26話 「始まりの日」
ランフェイは、少し距離を置いて追尾するワンボックスカーの中からバスを注視している。しかしその行き先は既にわかっていた。なぜなら、彼女らの尾行は、今日に始まったものではなく、もう1週間近くも休まず続けられていたからである。
バスは、予定通りのコースをたどり、予定通りに乗客を降ろした。尾行していたワンボックスカーは、バスの少し先で止まり、さっと扉が開かれる。同時に、中からランフェイが音もなく飛び出す。周囲の人からは、ただ急いで降りてきた人にしか見えないだろう。
ランフェイは、ターゲットがバスを降りた後、さらに電車に乗り、駅から歩いて戻るまでの長い間、人混みに紛れながら、そのまま後を付けた。そしてターゲットが最終的に自室に戻ったことを確認すると、目立たない位置に停車していたワンボックスカーに戻っていった。その後、次に尾行が始まるまでの間、ランフェイは、上司である男と交代で見張りを続ける。
時々、不定期に交代要員が来て、少しの間休息する時間を与えられることもあるが、基本的に、ランフェイはこの一週間ほど、ワンボックスカーの中で男と二人で暮らしていた。しかし、息詰まる緊張感はあっても、色恋沙汰につながるような雰囲気は何一つなかった。
「さきほど、実行部隊から連絡があった。決行は明後日だ」
「はっ」
「襲撃任務でないからといって、気を抜くな」
「はっ、気を抜きません」
このような命令と確認のやりとりだけが、ランフェイと男との唯一の会話だ。そして息詰まるような長い長い沈黙が今夜も続くのだった。
――それから、二日後……
今日は、新築された高校の寮へ、寮生達が入寮する始まりの日である。ただ寮の建物はまだ完全には完成しておらず、外壁には建築用の足場が組まれたままだ。しかし、モニカ達がずっとホテル暮らしをしていることを学校側は問題視していた。だから、高校生としての健全な生活の場を提供するため、とりあえず住める状態にして、寮生を受け入れることになった。
しかし、古い寮の方で暮らしていた生徒は全員が夏休みの間、地方にある実家に帰省していて、今日すぐに入寮してくるのは、モニカ達だけである。そして、その中にはなぜか準も入っている。
準は、大阪から東京に家族で引っ越してきていたが、父がまた転勤になった。こういう場合、普通は単身赴任となることが多いが、どういうわけか、ラブラブなのか、母親が父親にくっついて転勤先に転居することになり、一人で東京に残ることになった。準はそう説明した。
しかし、慶次は、準の言葉に疑いを持っていた。父親が転勤するというのも、母親がそれについていくというのも、恐らく嘘ではないのだろう。しかし、それは寮に入りたい準がそうしてくれ、と頼み込んだからではないのか。慶次はそう推理していた。
そして、慶次自身は、寮には何の関係もないが、入寮者全員が関係者なので、必然的に、荷物運びのお手伝いさんとして呼び付けられたのだった。
「おい、準。お前、完全に引っ越しだなぁ」
慶次は、小さな引っ越し用のトラックの助手席から降りてきた準に向かって、あきれ顔で言う。
「いや、なんか荷物が多すぎて、手では持てへんかったんや」
「それにしても、そんなにたくさんの荷物が部屋に入るのかよ?」
慶次は、引っ越し業者の人が机やら本棚やらを、荷台から取り出して並べていくのを見ながら尋ねる。
「ちゃんと調べたから入るで。 ただ俺が入らんかも、な……」
「お前の部屋は倉庫か!」
慶次が準とぐだぐだ話していると、ドミニクが大きなカバンを二つ抱えてやって来た。
「やあやあ、お二人さん」
「よお、ドミニク。荷物少ないなぁ!?」
「僕の実家には、色々とあるんだけどね」
ドミニクは、山のような準の荷物を見てにやにやしている。
「今日から、よ、よろしく、ド、ドミニク!」
準は、はたから見てもかわいそうなほど、緊張でどもりながらドミニクに挨拶する。ドミニクは、明らかに舞い上がっている準のことは、全く気にしていない様子で挨拶を返した。
「今日から、一つ屋根の下だけど、よろしく!」
「ひ、ひとつ、屋根の下……」
準のテンションがまた上がったようだったが、ドミニクは非常に挙動不審な準を、そういうものだと思っているようで、特に気にも留めず、慶次に話を振る。
「慶次も一緒に住めばいいのに」
