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岬に立つ

作者: 木場 新

遥か、海原の先を見据える眼差し。

わたくしは、その瞳に宿る静かに優しい篝火を導と定めました。

フォマハルト王子の目は、芯からの強さをもって、絶えることなく継承するという意志を示していました。色に例えるならば、希望の曙、慈しみの東雲。そのように広がる、温かな暁光を想起させていたのです。

岬の突端に立ち、なにかを望んでいる王子。ただ、その姿を見守っているばかりのわたくしたち側近の者に、大いなる意志はまだ降りてきません。

強い風が、わたくしたち一行をこの岸壁から振り落とさんと、裾を奪うように絡みつき抗います。しかし、嵐を予感させる水平線の彼方を捕えた王子の目は、決して揺るぎません。

「私は、強くなろう」

この岸壁の麓には、何百という祖国を追われた民が、流浪の身となってまでもフォマハルト王子を頼りに集っています。

「そういえば、ユートリアが私と兄上とに、よく聞かせてくれた。荒ぶる海の先には、誰もが羨む理想の国があるのだと」

「はい。わたくしも母ユートリアの『豊饒の国』の話は憶えてございます」

いま、荒れ狂うこの海原の向こうに、伝説の地があるのだと聞きます。豊饒の国、イル・ァ・ノーヴ。カリスの実が腐ることなく生り続ける常春の地。人々は若さを保ち、争うことも無く、幾代も穏やかに過ごせる羨望の国。心優しき者だけが、試練を超えた先に辿りつけるという伝説。何度もわたくしの母がふたりの王子に枕元でお聞かせした話でした。

フォマハルト王子は、いままさに伝説の地を目指そうと決意されたのでしょう。

「……シュマイア。きみはその母のように、いやそれ以上にかもしれない、私に仕えてくれた。王妃の侍女としても、ユートリア以上に。だから、ここから先の険しき道へは、もうよい」

「ここで、わたくしたちを見放すのですか」

「そうではない……」

王子は振り返ると、わたくしの頬にやさしく手を差し伸べて諭すのでした。

わたくしたち侍女にも、王子が決断されることの察しはついておりました。ここまで、生きながらえさせてくださったがゆえに、一同は王子にすべてを託しているのです。

王妃様までが命を落とされたあの惨劇の日、カワコダの兵の手に落ちた血塗られた宮殿よりわたくしたちを連れ出し、失意の淵から引き揚げてくださったのは、恐らく一番に心を痛めているはずのフォマハルト王子でした。

「私は今一度、理想の国を興そう。新たなる国を」

再び、風に向かいながら自らの意志を言挙げされたのでした。

眼前に迫りくるような逆巻く波を物ともせず、荒ぶる自然と共にある姿勢。受け入れて、なおその先に進もうとする強い意志を、広がるすべてに示してみせたのです。

確かに畏怖はあるのだと、王子は仰っていました。

恐れて目を塞いでは、道が見出せなくなる。どこかしらにある経路を探すのは、確かに心の目でもあるが、広がる森羅万象を把握するのはこの肉眼であって、あわせてもって開闢するのだと。

わたくしよりも、まだ七つも若い王子。まだあどけなさが輪郭に残っていると感じていたついこの前より転じて、この激動の日々の中で王としての風格をまといつつある横顔は精悍さを増して映っていました。風になびく赤毛の髪の後姿は王妃ゆずりの品位が漂うものの、面はうっすら髭がたたえられ始め、若かりし頃のアルギュエバ王の生き映し。もののふの兄、アーケルナ王子の体格にも近づいてきているようでした。

「祖国を追われた身であれば、流浪の限り朽ちるまで彷徨うことともなろう。しかし、くすぶっているのだ。憎しみや悔しさや、美しき祖国を奪われた喪失感。あらゆる葛藤をも抱えながら、生きながらえたこの身で何ができようかと。まずは、許すまじ。王と妃および近親のものを殺め、我が一族はおろか善良なる民をも手に掛けてまで祖国を奪ったカワコダ。だが、私は王家ウグシュバウツを継承する身なれど、兄上を差し置いてカワコダに反旗を掲げるわけにもいかない。いや、いまはただ、なによりも兄上が存命で在るという朗報に心は救われている」

