満開の月に思ふ
「やっぱり……はぁ……」
街外れの小さな山の上にある公園のベンチに腰掛け、少年は暗い空を見上げていた。
人間が快適に暮らすため、街の明かりは夜空の星を見えにくくする。彼が見たい、星が瞬く綺麗な夜空はここにはない。
だからこそ、地上で灯る光に負けず、はっきりと自らの形を示す月だけが拠り所だった。
「何してるんだろ」
何となく足を動かすと、砂がジャリと音を立てる。そんな地面をぼんやりと俯き気味に見下ろして呟く。
嫌なことがあるとすぐにここに来てしまう。寂れてしまったこの場所は、余程の物好きでなければ今や人は寄り付かない。
ひとりになりたい少年にとっては、それが逆に好都合だった。
「…………」
再び上を向く。
暗い空に輝く満天の月を。
目を凝らせば見える星々など意に介さず、自身の存在を知らしめるあの月を見上げていると、自分の悩みなんてちっぽけなものだと思えてくる。どうでもいいじゃないか、と。
思春期――そう呼ばれる、人の心が最も揺らぐであろう時期。彼もまた、それに直面し、その度にここに来るのが当たり前になりかけている。
そして、悩み多き彼が頭を抱える要因がもうひとつ――
「――綺麗」
風鈴が奏でる音の如く透き通った声が耳に届けられた。
「え……?」
誰か来た。年頃の子どもがこんな夜更けに外にいたらまずい、と少年は焦って声のした方を向くが、誰もいない。周囲をキョロキョロと見渡すが、やはり人はいない。
もしや、と思った彼は視線を落とす。
「あ……」
――いた。
声の主が、そこにいたのだ。
少年は言葉を失う。幼い頃より日常に乱入し続ける異常。
しかし、彼が抱くは戸惑いや困惑、さも恐怖でもなかった。
純粋か不純かはともかく、ただひとつの感想――綺麗だ。
奇しくもそれは、声の主が言ったのと同じ言葉だった。
「変な顔して、妙な子ね」
声の主は目を見開く少年と視線を交わしながら、そう言葉を続けた。
右は黄色で、左は水色。左右の瞳の色が異なるオッドアイである。月明かりに照らされた、夜空にも負けない黒い毛並みが月明かりを反射して、まるで輝いているように見えた。
人ではなかった。
「ね……猫……は、はは。――だはぁっ」
緊張で気張った全身の力が一気に抜ける。何のことはない、彼にとっては日常の一部だ。
――動物の声が聞こえる。
当たり前だと思われてしまうことだろう。だが、彼の聞こえ方は他者とは異なる。鳴き声ではなく、 言葉として聞こえるのだ。
「すみません、見つめちゃって」
猫に頭を下げる姿は、何も知らない人が見ればおかしな光景だろう。本人が至って真面目だったとしてもだ。
「私たちに頭を下げる人間がいたのね」
「変ですよね……あはは……」
今まで見てきた、どの人間とも違う少年に首を傾げる。
「……もしかしてあなた、私が何を言っているのか――」
「はい。僕は動物の声が聞こえるんです」
薄く口を開ける黒猫に、少年はぎこちない笑みを見せた。
奇異な能力のせいで誰かと接することを避けてきた。それ故、ぎこちなくとも少年の精一杯なのだ。
これが、不思議な能力を持つ少年と、月の名を冠した黒猫との出会いだった――。
◆◆◆
あの出会いから10年の月日が流れ、白衣に身を包んだ青年が、空に浮かぶ月を見上げる。
座るとぎしりと音を立てる木製のベンチだけで、懐かしさを感じるには十分だ。そこに腰かけ、誰も座っていない隣に視線を落とす。すると、自然と口角が上がった。
「僕ね、お医者さんになったんだ。今では結構有名なのがちょっとした自慢。君がもし、怪我をしたり、病気になった時は、僕が必ず治すから……絶対に、治してみせるよ」
視界が揺らぐ。
何も出来なかった無力感。それをどうにかしたくて、必死に足掻いたかつての少年は――獣医になっていた。
ようやくここまで来たのだと報告しに来たのだ。彼女と出会ったこの場所なら、きっと声が届くだろう……と。
「だから……だから今だけは……」
彼はもう、決して立ち止まらないだろう。何故ならそれが、それこそが約束なのだから。
だが、長距離を移動する渡り鳥でさえ、羽休めが必要なのと同じ。引き締めた心を綻ばせる時間は必要なのだ。
「あぁ……」
揺らぐ視界でもそれはそこにある。はっきりとその燈りが見える。
木々が揺れ、青年に優しい風の到来を伝え、彼の髪を撫でるように揺らす。
「――」
彼は頬の滴を拭い、勢いよく立ち上がり……天へと向かって声を上げるのだ。
思いの丈を言い尽くし、満足げな表情の彼が振り向くとそこには――
「…………」
目から溢れ、頬を伝う滴など気にせず、かつて答えられなかった問い。それに彼は答える。
「今ならはっきりと言える。僕は――」
迷いのない、自分自身の言葉で――。