エレヴェイティド
わかっている。私が降りるべき所は、一五七六階だ。イゴナロー階、と暗記した。以後成ろう階。そこで降りなければならない。
箱はただ黙々と私たちを運び続ける。上へ。箱とは言うが相当に広い。何人乗っているのだろうか。椅子はなく、全員立っている。私は出入口ドアからおよそ十メートル程の所に立っているが、この箱に乗り込んだ時に見た記憶として反対側の壁まで優に百メートルはあった。
今のところ混雑はしておらず、乗っている人々は各々適度な距離を置き佇んでいる。中には箱内を歩いて移動する者もいる。あっちの端まで行ってみよう、という、いわゆる冒険心に衝き動かされたところだろう。
たまに、やけに近くに立ち止まる者もいる。距離を取ることを知らない類の者だ。そんな時は、こちらからさりげなく遠ざかる。中には遠ざかる私にさりげなくついて来ようとする人もいるが、私が足を速めると何かに気づいて立ち止まってくれる。
つれないかも知れないが、私は金輪際この箱の中で他の者と近づいたり世間話をしたりする気はない。何故なら、そんなことをしたせいで前に一度、箱から降り損ねたことがあるからだ。
その時私に近づき話しかけてきたのは、私より年嵩の──そう、私より二世代程上と思しき女性だった。
「何階までいらっしゃるの?」忘れもしない、その人は最初私にそう問いかけてきた。
「あ、一五七六階です」私はそんな風に答えたものだ。気さくに。微笑みさえ浮かべて。
「まあ、大分上の方ねえ」女性は笑い、それから「でも私はそのもっと上よ。三千階」と続けた。「覚えるのが大変だから、ちょうどの数字にしてもらったの」
「ああ、いいですね」私はさらに笑った。
「息子がね」
女性の話は飛躍した。階数の話から、息子の話に。息子が何と言っていたのか、今となっては思い出せない。息子の話だったことだけを覚えている。多分その時私は
「そうなんですかあ」
「すごいですねえ」
「大変ですねえ」
といった語群を適宜並べ組み合わせて対話を成り立たせていたのだろう。
女性の話は次々に展開していった。息子から娘、そして夫、生きていた時の夫と亡くなる際の夫、自分の親、兄弟、昔近所に住んでいた、もはや血のつながりのない人──
箱は彼女の人生物語を上へ運び続けた。彼女は私の返事が「ああ」「ええ」だけになっていくことも、私の視線がちらちらと出入口の方に注がれることも意に介さず、ご機嫌で喋り続けた。
「でもいろんな人といろんなお話しをして、気づいたの。私」不意に女性は声のトーンを変えた。それまでの楽し気な笑いを含む声とは打って変わって、幾分沈み込んだ、少ししわがれた、まあ言ってみれば年相応の、あまり張りのない声に。
その時私は思わず彼女を見た。見てしまった。
それまでちらちら出口の上の電光掲示板に示される階数を確認していた目を、そこから離し女性に向けてしまったのだ。
ああ、何故だろう。いやわかっている。それはそうだ、それまで楽し気に話していた人の声が不意に沈み込んだとすれば、私でなくとも誰だってついその人の方を見てしまうだろうというものだ。その表情を顔色を、どこか具合が悪そうな様子をしていないか、そんなことをつい、他人といえど確認してしまうだろう。
ほんの少しの時間、言葉を交わしたという関係であってもだ。
ほんの少しの時間でも、言葉を交わした関係だからこそ。
女性は、苦しそうにはしていなかった。視線を少し下に向け、ゆっくりと瞬きをし、その顔は──そう、今にして思えばどこか寂しそうな、悲しそうな表情を浮かべていた。
「何がわかったんですか?」あまつさえ、私は彼女にそう訊ねた。
訊ねてしまった。何故。ああわかっている。
「結局はね」女性は静かな声音で続けた。「黙っておくのが一番いいのよ」
「──」私は女性の言ったことの意味を耳から心臓、そして丹田へと送り込み、味わうがごとく反芻した。
黙っておくのが、一番いい──
「だってね」女性は解説し始めた。「何か言っても、自分が伝えたかったようには、うまく相手に伝わらないことが多いでしょう」
「──ああ」私は女性のその言葉には賛同できた。「そう、ですね」
「それどころか、こちらが何をどう言っても、すべてそれを悪い方に取る、自分を否定している、馬鹿にしているって、何故だかそんな風にしか捉えない人も多いのよ」女性は首を振りながら解説を続けた。「そんなんだったら、もう何も言わないでおくのが一番よ。自分を守るためにもね」
「──」私の丹田はもぞもぞと燻りはじめていた。でも、じゃあ、あなたは何故、私にここまで言いまくってたんですか? 見も知らぬ私に。私だってあなたの言うことをいちいち変な方向に捉えるタイプの者かも知れないのに。
丹田はそんな想いをぶすぶすと燻して私の心臓に送り返し、心臓はその煙たさを私の唇から外に押し出そうとした。
「あなたは」私が言った時、
「あら、もうすぐ二千五百階ね。私そろそろ下りる支度しなきゃ。それじゃ、さようなら」女性は元のはしゃいだ声に戻ってそう告げ、そそくさと立ち去って行った。
何故。
私の唇はそう動いたが、声にはならなかった。
待てよ。
二千、五百階?
