09
血溜りの中、倒れ伏すハセの手当てを部下に託し、周辺の安全確保を最優先として動き出したジラフと自警団の面々は、燃え残った住居の壁面の影に潜む二つの影を取り囲むように、静かに、しかし素早く移動する。
ジラフがこの場も先頭に立ち、死角となっている壁面へと踏み出したその瞬間、小型のナイフがジラフの右腕へと向け飛来する。
月明かりのみと視覚不良ではあっても、この程度の不意打ちに普段のジラフであれば重心を移動するのみで易々と回避出来るはずであったが、投げ込まれたナイフはジラフの右腕に突き刺さる。
「ジラフ!」
「クッ、大丈夫だ」
長い黒髪を結った自警団の女団員のスクが、ジラフの油断による負傷に怒気を込めて叫ぶ。
その怒気を声色に感じたジラフだったが、攻撃を仕掛ける影を仕留める事を優先するよう返す。
ナイフを投げた影は狭い通路を疾走し、自警団に包囲される前に、未だ火の勢いが大きい住居郡の方へと逃走を開始する。
ジラフや自警団の面々が、死角となる場所へと到達するも、数秒前まで影が潜伏していたであろう場所には誰も居らず、血痕の痕だけが残っていた。
右腕に突き刺さったナイフを引き抜き、ジラフは左腕をやや掲げ自警団へと指示を出す。
一つ目の角を左へと進め、自身とスクは敵の逃走ルートを予想し先回りするという指示を手早くハンドサインで出す。
利き腕である左腕は無傷であり、突き刺さったナイフにも即効性の毒物は付加されていないと判断したジラフは、踵を返し走り始める。
スクもすぐにジラフに追従し、住居区画を逃走する敵影を殺害するために両手のセスタスを握り締める。
追撃態勢に移行してから数十秒後、ジラフとスクとは違い狭い通路内を三名で追走し続ける自警団の一人が甲高い笛の音を短く、継続的に鳴らし始める。
笛の音を聞いたジラフとスクは敵影の予想逃走ルートを修正しつつ、進むべき地点を変更する。
この笛の音は離れた味方へ、敵の方角、距離を報せるべく鳴らされたものであり、リズムや音の大小により味方は直ちに送信者の意図を把握出来るよう開発されたものであった。
考案したのは奇しくも血溜まりに横たわったていたハセであり、考案者の彼が周囲、主にジラフの反対を無視して名付けた『ハセの黄昏』という名が笛に刻印され、自警団、狩人、非戦闘員である農夫や職人の一部に配布されていた。
ジラフ、スクとは別に追跡する自警団の三名は数分の追跡により、逃走する影の二つの背を捉える。
想定していた影の正体はタクロスであったが、その二つの背は馬族のそれではなく、一見人族に思えた後姿には兎族の特徴的な白く丸い尾が臀部に付いていた。
この事実に驚きはしたものの、自警団の三名は追撃の手を緩めることはせず、狭い通路内を執拗に追跡し続ける。
入り組んだ住居区画内の通路をしばらく逃走した兎族の二つの影は、やや開けた幅の広い直線が続く通路へと出た所で、悲鳴にも似た声を発する。
「前!」
「くっ、挟まれたか……」
兎族の女と思われる高い声が発せられ、開けた直線となる通りに現れた人族の男女、ジラフとスクが地面を蹴り上げ一気に距離を詰める。
「ま、待った! わた……」
兎族の特徴である大きな耳に包帯を巻き、背のやや高い者が、両手を胸の前に出し敵意が無い事を示そうとしたが、ジラフの有無を言わさぬ殺気を感じ取り、腰に提げた細く鋭い細剣を抜き放つ。
細剣を抜き放った兎族とは違い、小柄な兎族の者は後方から迫り来る自警団の方へと振り向き、腰に提げたナイフを取り出し構える。
後方から迫る自警団の三名は各々が暗器を手に攻撃を仕掛けようとするも、身構える小柄な兎族に一切の隙が無い事に警戒の色を強め、一定の距離を保つために足を止める。