美しき国ファエナの「春光」、フォマハルト王子。幼き頃よりその聡明で優しい風貌に民は敬意を込めてそう呼んでいました。武芸に秀で熱い心をお持ちの「炎天」と呼ばれるアーケルナ王子とは対照的ではあるのですが、兄弟の絆は深いものでした。

太陽の王族の象徴であるアルギュエバ王を失ったいま、ファエナの希望は戦火を免れたふたりの王子に託されたのです。混乱の中互いに行方が知れないままに奔走し、今では兵を率いた側と、一部の民とともに逃れている側とに寸断されてしまったファエナ。その国土はカワコダの暴君シュトラエアによって蹂躙され、王都を除いては焦土と化してしまいました。新たな太陽を掲げるカワコダの勢力は強大です。野枯らしの羽虫たちのように、肥沃の土地を抱える国の富を喰い尽していきます。すべてを干し上げる黒い太陽。そう恐れられているのです。

忸怩たる思いで国を捨てなければならなかったわたくしたち。生き残るために、生き残ったがゆえに背負う祖国の誇り。まだ、わたくしたちは滅んではいないのです。

この岬からしばらく行けば、同盟国の要塞に辿り着きます。まずは戦火から逃れ、強固な海洋都市を築くそこへ。多くの民が、服従よりも亡命を選び、命がけで長い旅路を結束して歩んでまいりました。飢えと渇きに耐え、先頭にある小さな光にすがりながら。

半島の岬に立ち、逆巻く風を受けながら、それはまるで運命を占うかのような佇まいでした。いま、そこから先の未来を見定めて。フォマハルト王子は、太陽の王族の誇りを胸に、進むべき道を拓いていこうとしています。

王子の瞳からは、もう、迷いなどの曇らせるものはうかがえません。

「船を用立てる。船団を組んで、イル・ァ・ノーヴを目指す」

「なんと! あの伝説の地をまことに目指すというのですか!」

衛兵の長が取り乱したように声を上げます。しかし、ほどなく上げた顔を再びうつむかせました。王子の目に気圧されたのでしょう。

その王子の瞳には強靭で偽りの無い想いが凝縮され、それをもとに春の日だまりが広がるように、威圧するでもなく心へ直に浸透していくのです。

わたくしには、王子にお仕えするようになってから、たびたび重ねて見えていた世界があります。フォマハルト王子が描く理想の国というもの。あの宮殿から、ただ民衆の暮らしぶりを俯瞰されていただけではなく、好奇のあまり市井にお忍びでお出かけになられ、人の暮らしぶりを実感されたゆえの大いなる理想。それは、果てしなく優しい世界。

いま、王子は理想を掲げるべく、遺された民に訴えかけます。

「これより同盟国ベルチアに赴く。直に見えてくる要塞が、名だたる海洋都市ノゥヴ・レノアだ。我々はそこに身を寄せるが、そこからはまた事の成り行きでは、いかようになるかまで私にはわからない。皆、可能ならばベルチアの民となれ。ここまで大事にしてきた命だ。民として生きるのであれば、ベルチアの国王も受け入れてくれよう。しかし、黒き太陽が迫ってきてもいる。我が国の惨状を知り、防備を固めたいと頑なになるやもしれない。戦禍は免れられまい。かの国も兵が必要となろう。我々が矢面に晒されることもあろう……」

風が止んでいました。波の音すら途絶えた岬の上。ただ、凛とした王子の声が、曇天を突き崩すようにして方々に届きます。

「私は、この荒んでいる世界にあっても生き生きとした民の生活が健在であることを知った。もう、いがみ合うもの達の勝手によって崩され、嘆きを生むことがあってはならない。ただ安らかに、人はあらゆるものの中にあってしかるべきだ。それが、ファエナの民の営みなのだ」

滔々と述べる王子のそれは、ひととき優しい調べのように流れて包みます。これはまさに「春光」でした。

「イル・ァ・ノーヴ。皆は夢物語と思いこんで、混乱の中ますますその存在を届かない場所としてしまっている。しかし、今こそ私はかの地を目指そうと思う。まさに私が描く理想の国の姿なのだ。ベルチアにて船を用立て、海原に出て伝説の地を探す。もし、ベルチアの民とならぬならば、私と共にさらなる漂流を続けることとなる」