二千五百階と言ったか?
私は出口ドア上の掲示板を見た。
2649
そこにはそういった数字の羅列が示されていた。
ちょっと。
一五七六階より何階多い?
千……七十、三階……
千!
七十!
三階!
「いや」私は無意識のうちに自分の頭をがしがしと掻きむしっていた。「千? はい? 千七十?」
むろんそんなことを言っている間にも階数はどんどん増えていき、一五七六階との差は広がる一方だ。
「あのさあ」今や私の丹田も心臓もその他ありとあらゆる器官すべてが爆竹のように言いたいことを弾き飛ばし私の唇からすべてをぶちまけ始めた。「何も言わない方がいいってんなら、何も言うなよ。黙っとけよ。なんで言うの。なんで今言うの。なんで今、この時、この私に言うの。言わなくていいことを。話す必要もないことを。なんのために。あなたのため、ええそうでしょう、あなたのため。しかし私はなんのため? 何故私がそれを聞き、それを聞いたがために以後成ろう階で下りられないという悲劇に見舞われているの? 一体どういうことなの?」
「うるさい!」
突然そう怒鳴る男性の声がして、私はびくりと身をすくませた。
「静かにしろ。俺の下りる階を見逃しちまうだろうが」私の右斜め前にいた男性──この人も大分年嵩の人だ──が私に顔を振り向けて怒りを露わにしている。
いや。
私は見逃しましたよ。
ええ見逃しましたとも。
なんで私だけが他人の階数チェックに気を使わなきゃいけないの?
私はあまりの理不尽さに震え、涙ぐみ、歯咬みして拳を握り締めた。
「馬鹿たれが」顔を正面に戻した後、その男性はそう呟いた。
そうだ。私が馬鹿たれなのだ。私が無知蒙昧の無力で愚かな餓鬼だったのだ。
それがすべての回答だ。
私はただ唇を噛みしめながら、出入口ドア上の掲示板だけに視線を向けていた。涙が零れ落ちるのを拭いもせず。
そして心に固く誓ったのだ。
もう、人の話なんか聞かない。一切聞かないと。
箱は、昇り続けた。
あの女性の言っていた三千階を過ぎ──女性が本当に降りていったかどうか私は確認しなかった──四千階、五千階も過ぎ、六千階に着いた時、怒鳴った男性が体を左右に振りながらいそいそと降りて行くのが視野の端に見えた。
私はずっと見ていた。じっと見ていた。電光掲示板の数字を。
それしかしなかった。
何度か、人の声が近くで聞こえた時もあった。
「すいません」というものだったり、
「あのー」というものだったり、
「広いですよね、ここ」というものだったりした。
どれひとつ、私は返事をしなかった。見向きもしなかった。
すべて無視した。
箱はやがて、最上階に到着し、その階を過ぎ、最初の階から再度昇り始めた。掲示板の数字が四桁から一桁にがくりと減り、また一から順に増えていく。
一五七六階。今度こそ、降りてやる。
私は人形と化した。掲示板を見上げる人形。
そして箱は再び、一〇〇〇階に差し掛かった。
「ううう」
誰かのうめき声が聞こえた。私は視線を動かさなかった──五秒の間は。
「ううう、ううう」
どこか痛みを感じている時のような、苦し気な低い声が、私の左側から断続的に届く。
私は見た。少しだけ首を動かし、ちらりと左手に視線を向けた。
それは、まだ年若い女性だった。私より年下ではないかと思われた。女性は床上に、下腹を手で押さえながらうずくまっていたのだ。
「だ」私は思わず口走りそうになった。大丈夫ですか? と。体を半分方左側に向けようとしながら。
しかしすんでのところで止まった。
だめだ! もうすぐ一五七六階に着く! こんな所で他人に構っていることなどできない!