「いや、俺は家から通えるからさ。しかしまあ、楽しそうだよなぁ」
慶次は、一昨日のプールでの楽しかった出来事を思い返しながら、少しうらやましそうに答える。
「あら、慶次も来ちゃえばいいじゃないの」
モニカが慶次の後ろから突然声をかけてきた。モニカは、ドミニクよりもさらに荷物が少なく、小さな手提げバッグが一つだけだ。
「おう、モニカ、しかし、荷物少ないなぁ!?」
「もちろん、色々新しく買ったから、後で業者が届けに来るわよ?」
「全部新品を買ったのかよ?!」
「そりゃそうよ。家具とか、イタリアから空輸する方が高く付くわよ?」
モニカには、イタリアから空輸するか、全部新品を購入するか、の選択肢しかないようだ。モニカはいつも高価な装飾品や服を身につけているわけではないが、家は金持ちのようで、宿泊していたホテルも最上階のスイートルームだったらしい。
「とりあえず、中に入りましょうよ」
「ああ、そうだな」
慶次は、うなずくと、未だに固まっている準をひっぱりながら、建物の中に入っていった。
建物の中は、真新しい設備でそれなりに充実してはいたが、建物自体が小さいため、小さな玄関にはちょっと大きめの下駄箱があるだけだ。食堂も、定員の20人がなんとか着席できる程度の大きなテーブルが1つあるだけの簡素な感じだ。
慶次がキョロキョロしていると、さっそくモニカの荷物を配送してきた業者が来て、玄関で応対したモニカに荷物を置いていった。
「ほら、来たわよ」
「え?」
「私の部屋は二階だからね」
「それで? って聞いていい?」
「わかってるなら、さっさと運ぶ!」
「へい、へい」
慶次は、ぶつくさ言いながら、玄関に置かれている大きな箱を前に担ぐと、階段を一段ずつ登り始めた。その箱の中身は、本棚を組み立てるための板などで、結構重かったが、慶次が担げないほどの重さではない。
なんとか階段を上がると、下の方から、201号室よ、とモニカの声が聞こえた。慶次は、目の前の205号室から、廊下の反対側にある201号室まで、重い荷物を運んでいった。扉の前に荷物を降ろすと、後ろから追いついてきたモニカが声をかけてくる。
「とりあえず、中まで入れて」
「へいへい」
モニカに促されて扉を開けると、中にはたくさんの箱が積まれている。整理には時間がかかりそうだ。慶次は、ぐるりと部屋を見回してスペースを見つけると、箱を置くため中に足を踏み入れた。
部屋の中は、生活感がなく、すごい散らかりようだったが、そこはかとなく花のようなふわっとした香りが立ちこめている。香水のような強い香りではなかったが、その香りは、慶次にここがモニカの部屋であることを強く意識させた。
「えっと、ここでいいかな?」
慶次は、あわただしく箱を置くと、ちょっと深呼吸したい衝動を抑えながら、さっさと部屋の外へ出ようとした。すると、モニカが扉の外枠に片手をあてて慶次の進路を塞ぎながら、誘うような口調で言う。
「あら、もうお帰りなの?」
「え? な、何かな?」
慶次は、いたずらっぽい顔のモニカが冗談口調で引き留めているのはわかっていたが、そのわざとらしい色っぽい声と仕草に少々クラっときていた。
「ほら、お部屋の中でもうちょっとやることがあるでしょ?」
「ん? ……あぁ、組み立て、ね」
わかってはいても、ちょっとがっかりしながら、慶次はモニカのために本棚を組み立ててあげるのだった。
モニカは、自分の部屋に慶次を呼んで話をしているのが楽しくてならなかった。女子の住む二階は、本当は男子禁制だが、手伝いが来ることは寮母には連絡してある。だから、今日だけは大目に見てもらえるだろう。
新しい生活が始まるこの日に、男子禁制の部屋に慶次を呼び付けて、くだらない話をする。そのことに、モニカは平穏な幸せを感じていた。
――ちょうどその頃、遠隔現実開発センターの一室で
「だれだ、お前らは!」
慶次の父、服部宗一郎博士は、研究室に突然乱入してきた黒覆面の一団に声を上げた。
すると驚いたことに、リーダと思われる大柄の男がその質問の答えを口にした。
その手に握られたサブマシンガンの銃口は、博士らに向けられている。
「我らは略奪者だ。 だが殺戮者ではない」
男は、すごみのある低い大きな声でさらに続けた。
「抵抗すれば殺す。 だが抵抗しなければ、危害は加えない」
「目的は、機械人形か?!」
