二
『なあ、』
そういって、声と同時に顎をつかまれた感覚があった。冷たいとも、温かいとも感じない。体温がない人の手のようだった。その手が椿の顔を持ち上げようとする。椿は不思議な感触を肌で感じながら、従うように顔をあげた。
『はは、本当に見えてねぇのか』
なんとなく、誰かの視線を感じる。顔を持ち上げられ、のぞき込まれているような――目の前に誰かがいるような気がして、しかし顎を掴まれた感触の影響なのか、不思議と人の形のような気もした。
――これが八千矛神?
神とは人に近しいものなのだろうかと、椿は疑問に思う。
「あなたが、八千矛神……なのでしょうか?」
『俺はそんな名を名乗った覚えはない。ましてや、生贄やら花嫁やらを寄越せとも言った覚えもないな』
吐き捨てるように言ったかと思えば、椿の顎から感触が消えた。代わりに、椿の目の前にあった屠蘇台がごそりと動いた気がした。そのうえ、酒を注いでいるかのような水音までする。
その水音に紛れた歪な声が、一つ言った。
『俺と取引をする気はないか?』
「取引……ですか?」
椿は思わず聞き返してしまった。思いもよらなかったものだから、ついポロリとこぼれてしまったのだ。だからといって椿は気を抜かなかった。目の前の存在が何を話したとしても、信用があるかないかの判断すらできないからだ。
だが、暗闇の次の言葉で椿は簡単に動揺してしまった。
『お前の目を見えるようにしてやるよ』
「え……」
椿は言葉に詰まった。
『見える』ということ。それは、椿が幼いころからずっと、喉から手が出るほどに欲しかったものだ。
今更見えたところで、などと考えに至れば言えただろうが――言えるはずがなかった。
だから、言葉が詰まった時点で、椿の心に隙が生まれたも同然。
『どうにも、お前にも心残りがあるらしい』
暗闇に言い当てられ、椿はの喉元を押さえつけられている気分だった。はやる気持ちと共に、悪事に身を染めてしまった罪悪感のような――殊更慎重さを要求されている気がしてならなかった。
「取引……ということは、そちらも何か望みがある、のですよね?」
暗闇がにたりと笑った気がした。正確には暗闇がざわついたような。肌にねっとりと湿気でも張り付いたような感触がして、椿の身体はますます硬くなるばかり。だが、思わぬ男の言葉に椿は一瞬にして気が緩む。
『――ここから出ること』
暗闇は神妙に、確かにそう言った。
「ここ……というのは、」
『ここが蔵の中だということは知っているか』
椿は頷く。庄屋の言葉通りなら、確かにここは蔵だ。八千矛神を祀る蔵。椿も、本来の蔵の使い方とは違う上に、蔵に神が棲むというのは些か疑問でもあった。しかし、神がそこから出たいなどと言うとも思っておらず、椿は困惑するばかり。
『俺が好き好んでここに閉じ込められているとでも?』
「棲んでいる……のではなく?」
『俺は神を名乗ったことはないと言っただろ』
祀っているのはこの土地に住む人間の勝手、とでも言わんばかりの冷めた物言いだった。そうは言っても、この土地が神の恩恵を受けているのも事実。八千矛神を祀る刀根田村は、桃源郷という噂が絶えないのだ。しかし、それが真実かどうかを探る術がないのも、また事実だった。
――この存在が神ではないなら、刀根田村はたまたま、実りの良いの土地ということ? でも、そうだとすればこのひとは何? とても豪華な供物も並んでいると言っていた気がするけど……それに、あの怯えようは異常だった。私が生きて出られないことを知っていたはず。
椿の脳裏に蘇るのは、嗄れた声だった。盲目である椿を養女に欲しいと名乗り出たのは、刀根田村の庄屋だ。老人と思しき嗄れた声は毅然としていたが、椿に儀式に花嫁役をやって欲しいと説明するときの声は緊張と焦り、そして僅かな罪悪感で満ちていた。企みや思惑があったことだけは確かだ。更に言えば――
『つばき、嘘だよ』
『儀式で花嫁に選ばれた女はみんな死んだ』
『あれに喰われたんだ』
『刀根田村の村人は今まで、他所から子供を買って育ててたんだ。そいつを贄として、あれに喰わせてたんだ』
『今回は、つばき。お前だよ』
けたけた、カラカラ、と笑う、ささめくもの達。庄屋の声を遮り、椿を嘲笑うが、真実しか告げない声だ。
そう言った声が聞こえることは、椿にとって日常の一つで、だからこそ椿は蔵に入れば死ぬと知っていた。正確には、それ以前の――養女として引き取られる前から、ささめくもの達からそう言われていたのだ。
だからこその覚悟だったわけだが、であれば、この八千矛神とは何なのか。
「……あなたは神でないなら、一体何者なの?」
暗闇は言い淀む。しかし、すぐに答えは出た。
『俺は――ただの人間だ』




