第一話 ネコ美さん現る
俺は途方に暮れていた。
目の前には幸せそうな、安心しきった寝顔を浮かべる美しい少女。
あまりに無防備な寝姿。着崩れたぶかぶかのTシャツ、そこから覗く女性特有のふくらみは、男の目を引き付けてやまない美しい谷間をつくりだしている。
その少女はなぜか男物の、トランクスタイプの下着を身に着けており、上にTシャツしか着ていないものだから思いっきり見えてしまっている。
最初はきちんとかけられていたであろう、肌触りのよさそうなタオルケットも大切そうに抱えられているため、少女のしどけない姿を隠すことはできない。
すると、突然少女は身じろぎするようにして俺の方を向いた。
しばらくの間、とても印象的な、深みのある灰青の瞳で、俺のことを見つめていた。
「……おはよぉ、ミケ。やっぱ、おやすみ、ミケ」
そう言って、少女は再び眠りについてしまった。
「…………」
こちらが起こしでもしなければ、きっと少女は目を覚まさないだろう。
男の部屋で二人きり。
それも今日、初めて会ったばかりの。
そんな状況であまりにも無警戒に少女は眠りについている。
薄い灰色の短い体毛に覆われた、ツンとすました猫の耳をヒクヒクさせて。
細くて長い、優雅な尻尾を時折思い出したように動かしたりして。
俺はやっぱり、途方に暮れているのだった。
* * * * *
俺の住む町は『猫の町』と呼ばれている。
ある猫好きの集団が『猫好きの、猫好きによる、猫好きのための、そして何より猫たちのための町』を目指して設計した町だ。
そのため、町の外から猫を捨てに来る不届き者が後を絶たない。
そんな捨て猫たちを救うために、町の創設者たちはあるシステムを作った。
厳正な審査を通り抜け、この町の居住権を得た住民たちにはいくつかの義務が課せられる。その一つに、捨て猫を見つけた場合、住民全員に貸与される特殊な携帯端末を用いてその猫の生態データをスキャンし、町のデータベースに登録しなければならないというものがある。こうして登録された猫は、まず『猫の里』と呼ばれる飼育施設で食住不自由のない生活を送ることになる。
施設の猫たちは最低限の教育と予防接種を受けたら、この町の公式ホームページにある里親募集リストに掲載される。里親の希望者は適正審査後に抽選で決められる。
そうした事情から、持ち込まれる捨て猫の数自体は多いのに、野良猫なんてものはまず見ることはない。
そんな野良猫でさえ珍しいこの町で、よその町でも珍しいであろう、
行き倒れの野良猫耳少女に出会った。
「……大丈夫か?」
俺は恐る恐る、その少女に声をかけた。
薄い灰色でセミロングの髪。絹のように艶のある、癖のないストレート・ヘア。その髪と同色の体毛に覆われた猫耳と尻尾は、どこかぐったりしている。
声をかけられてから初めて俺の存在に気づいたように、少女は俺に目を向けた。
吸い込まれるような魔力を秘めた、透き通った、深い灰青の瞳だった。
「ん、大丈夫。少しおなか、空いてるだけ」
俺の持っているコンビニの袋をチラチラと伺いながら、少女はそう答えた。
「おにぎりならあるけど、食うか?」
俺が袋を掲げてみせると、
「ありがと。――それ、何味と何味があるの? シャケ? ツナマヨ?」
シャケとツナマヨが好きなのか。猫娘と言えばおかかのイメージだったんだが。猫まんま的な意味で。
「シャケならある。――ツナマヨは俺が苦手だからないが……」
「シャケっ」
食い気味に叫んでから、少女はレジ袋を奪い取った。そして俺の夜食になるはずだったおにぎりは、あっという間になくなってしまった。それも、もう一つ買ってあったおかかの方までしっかりと。
「落ち着いたか?」
結局、俺は再びコンビニに行って、俺用のおにぎりと、少女のためにツナマヨおにぎりと紙パックの牛乳を買ってきた。おにぎりを食べ終わり、少女は牛乳を飲んでいる。
「ん、落ち着いた。おなかいっぱい。元気も、いっぱい」
その言葉のとおり、さっきまでぐったりしていた猫耳と尻尾も今は元気いっぱいだ。
ピコピコ動く猫耳に、楽しげに揺れる尻尾。どこか落ち着いた雰囲気の少女を幼く見せる、魔法のパーツだ。すました顔をしているが、自分の一部であるはずのそれらに完全に裏切られている。
話を切り出すにはいいタイミングかも知れない。というか今しかない。
「とりあえず聞きたいんだが、君は一体何者なんだ?」
俺は疑問に思っていたことの中で、最も気になっていた、その質問を投げかけた。
少女は、ためらい気味に問いかけた俺を見て、不思議そうに小首をかしげた。
「妖怪。捨て猫の」
その答えはとてもシンプルだった。
「妖怪? 捨て猫の?」
「そう」
――これではあまりにも要領を得ない。
「……もうちょっと詳しく教えてくれないか?」
少女のことを聞き出すべく俺は再び問いかけたのだった。
少女から情報を引き出すにはコツ、あるいは忍耐が必要だった。「もうちょっと詳しく」だの「一体何者か」だのといった曖昧な聞き方では、彼女が『捨て猫の妖怪』である、という情報以外は得られなかった。
そこで俺は、質問を具体化していくことにした。
「捨て猫の妖怪っていうのは分かった。で、それは何をする妖怪なんだ?」
