四 幕間① よからぬ話
「刀根田村の庄屋から、良い話が来たんだよ」
ある日の街が寝静まった、夜も深まる頃合い。愉しげな中年女の声が椿の耳へと届いた。
椿は布団の中で、今にも瞼が塞がりそうだったのに、完全に目が冴えてしまった。中年女――叔母の声の調子がどうにも怪しく感じたのだ。その証拠に、声を潜めて話すのだろう。まあ、椿には意味のない行為だ。椿の生家は老舗の旅籠を営み、母屋もそれなりの大きさではあるが、椿は家の中程度であれば簡単に声が拾える。隠し事はほぼ不可能と言って良い。
「椿を養女に欲しいんだとさ」
椿は叔母が語る言葉の続きに耳を澄ますも、ますます不信感が乗るばかりだった。椿を養女など、何の為に。これには訝しむ要因しかなかった。椿は目が見えない……しかも、それだけではなく叔母は椿を病と言いふらしている。そんな女を養女に欲しがる話ともなると怪しいことこの上なかった。
何より、叔母の上ずるような上機嫌な声の調子から、どうにも金銭が絡んでいると踏んで良い。叔母の機嫌が良い時は大抵儲け話なのだ。
「なんでまた。どこであれの事を知ったんだ?」
応えたのは叔母の夫――叔父だ。椿の父の葬儀が終わった途端、何の知識もないのに旅籠を取り仕切り今では店主気取り。店は繁盛しているとは言い難く、潰れずに続いているのは、椿の父の代から勤め続けている佐吉という番頭のおかげだ。
「あそこの庄屋と兄さんは昔からの知己だったんだと。椿の事も知ってるとさ。黙っておいてやるから、何も言わずに椿を寄越せとさ」
刀根田村の庄屋とやらは、椿には記憶はない。しかし、脅すような口ぶりからして、椿の症状も現状も把握しているのだろう。叔父も、少々訝しんでいるのか、「大丈夫なのかよ、それ」と、不安げな声を漏らす。
「あっちも都合があるみたいさね。金は弾んでくれるとさ」
対して、叔母は酷く嬉しげに声を上げる。卑しいとすら感じ、椿を不快にさせるには十分だった。
「それで、売るのか。実の姪ではあるだろ」
叔父は叔母の様子で安心したのか、建前を述べながらも、椿を嘲笑ったような嫌味を言った。叔母も叔父が巫山戯ているだけ、と知っているのだろう。鼻で笑っていた。
「八年育ててやったんだ。そろそろ恩返しでもしてもらわないとね」
「ま、お前が良いなら問題ねぇ。あの娘が嫁に行ったとでも言えば、番頭も大人しくなるか」
「ああ、下手に売らなくて良かったよ。盲目だからと足元を見られて大損になるところだった」
清々したと言わんばかりの嫌らしい中年の男女の会話は続いたが、椿はそれ以上、耳を傾ける気にはなれなかった。
椿は集中を解いて、瞼を閉じる。夏も終わりだからか、布団を被っているのに嫌に寒く感じた。
集中を解いてしまうと、もう椿の耳に叔母達の耳障りな声は届かない。
そうなると今度は夜の静寂と共に、隣で眠る鈴の吐息が聞こえ始めた。その些細な音に椿は安堵もしたが、同時に物寂しさも感じた。
――ようやく、この家から出られる。
椿は生まれてこの方、光の一片すら見えたことがない。生まれて十歳程度の頃までは、それを不便に感じたことはあっても、不幸だと思ったことは一度もなかった。椿の両親は、椿が盲目であることなど、微塵も気にせずにいたからだ。側には鈴もいた。だから何不自由なく過ごしていた、と言っても過言ではなかったのだ。
しかし、もう椿を守ってくれていた両親はいない。
目が見えなくとも、椿の両親は椿の教育に事欠かなかった。何かしらできることをと、琴や三味線、詩の家庭教師をつけていた。他にも、鈴と一緒に教養や礼儀作法を身につけられるだけ。最悪、自分達に何かあっても生きていけるようにと考えていたのだろう。しかし、叔母はその全てを金の無駄と言って辞めさせてしまった。しかも音が煩いと、ほとんどの楽器を取り上げて。
唯一許されているのが琴だ。何かしら芸があった方が売れるから、が理由だそうだ。勿論、椿は直接言われたわけではない。鈴と琴を奏でる時間が楽しく何も知らないふりをしているだけだ。
まだ、叔母に良心があるとすれば、椿を殺すほどの悪人でなかったこと――と言いたいが、下手な真似をするよりも、盲目の子供を閉じ込めておくほうが楽だっただけだろう。
鈴や佐吉のこともあったのかもしれない。二人がいなければ、椿は今頃どうなっていたのか。
鈴がいなければ、椿にとってこの家で暮らす時間は苦痛以外の何ものでもなかった。だがもう、潮時だ。
叔母達の様子からして、刀根田村へと行くことは決定事項。しかし、不安はほとんどないと言って良かった。むしろ、これ以上、鈴の時間を奪い続けることが心苦しくてたまらなかったのだ。盲目の女をお世話するためだけに拾われた少女。だが、もう鈴だけでも幸福になるべきだ。それが、椿ができる唯一の選択だった。
「……刀根田村、どんなところかしら」
椿は夜闇に掻き消えてしまいそうな声で呟く。だが、独り言のようで、そうではない。椿は、問いかけたのだ。
椿は耳が良い。が、拾う声は決して人のそれだけではない。漠然とした気配で、おそらく人ではないと感じているだけ。
ふっと、どこからともなく、ささめくような声がするのだ。
『刀根田村には――がいる』
『――は人を喰う』
『あそこの作物はよく育つ。命を喰らって出来た作物ほど、よく肥える』
『よかったな、つばき。願いが叶うぞ』
「私を食べてくれるかしら」
『ああ、きっと』
『皆が米を喰うように、つばきのことも美味い美味いと言って喰ってくれるに違いない』
不可思議な気配達は、ケタケタ、カタカタと一頻り笑うと気配ごと消えてしまった。
部屋は一気にしんと静まり返る。それこそ、隣の布団で眠る鈴の寝息すら消えてしまうほど。そうすると、椿には闇に身体を沈めるばかりだった。
不可思議な気配達は椿を脅かすように話したのにも関わらず、椿に不安は生まれなかった。
――私がいなくなれば、鈴は自由になれる。
鈴は捨て子だが、外にあてがないわけではない。佐吉が未だ勤め続けているのは、椿と鈴を心配しているからだ。椿の頼みであれば、鈴の面倒を見てくれるだろう。鈴さえ幸せになる道に進んでくれたのなら、もう椿に生への未練はない。
いっそ、確実な死を見つけて安堵したと言っても良い。
「お父さん、お母さん…………」
椿は既に、冥府へと旅立ってしまった両親の思い出を浮かべながら、瞼を閉じた。




