宮沢賢治あるいは異界からの伝道者
宮沢賢治に「くもとなめくじと狸」という少々怖いお話があるのをご存知だろうか?
ここには当時は許されただろうが、今は差別用語として許しがたい表現もあるので、
そのまま引用するのは差し控えるが、
地獄行きのレースをするこの呪われた三人の短い人生がおぞましくつづられているのである。
あの、ユートピアニストの賢治からは想像もできない、
いわばホラ-小説のような陰惨な世界がここにはあるのである。
くももなめくじもたぬきも
平気で獲物を殺し食ってしまうし、無慈悲に殺して何の罪の意識もまったくない。
機械的に残忍に殺す様子が面々とつづられる。
これは果たして子供に読ませていいものかと考えざるを得ないほど、はっきり異って残忍だ。
「土神と狐」という作品では、
なんと嫉妬に我を忘れた土神が狐の体をねじって投げつけ、容赦なく踏みつけて殺すのである。
これは果たして童話なのか。
其れとも異常なストーカーまがいの犯罪小説なのか?
宮沢賢治を、甘ったるい人畜無害な童話作家とおもっていないだろうか?
とんでもないことだ。彼は人間心理の怖いところもしっかりみつめているのだ。
人間の心の中には天使も居れば悪魔も居る。
まるっきり善人も居ないし丸っきりの悪人もいない。
というか、人はそのときそのときで悪魔にもなれば天使にもなる
人間深層心理の闇は深い。
グスコーブドリの伝記ではブドリは
火山の噴火をとめるために、自ら噴火口に飛び込んでしまうのである。
死を持って衆生を救う。
それはまさに捨身飼虎のジャータカ譚に発するものであるが
釈迦の過去世の功徳譚の集大成である。
そのように仏陀は過去生で幾多の功徳を施してからこそ、
仏陀(覚者)になり得たわけである。
さらにはこの衆生救済を前面に押し出した教団が成立した、
インドで6世紀ごろといわれている。
その教団の教理の集大成が「法華経」である。
正しくは「妙法蓮華経」
この経について語りだしたら、きりはない。
それがのちのち、日蓮の心を捉えた。
法華経の行者日蓮と自称したくらいだからそのほれ込み方は尋常ではなかったろう。
宮沢賢治も青年期に法華経とめぐり合い、
後に、「私の一生はこの経典を広めるためだったのです」とまで言わしめている。
法華経の教理を要約すれば、
菩薩行である。
衆生救済である。
自分ひとり悟ってもダメ。
衆生が救われない限り、アラハン、どっかつ、観音、ボーディサッタの救済もない。
これが法華経である。
であるから、日蓮宗は常に社会への働きかけを重視する仏教教団もない。
今に至るまで、政治に対して関わろうとするのはそれがタメである。
鎌倉幕府に直訴した日蓮である。
今も、政治団体といえば日蓮系と決まっているのを見ても明らかだろう。
宮沢賢治も「まず社会が救済されなければ個人の幸福もない」と断言する。
個人救済より衆生の救済が優先される。
それが捨身飼虎である。
ジャータカ譚に
こんなお話がある。
兎狐虎が3匹いた。
そこへおしゃかさまがきた。
3匹は何とかお釈迦様をもてなそうと
虎は、森に行って獲物を捕まえてきてささげた。
狐は森に行って、木の実を拾ってきた。
しかし兎は森に行っても何も得られなかった。
兎はお釈迦様にこういった。
「私はななにもありませんでした。ですからこの私をドウゾ食べて下さい」というが焚き火の中に
身を投げたのであった。
お釈迦様はそれを見て直ちに兎を神の列に列したのであった。
というお話である。
一身を捨てて尽くす。
まるでどこかの国の忠君愛国のような。
だが本來これはそうではなかったはずだ。
この教えは形を捨てろということだ。
銀河鉄道の夜にある。
ジョバンニは死後の旅立ちに行く。
そこで冥府はよみがえりのたびでもあるという
アレゴリーが繰り返されるのである。