、目の前で美味しそうにハムエッグを食べている。俺は固焼き派なので、少女に意見を聞くでもなく無意識に固焼きのものを二つ作ってしまったのだが、好評なようで何よりだ。
一人暮らし二年目の俺は、久しぶりに人と食べる朝食が新鮮だった。それが家族でも友人でもない、女の子と二人きりというのは我ながら不思議で仕方ない。昨日もらった廃棄品のハムに、冷蔵庫にあった卵を落として適当に焼いただけのものなのに、いつもよりは美味しいような気さえする。
ご飯は昨日炊いたものが冷蔵庫に残っていたので、レンジで温めて食卓に出した。少女は一品ずつ食べようとしていたので、ハムエッグとご飯を一緒に食べると美味しいぞと教えてやると、半信半疑の様子で言われた通りにした。以降は嬉しそうにその食べ方をしている。
それ以降は食事中に会話などなかったが、気まずさなど感じず、それどころか幸せな空気すら漂っていた。初めて部屋で一緒に食事をする女の子と、二人きりだっていうのに何故だろうと思ったが、あ、と気付いた。きっと、目の前の少女がとても幸せそうに、美味しそうに、食べてくれているからだ。
最近妖怪になったばかりという本人の言の通り、まだ今の姿での食事に慣れていないのか食べ方はお世辞にもきれいとは言えない。
箸は使えるかと確認すると、無理だと言うので、フォークを使って食事をしているのだが、それでもうまく食べられないらしい。頬にはケチャップやご飯粒が付いていた。時間をかけてようやく食べ終わった少女の愛らしいほっぺたを、俺は拭ってやった。
少女ははにかんだ顔で、それでもどこか嬉しげに、されるがままにしていた。
食事を摂って、少女に教えながら歯を磨いて――ちなみに少女は歯磨き粉の味を嫌がったので、今度子供用の甘いものを買おうと決めた――俺はようやく落ち着いていた。
少女は再びベッドの上におり、放って置くとまた寝てしまいそうな雰囲気だった。
これは今しかないなと思い、俺は少女に聞いてみた。
「これから行く当てはあるのか?」
少女は不安そうに、こちらの様子を伺いながら、
「……ない。ミケのところに居たら、ダメ?」
と言ってきた。
今は夏休みだ。今月は少し多めにバイトを入れていたので、資金面では少しばかり余裕がある。始業後も今ほどは入れないにしても、少しバイトを増やすくらいで一人分の食費くらいなら何とかなるだろう。それにうちのバイト先では店長の厚意で廃棄品がもらえるので、食事に関してはそう苦労しないはずだ。
ただ、俺の借りている部屋は1DKタイプ。寝室は一部屋しかない。しかも客用の布団などなく、友人が遊びに来た時などは和室であるのをいいことに、クッションだけ与えて適当に雑魚寝させている。
「わかった。じゃあいろいろと必要なものを買いにいかないとだな」
まぁ、布団は買えばいいか。こんな美少女と同棲とか理性がマッハで吹っ飛びそうだが、こんなに不安そうな少女を一人、放りだすような度胸は俺にはない。
俺に思いきり抱き着いてきながら、花が咲くような笑顔を浮かべる少女を見て、俺の判断は正しかったと、そう、思った。
その後はいろいろと必要なものを買いに行った。少女のための歯ブラシ&歯磨き粉といった日用品や、購入に際してかなりの苦行を強いてきた女性ものの衣類など。
特に下着を買った時のことはなかったことにしたい。近場の大型スーパーにてセットで安売りの女性用下着を六セット買ったのだが、バーコードをスキャンする際のおばちゃんの不審な目はもう……。
最後は少女用に布団を一揃い買った。一度ではさすがに持ちきれない量だったので、布団はあとで引き取りに来る旨を伝え、一旦家に戻ることにした。
俺の隣には「ミケと一緒にお出かけっ」と終始ご機嫌の少女がいた。だが灰色の髪に猫耳・猫尻尾という目立つ外見の彼女には誰も注意を向けていなかった。妖怪恐るべし。
家についた俺は、買ってきたものを部屋に置くと、少女がかなりソワソワしていることに気付いた。そういえば家につく少し前くらいからやけにおとなしかったような。
「なんかさっきからソワソワしているみたいだが……」
俺が問いかけると、少女は恥ずかしそうに、うつむいたまま、
「おしっこ、したい、かも、すごく」
と、俺に言葉の爆弾を投じたのだった。
そういえば昨日から一度もトイレに行っていなかったな、彼女……。
「トイレの使い方は、分かるか?」
「分からない」
即答だった。
猫でもトイレを見られるのは恥ずかしがるということは知っている。着替える時に風呂場で着替えろと言った時には不思議そうにしていた少女も、一緒にトイレに入るのにためらいを見せた。もちろん俺だってかなり。しかし彼女の様子は相当ギリギリに見える。