このことは、多くの民に逡巡と懐疑を生みます。険しい表情が、いくつも見受けられます。

「ファエナはもとの姿には戻らない。各々が胸に刻んだ祖国は、新たなかたちで各々また築いていくのだ。そのことにおいて、私の理想はひとつのかたちにすぎない」

ひたすら真摯に訴えかけた王子の姿に、固唾をのんで聞き及んだ民衆は、やがて声をふりしぼって答えを返していきます。

「イル・ァ・ノーヴ」

小さかった声が、いくつも重なり始め、ひとつの理想を表す言葉となって王子の耳にも届きます。口々に、イル・ァ・ノーヴを目指すという意志に賛同する声となっていくのでした。岬が、希望の喝采に染まり始めました。

「民は、私についてきてくれるというのか」

「すべてのファエナの民が、王子に希望を託しているのですよ」

王子は、そのとき小さく身震いを起こされました。一旦それを治めるように目をつぶり天を仰ぐと、呼吸を整えます。

「見よ! 我こそが真の太陽となる。闇を裂く暁光のごとく、世に目覚めのときを知らせよう。これよりは、はじまりのとき。我らは切り拓くものとなり、多くを照らしていくのだ」

厚い雲が割れて、空が一筋の光明を鋭く照射した瞬間でした。鮮烈に岬が照らされ、神々しくも王子の姿を引き立てました。

そのまま、まるで天からの啓示を受けるかのように、王子を照らした光明はまっすぐこの岬と遥か水平線をつなぎ、洋上を走りそこにある道を浮かび上がらせました。

おそらくは、イル・ァ・ノーヴへの道。

フォマハルト王子が魅せた奇跡。

「王子、立派になられて……」

わたくしたち侍女は、みな涙を浮かべていました。衛兵らは跪き、新たな君主を立てるようにしながら控え、胸に置く掌で忠誠を誓っています。

そして、歓喜に沸く民衆。あたたかな光彩を浴びながら、疲労困憊の表情が次々と安らかに、やがて活気へと移り変わっていくのが認められます。それは、優しい伝播でした。

「兄上はフォウピナ山のベルル族の元へ身を寄せていると聞く。おそらくあの蛮族とも言われる荒くれ者たちと共闘する構えなのだろう。しかし、カワコダに対する勢力としては不利だ。兄上はいずれにしても戦う道を選び、やがて私にも挙兵を促すだろう。その時は、その時だ」

安堵する中にも、気の緩みは見せません。

「兵らはすべて兄上の下。カワコダに反旗を掲げ、きっと仇を討つことだろう。私には遺された民を守る責務がある。真の太陽の王族は、決して絶えることは無い。日が昇るように、幾たびの夜明けを迎えるのだ」

王としての風格たるや、威風堂々としたものです。この方ならば、きっと掲げる理想を全うするであろうという予感を抱かせ、そのことに皆が共感するほど漲るものを纏っていました。

それから少し、表情をほころばせながら王子は続けます。

「……いや、『豊饒の国』などお伽噺でもかまわないのだ。辿り着いた先が私達を迎え入れてくれる土地ならば、これら民のための小さき豊饒の国をつくる。戦など及ばないような真の理想の国を」

それよりも、と王子はわたくしを向いて問うてきました。

「兄上と道は違えども、こちらも険しき道だぞ」

「わたくしは、違うことなくフォマハルト様も、わたくしどもを正しき道へ導くものと」

「シュマイア……」

一瞬、少年の瞳に還った王子は、わたくしを優しく抱擁しました。あまりのことに体が硬直したままのわたくしでしたが、このときの王子の体温と、自身の鼓動とを一生涯忘れることはないでしょう。

「新たな国の名は、なんといたすのですか?」

「さて。この岬からは、まだ見えぬからな」

岬に立つ王子。ここで洗礼を受けたかのような出来事に遭遇し、図らずも新たな王が即位した場所となりました。

フォマハルト王として、いま民衆のもとへ。

そして、ようやく雲間から真の太陽が姿を現したのでした。





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