周囲を見回すが、誰も彼女の状況に気づいていないようだ。
「うう、いた、痛い」女性はかすれた声で言った。
私は二秒ほど固まり、それから出入口ドアに向かって歩き出した。
降りるんだ。
降りるんだ! 今度こそ!
大股で歩く。一歩、二歩、三歩、四
「人でなし!」
誰かがそう叫んだ。
はっと立ち止まる。振り向く。
女性は床の上に倒れ込みうずくまっている。その弱々しい様子から彼女が叫んだとは思えなかった。周囲に人はいない。
ああ。そうだ。
これは私自身の心が叫んだ声なのだ。自分に向かって。
人でなし。
箱の方が大事か。目の前で苦しんでいる人よりも。そんなことをして胸を張って生きられるのか。人として。
この人でなし!
私は思い切り顔をしかめながら、女性の許へ走り戻った。「大丈夫ですか」
「お腹が」女性はかすれた悲鳴を挙げる。「急に痛くなって」
「──」生理現象なのか、月経痛か、何かの病気か、妊娠しているのか──私は様々な思いを巡らせながら自分の着ているジャケットを脱ぎ女性の腹部にかけた。「すぐに人を呼んできますね」
この場で大声で「どなたかお医者さんはいませんか」と大声で問いかけたら良いのだろうか、そうまで考える。このだだっ広い箱の中で、どれだけの声量を出せば人々は気づいてくれるだろうか。
大きく息を吸う。
「ちょっとよろしいですか」
その時、声がした。
はっと息を止め振り向くと、グレーの制服に身を包んだ、見た所四十代ほどの男性が私の後ろに立っていた。その出立から、箱の運営局員に違いなかった。
「あっ、あの」私はすがりつかんばかりに状況を訴えた。「この方が、お腹が痛いって急に」うずくまっている女性と局員を交互に見る。
「いえ」しかし運営局員は首を横に振ったのだ。「そちらの方ではなく、あなたにお話がありまして」私を指差す。
「えっ?」私は驚いて自分でも自分を指差した。「私?」
「はい」男性局員は頷く。「あなたは一五七六階で降りなければならないとされていますよね?」それから出入口ドアの方に指を向ける。「見て下さい。もう一九六二階ですよ」
「えっ」私はもう一度驚いて掲示板を見た。「あっ──」
そう、私はまたしても、一五七六階を過ぎ越してしまったのだ。
「ううう」倒れている女性が呻く。
「あ」私はもう一度女性と男性局員を交互に見た。「いやでも、この方苦しそうにしてるんで、あの」どこか救護室のような所に──そう言いかけた。
「あなたこれで二回目ですよね。箱規定違反に問われる可能性がありますので」
「は?」私は耳を疑った。
この局員は──
今目の前に倒れて苦しんでいる人よりも、箱規定とやらの方が重要だというのか? そんなことをして、胸を張って生きられるのか?
私は男性局員を正面から睨みつけた。
この言葉を、私は今この局員に、声を大にして言いたいと思った。
それを言っても間違いではないと思った。
そう、言ってやってもいいだろう。
言ってやる。
私は叫んだ。
「この、箱でなし!」
箱の中にいるすべての人が振り向いた。
局員は、何故そんなことを言われるのかわからないといった顔をしていた。
女性は引き続きうずくまったまま、肩を震わせていた。