その間にジラフは背の高い兎族へと向け両手の林檎の装飾がされた指輪に仕込まれた暗器を、月明かりに映える兎族の透き通るような白い肌へと突き立てるべく、細剣の殺気の篭らぬ剣線を回避し、隙を伺い続ける。
スクは自身の気配を完全に消し、ジラフの影となり両手に握り締めたセスタスを最良のタイミングで打ち込むべく細剣を振る兎族の瞳を凝視する。
ジラフ自身が右腕を負傷しているとはいえ、ニ対五。この数の不利に加え、包囲された状況下で数秒間、命を繋ぎ止め続ける兎族の二名の力量を冷静になりつつあるジラフの思考に刺激を与え、攻撃の手を止めさせた。
「兎族の者が何故ここに居るんですか?」
「はぁ、はぁ、わ、私達はただの通り掛かりの旅人なんだ」
「そうだ! 人族が発行する通行許可証も持ってるよ!」
完全に構えは解かぬままではあったが、ジラフを含め自警団の全員が体の力をやや緩め、攻撃の手を止める。
「では、何故火災現場に居たのか。何故、我々に対して攻撃を仕掛けてきたんですか?」
「この村の近くの森にて夜営をしようとしていた所、煙の匂いに気付き様子を伺いに来たんだ。そしたら・・・…人族と馬族とが争っているのを目撃して、最初は介入するつもりは無かったが……倒れ伏す男を放っておけなかった。君達へ攻撃したのは新たに現れた馬族かと間違えたんだ……すまない」
「……。模範解答をする場合は、嘘を最小にすべきでしたね」
ジラフの瞳には経験と知識によって裏打ちされた老練な色が濃く出ており、対象の主張する言葉を聞きつつも、手や目の動き、表情の観察に加え、情勢や各種族が持つ行動原理などを加味して分析していた。
ジラフの指摘、兎族が主張する言葉に虚偽がある事を自警団の者達は理解出来なかったが、ジラフの言葉を信じるべき状況を誰もが理解していた。
瞬時に苦渋の表情を浮かべた小柄な兎族はナイフを強く握り締め、自身の先の短い未来を想像する。
「……すまない。私の言葉に嘘がある事は認める。だが、敵意が無い事は信じて欲しい」
「では代償を」
「な、なんだ?」
「武装を解除し、投降して下さい」
「ユキ…良いか?」
「うん、この人族達かなりの力量だよ。私達じゃ勝てない」
「投降する」
細剣と掌大の小型の投擲用ナイフを背の高い女の兎族が地面へと投げ捨てる。
小柄でユキと呼ばれた同じく女の兎族も手に握るナイフ、腰の後ろに提げられた小型のナイフを地面へと投げる。
それを見届けたジラフは更に隠し持つ武器の有無を確かめるための身体検査を、同姓であるスクに託し、男性の自警団の面々に向けて告げる。
「ラップは一足先に村長宅へと向かい、消火活動に従事するための人員を集め移動させてくれ。狩人さん達からも支援が可能であれば人員を借りるように。スクとルーデル、ダンは兎族の捕虜を村長宅へと移送後、ラップに合流してくれ」
「……」
この場に居る自警団の三名の男が無言で頷き、身体検査をしながらもスクも指示をしっかりと聞き、了承の意を目線で伝える。
ラップという自警団の細身の男がすぐに踵を返して狭い通路を疾走し、村長宅へと向かう。
スクはしばらくして兎族の身体検査を終え、捕縛用の自警団の制服にも使用されている繊維で編まれたロープで兎族の大小二人の捕虜を後ろ手にし手首をきつく縛り、移送を開始する。
その場に残ったジラフは敵性の残党を捜索をしつつ、血溜りに伏すハセの様子を見に行く為に移動する。
足取りは重く、負傷した右腕に止血用の包帯を自身で巻いた姿は、戦いに敗れた者のように映る。
ハセの単独行動を咎めようと思えば、ジラフには出来たという後悔の念がどうしても心の片隅に有り、ハセの倒れ伏す姿を見た瞬間から、自身を責めずにはいられなかった。
数分、漂うように歩き続けたジラフは、先程と変わらず血溜りの中で倒れ伏すハセの許で跪き、既に彼が息を引き取っている事を知る。
「ジラフ……俺達が手当てを開始した時にはもう……」