「おなか空いたら、ご飯食べる。眠くなったら、寝る」
「…………」
随分と即物的な妖怪だった。
「他には何かないのか? 行燈の油を舐めるとか、相撲を取りたがるとか、」
「行燈? 相撲?」
「いや、何でもない」
おかかが特別好きでもなければ、行燈の油も舐めない。相撲も取りたがらない。本物の猫耳妖怪は、俺のイメージするそれとは随分違っているようだ。
「じゃあもう一つ聞くが、どうして行き倒れてたんだ?」
「行き倒れてない。おなかが空いたから横になってただけ」
少女は少し不満げに頬をふくらませ、鼻息荒く反論してから、
「わたしは最近妖怪になったばっかり。だから猫に化けられない」
そんな、見当違いに思える解答をした。
――それは紛うことなき行き倒れなのでは、という疑問はさておいて、俺はもう一方の疑問をぶつけることにした。
「その姿だとなんか不都合でもあるのか?」
「猫に化けられないと、ご飯もらえない。このままだと見えるけど気づいてもらえないのがふつう」
少女は不思議そうに、その灰青の瞳で、俺のことをじっと見つめながら答えた。
あの綺麗な色をした瞳で見つめられると、なんとなく落ち着かなくなるな。ひどくそわそわするというか。
先の少女の解答によって、別の疑問も解消された。
「見えるけど気づかない」というのは「存在が極端に希薄に感じられる」というようなことだろう。いくら深夜で人通りが少ないとはいっても、こんなに目立つ容姿をした少女に誰も気づかないはずがない。
灰色の髪に猫耳、猫尻尾。それだけでも随分目立つのに、少女は膝上丈のワンピースしか身に着けていなかった。少女の柔らかな二つのふくらみを拘束するものは何もない。自由だ。つまり、ノー、ブラジャー(ネイティヴ風味に)。
そして、おそらくは、下も……。
意識しないようにしていたのに、一度その無防備に過ぎる恰好が気になり出すと、もう駄目だった。俺が一人勝手にテンパっていると、今度は少女の方から声をかけてきた。
「さっきから私ばっかり質問されてる。今度はわたしの番」
そう言って少女は俺の方へ身を乗り出すと、
「あなたの名前、教えて?」
と、そんな質問を投げかけてきた。
少女が身を乗り出してきたことによってシャツの襟元から見えてはいけないものが見えてしまいそうだったのだが、俺は少女の胸元から水泳選手もかくやというような速度で虚空へと視線を泳がせた。おそらく高校の地区大会くらいならば優勝していただろう(意味不明)。
しかし俺も今年で二十歳、立派な成人男性だ。それらの内心の動揺をすぐさま取り繕い、今年で二十年の付き合いになる自分の名前を答えた。
「きじミケ、……雉伊三輝だ」
――思いっきり噛んでしまった。童貞、もとい当然のごとく全く取り繕えていなかったのである。
「ミキ? ミケ? ……ミケの方がかわいいし、ミケでいい?」
「三輝だ」
「ん、ミケ」
「……ミケでいいよ」
「んっ、ミケっ!」
少女は嬉しそうに頷きながら、俺のことをそう、呼んだのだった。
* * * * *
相変わらず、俺は途方に暮れていた。
あの後、俺は「これからどうするのか」と尋ね、少女は即座に「ミケのうちに行きたい」と主張してきた。俺は「一人暮らしの男の家に来るのはマズい」という旨を伝えたが、少女は首を傾げて「どうして?」と一言。「俺が困るから」「自制心に不安がある」等々の理由は、俺には言えなかった。
それに、普通は少女に気が付かないとはいっても、俺のように気付く人間だっているかも知れない。そいつが善人とは限らないわけで、このまま少女を放り出すという選択肢を選ぶことはできなかった。
結局、状況に流されるしかなかった俺は、少女を自宅へと連れて帰ることになった。
少女の着ていたワンピースは、路上に寝そべっていたせいで盛大に汚れていた。
それを洗うのと、少女自身の汚れを落とすため、俺はシャワーを浴びるように言った。シャワーの使い方を知らなかった少女に、俺は使い方を教えるはめになった。
少女の理解力がそれなりにあったおかげで、俺が、少女を、全身くまなく洗ってあげるという展開にはならずに済んだ。少し残念だな、とは思っていない。決してだ。神には誓わない。
あらかじめ準備しておいた服に着替えさせると、少女はすぐに眠ってしまった。
よりにもよって俺のベッドで。
何をしても起きそうになかったので、仕方なく、足元にあったタオルケットをかけてやった。
少女からは、俺が使っているシャンプーと同じ匂いがして。そこに俺の匂いも混じっていて。それは何故だか不思議なことに思えた。
そして、今、少女が二度寝から覚める気配はない。
ふと、小さな灯りしかつけていないのに少女の寝顔がよく見えていることに気付いた。
まだ朝と呼ぶには気が早い時間だが、もうすぐ八月も半ばになろうかというこの季節。外は明るさを増し、少女の姿をはっきりと浮かび上がらせていた。
俺は眠気を自覚すると、ベッドに寄りかかって座った姿勢のまま、気絶するように眠りに落ちた。
最後までお付き合いありがとうございました! 二話以降も執筆していきますので、興味を持ってくださった方は、よろしくお願いします。ご意見・感想等ございましたらお気軽にどうぞ。