仕方ない、さっと教えて、さっと撤退だ。俺は覚悟を決めて少女をトイレへと連れ込んだ。とりあえず座って用を足すことと拭くための紙があること、そして水の流し方を教えれば十分。俺は急いで教え、俺が後ろを向くとすぐ少女もあわてた様子で便座に座る。俺はすぐにトイレを出ようとしたが、
「ダメっ、早く出てっ。もうっ……、」
そう少女が言うと、控えめな水音が聞こえてきた。俺は聞こえなかったふりを、必死の思いでしながらトイレの戸を後ろ手に閉めた。トイレから出てきた後、少女はしばらく口を聞いてくれなかった。
結局、布団を取りに行くときに少女はついてこなかった。
俺は一人さびしく布団を取りに向かっていた。一人さびしくなんて表現が自然と出てくるなんて不思議だな、などと取り留めのないことを考えたりしながら。
一人になって少し考える余裕が出たからか、俺はあることに気付いた。そういえばまだ少女の名前を聞いていなかった。帰ったら聞いてみよう。
スーパーで布団を受け取ってから、俺は少女のご機嫌取りのためにツナマヨのおにぎりとシャケのおにぎり、それから自分用のものをいくつか見繕ってスーパーを後にした。
家に帰ると、少女はベッドの上でふてくされていた。そこで俺は、お詫びの品としておにぎりを献上した。少女の機嫌は少しだけ回復した。
時間は十二時を少し過ぎたくらいで、昼食を摂るにはいい時間だろう。俺も一緒に食べることにして袋からおかかのおにぎりを取り出した。
昼食も終わって、一息ついた頃。少女の機嫌も大分直って、ベッドの上でうつ伏せに、俺の枕を抱きしめながら足をパタパタさせている。
少女は何故かさっき買ってきた服ではなく、俺が部屋着にしている紺色のTシャツと、揃いのハーフパンツを着用している。だが今度は下着もちゃんと着けているので安心だ。
少女の機嫌は最高潮に達したのか、「フンフフーン、ミケのミーはみけねこのミー」だなんて調子っぱずれの鼻歌まで口ずさんでいる。
そんな少女をぼーっと眺めていると向こうも気付いたようで、彼女は鼻歌を中断してからニッコリ笑顔で話しかけてきた。
「ミケ、どうしたの?」
その問いを受け、俺は少女に聞きそびれていたことを尋ねることにした。
「そういえばまだ聞いてなかったけど、君の名前は?」
* * * * *
途方に暮れる俺、リターンズ。少女の名前を考えろと。この俺に?
俺は名前を考えるのが苦手だ。主人公の名前を決めることができるゲームなどでは、丸一日かけて悩んで、ようやっと決めた名前を姉に見られてそんなに笑うかというほどに大爆笑されたほどだ。
しかもその後、姉は母まで連れてきて、二人でひとしきり笑い者にしやがった。姉が部屋を去ったあと、何故か真剣な顔の母が残っていて。疑問に思った俺は母に問うと、「もし子供ができて名前を考えることになったら、奥さんか私たちに任せなさい」と本気の目で言われてしまった。
あの出来事以来、俺はゲームではデフォルトで入っている名前しか付けないと心に誓った。あのとき俺がどんな名前を付けたのかだけは、絶対に、言いたくない。
そんな俺だぞ。この娘は本気で俺に命名権をゆだねているのか。命名権と言えば企業が高い金払ってまで欲しがるようなものだぞ。それをタダで俺にだなんて。
という具合に、大分取り乱してアホなことに思考が飛んでいた俺は、つい、勢いで口走っていた。最初に見たときから、俺が、あくまで暫定的に、心の中で呼んでいた、その名前を。
「じゃあネコ美さんで」
…………。あれ、ヤバイ。あの娘さっきから何も言ってくれないぞ。ずっとうつむいたままでダンマリ決め込んでやがる。ひょっとして怒っちゃってたり、なんてことないよな。
恐る恐る少女のことを見ていると、少女は口の中で何かを確認するように呟いていた。
呪いの言葉かも知れない。そう思った俺はすぐにでも謝れるように準備をして、
「……ネコ美。ネコ美、さん。ふふ。ネコ美さん」
と少女が呟いていることに気付いた。しかもちょっと嬉しげに。あ、あれ。これは案外気に入ってらっしゃるご様子か?
ネーミングに関してトラウマのある俺は、にわかには信じられなくて。少女が静かに怒りを噛みしめている可能性を考慮した瞬間、トイレの一件を思い出した。あのことから考えるに、この娘は子供の様に分かりやすい感情表現をするはずだ。
これは、もしかして、俺のネーミングが世に受け入れられたのか。もしかして時代が追い付いていなかっただけなのか、この俺のあまりの速さに……。結局、俺はまだ取り乱していたのだった。
そんな俺に、少女は満面の笑みを咲かせて、
「ありがとう、かわいいね。ネコ美さん、フフッ」
と、感謝の言葉をくれた。それに対して俺は、
「……どういたしまして」
と言うので精一杯だった。
ただ俺の心の中では、この名前は『ネコ美(仮)』で、まだ正式ではない。いつかもっといい名前が思いついたらそっちの名前を付けてあげよう。と、そんなどうにも無理そうなことを考えていたのだった。