「……そうか、遺体を運んでくれ、丁重にな」
「……わかった」
ジラフはハセの遺体が部下の手で丁重に運ばれていく光景を眺め、首を左右に振り何かを探し始める。
ゆっくりとした歩みでタクロスの死体がある道を辿り、ハセの愛虫である騎乗虫の甲虫を発見する。
甲虫は手綱を住居の格子に繋がれたままであり、放置しておけば火災から逃れられぬ可能性も高く、ジラフは手綱を外し、甲虫を引き安全な通りまで誘導する。
普段はハセの姿が周囲に見えない場合、他者が近づくだけで硬質な背の羽を鳴らし威嚇をする甲虫も、ジラフによって手綱を大人しく引かれていた。
甲虫の目から表情は読み取れないが、その歩行する姿はどこか背に乗せるべき主人の死を知覚し、悲しみを宿しているようにジラフには見えた。
開けた場所であり、村長宅から住居区画へ続く道の入り口でジラフは甲虫の手綱を手に自警団や消火活動をするよう派遣されてくるはずの村人達の到着を待ち続けた。
一足先に村長宅へと到着した自警団のラップは村長に手短に住居区画での出来事を報告し、既に編成されていた、主に農夫達を引き連れ住居区画へと急ぐ。
道中、狩人達をゲッタの代理として取り纏めている青年に支援を依頼するも、未だ伏兵の存在を発見出来ていない事があったため、狩人達の助力は得られなかった。
その理由は、ハセの報告では少なくともあと三名以上、最悪の場合は二十名程の敵が潜伏している可能性が有り、狩人達も策敵範囲を拡げ、支援に人員を割く余裕が無かったためである。
ラップや消火活動に向かうグループと入れ違うように自警団のスク達によって兎族が村長宅へと移送され、捕虜の管理をするセイへと引き渡される。スク達はすぐに消火活動を指揮するラップの後を追うため引き返し、住居区画へと向かう道中、自警団の制服を掛けられた遺体を運ぶ二人の同僚と顔を合わせる。
「……ハセさん、亡くなられたのか?」
「ああ、既にジラフにも報告したが……俺達が手当てをしようとした時には…もう亡くなっていた」
「そうか…」
「……」
主に青年と思われる若き自警団の者達が一人の壮年の自警団の遺体を囲み、短く言葉を交わす。
そこには少女とも言えるスクの姿もあったが、彼女は無言のまま俯き、ハセの姿を見る事は無かった。
ハセの遺体はそのまま村長宅へと丁重に運び込まれ、敵の襲来にも平然としていた村人、特に壮年以上の者達の顔を引き攣らせた。
顔を引き攣らせた者達の多くは、ハセの死は共同体としての村の要を失った事への危機感が起因では無く、純粋に心の宿る悲しみを嘆き事を表に出さぬようにした事に起因していた。
しかし、誰もが悲しみを堪えると同時にその喪失を埋める事が出来る人物を、脳内で探るが誰一人その答えを見つける事が出来ないままであった。
この考えは村長や捕虜の管理を統括する現在病気療養中のアンも同じであり、村長はジラフと同様、ハセの単独行動を許した自分を許せない思いが芽生え、自責の念で苦しむ事となっていた。
バルコニーで村長の横に座るアンも幼い頃から全てを背負う事の多すぎる村長の姿を見やり、溜息を小さくつく。
「ドラガよ、ハセの死を軽く考えるなとは言わぬが、お主が苦渋を浮かべては若き者達は死を受け入れる事がより困難になるじゃろうて」
「わかっておる。皆の前ではこのような顔は見せぬよ……」
「病人の私にも見せるでないわ」
村長の落胆を理解出来ない老婆のアンでは無かった。
ゲッタやジラフとは違い、突出した才は有していなかったハセを共同体に不可欠な存在として重用していた村長であり、幼馴染のドラガの考えをアンも知っていた。
だが、死を受け入れる事が出来ぬ共同体の長が不要である事をアンは指摘した。
指摘するアンの頬に涙の痕があった事を村長であるドラガも知っていたが、言及する事は無かった。