「当然だ。 だが何かを教えてもらう必要はない。ただ黙って抵抗するな」
そのとき、遠くの方で拳銃を撃つ音が何度か聞こえ、サブマシンガンの連射音がした。すぐに、男の無線に連絡が入る。男は連絡に耳を傾けた後、中国語で何か指示を出してから、服部博士の方に再び顔を向けて言った。
「床に伏せろ、そして動くな」
部屋にいる服部博士と、その助手の大橋芹菜を含む多くの研究者達は、彼らの命令に従って床に伏せる。博士らが伏せながら男達の動きを見ていると、男達は、研究所のコンピュータに、持ってきた携帯型のコンピュータを繋いで、何かのプログラムを入力したようだ。すぐに、コンピュータの画面にグラフのようなものが出る。恐らく今は自動的にハッキングが行われていて、その終了時間がグラフで出ているのだろう。
ほんの数分の間に、途中で散発的な銃撃音が遠くに聞こえたが、あっという間に鎮圧されたようだ。男は再び無線で指示を出すと、携帯型コンピュータを素早く片付け、黙って部屋の外へ出て行った。
男が出て行くや否や、服部博士は立ち上がって電話機に飛びついた。しかし、回線が切断されているのか音がしない。そこで自分の携帯電話を取りだしかけてみるがそれも通じない。恐らく妨害電波だろう。
それでも繰り返しかけ直しながら、服部博士は、助手達にも部屋の外に出ないで電話をかけるように指示を出した。
――その少し前、人通りの多い繁華街で
「そのまま話を黙って聞け」
「えっ?!
」
真奈美は、黙っていろ、と言われたにもかかわらず、つい声を発した。真奈美の後ろには、帽子を目深にかぶった黒い服装の見知らぬ男女が立っている。女がさらに続けた。
「工藤真奈美だな。お前には危害を加えない。わかったら黙ってうなずけ」
真奈美は、大学の帰りにちょっと繁華街をぶらついていただけなので、何が何だかわからないまま、言われるがままにうなずく。
「しかし、誰かに助けを求めれば、回りの者を全員殺す」
真奈美は、反射的にうなずきながら、自分が大変なことに巻き込まれていることをやっと実感していた。男は、意味ありげにカバンの中に手を入れて、周囲の状況を注意深く窺っている。女が続けた。
「我々について来い。逃げようとすれば、回りの者を全員殺す。わかったらうなずけ」
真奈美は、走って逃げたい気持ちを必死に抑えながら、うなずいた。もしここで逃げても、彼らは誰も撃たないかもしれない。少なくとも、自分は撃たれないのだろう。
しかし、彼女を連れて行くために、彼らが銃を乱射することも十分にあり得る。楽しげなカップルや親子連れが近くを歩いている。彼らが殺されることなど絶対あってはならない。
「車が停めてある。あのワンボックスカーに乗り込め」
真奈美は、彼らの命令に素直に従うことにし、先回りした男が扉を開けたワンボックスカーの中へ乗り込んだ。真奈美の後ろから女が乗り込んで、素早く扉を閉める。男は、運転席へ移動してゆっくりと車を発進させた。
しばらくして男が女に中国語で言葉をかける。
「この女を直接脅した方がよかったのではないか?」
「はっ、脅してパニックにさせるより、この方が容易に従うものと判断しました」
「そうか、よい判断だ」
「はっ」
ランフェイは、真奈美の方に向き直ると、日本語で声をかける。
「わかっているとは思うが、機械人形について聞きたいことがある」
真奈美は黙ってうなずく。
「お前が軍人でないことはわかっている。 知っていることは素直に話した方がいいぞ」
ランフェイは、そう言いながら、真奈美に目隠しを持って近づいてきた。
「私がお前の世話係だ。 要求は私に言え。 ただし逃げれば回りの者を殺す」
「はい」
真奈美は短く答えた。目隠しをされながら、真奈美は、不思議と怒りを感じていなかった。女が落ち着いた態度で接していたからかもしれないが、直接危害は加えられないという、安心感を得られたことが大きかった。
車は、真奈美と、彼女を拉致した男女を乗せて、どこか知らない目的地へと向かっている。それは回りから見れば、普通のドライブとはなんら変わりはない。
真奈美は、ふと慶次らのことが心配になった。誰も怪我してなければいいけど、と真奈美は考えながら、だんだんと不安が大きくなっていくのを感じていた。
捕らわれた真奈美の苦難の日が始まった。




