第五十七話
新城家の周囲を歩き、警らがてら頭を冷やす。通行人もいなければ車も通らない、閑静な住宅街。自然こそないが、その平和ぶりに幾ばくか気持ちは落ち着いた。
やがて時計回りに一周し、玄関に着く頃。ショルダーバッグを提げた琴音が、浮かぬ顔でドアに鍵を挿していた。
「何処か行くのか」
「少し用事があって。……じゃあ、行ってくるね」
「ああ。道中気をつけるんだぞ」
「……うん」
琴音は目を合わさず頷くと、足早に道路へ向かっていった。行き先を知らずに見送るのは、これが初めてかもしれない。
「……これで良い。俺が忌避されるだけで事が丸く収まるのなら、安いものだ」
消えゆく後ろ姿を眺めながら、達観染みた独り言を呟いた。
◇◇◇
それから俺は、単身河川敷へ向かっていた。“思い立ったが吉日”という異世界のことわざに、背中を押されたからである。
「もうすっかり秋だな」
枯れた草花、冷たく乾いたアスファルト。ペンに似た虫は空を飛び、時折鳥に追いかけられている。一方人間の顔の高さでは、小さな虫が群れをなしており。しかし壮年の男は、軽く拳を作り突っ切っていった。
◇◇◇
そんな彼らを尻目に、坂を下り。少し歩き、柳の森に辿り着く。
「ここに来るのも、もう何度目だろうな」
おどろおどろしい見た目なためか、相変わらず人は寄り付いていない。だのに今日、内部は庭のように整えられている。疑問を抱きながらも前進すると、神社の跡地に木のベッドがぽつんと置かれているのが見えた。
とはいえしっかり屋根もあり、一見だけでは祠に見違えるかもしれない。これもスティエラなりの気遣いなのだろうか。折角なので好意に甘え、隙間なく敷かれた真っ白な布に足を着ける。
『! これは……この柔らかさは、まるで上質なパンのようではないか!』
思わず両手を広げ、暫しの間感触を楽しむ。するとリラックス効果があったのか、次第に欠伸が止まらなくなる。
「くあ、あ……」
程よく毛皮も温まり、間もなくやって来た睡魔。仄かに香る木の匂いといい、どこまで計算づくなのだろうか。
「少し寝るか……」
どうせならとことん味わい尽くしてやる。改めて周囲を見渡し、害が無いか確認する。そうして身体を丸め、おもむろに目を閉じた。
◇◇◇
――夢を視た。復讐に追われ忘れていた、妻の誕生を祝った夜を。彼女に触れることが叶わなかった、その時の続きを。
“どうしたの? 急に顔を見せてほしいだなんて”
テーブルを隔て、向かい合う妻。彼女の目もとは相変わらず暗闇に覆われており、行き場のない視線がイヤリングを掠める。その先では、揺らめくロウソクが待ち構えていた。
『今回は娘達は不在か』
それどころか、料理もプレゼントも、窓から見える景色もない。夢とはいえ、こうも要領よくやり直させてくれるとは。誰に感謝することなく前を向き、凝り固まった口を開く。
「唐突に見たくなった。だから、その……だな。お前の顔に、触れても良いか?」
“ええ、もちろん。……ふふっ。改まって言われると、なんだかドキドキしちゃう”
震える手を伸ばし、彼女の前髪に潜らせる。艶やかな青い髪の向こうでは、どのような表情をしているのか。生前幾度となく重ねた視線が、今ばかりは甚だ恐ろしい。
慎重に持ち上げ、目を合わせる。輪郭のはっきりした、澄んだローズピンクの瞳。しかして愛嬌のある丸い瞳は、まるで――
「こと……ね?」
露わになった妻の素顔は、酷く琴音に似ていた。
◇◇◇
頭を撫でられる感覚に、ゆっくりと目を覚ます。瞬間双眸に映ったのは、俺を見下ろす琴音の姿だった。視線がぶつかると、彼女は気まずそうに笑う。
「……あ、起こしちゃった? ごめんね、もう少し寝てていいよ」
一体いつからここに居たのか。天を仰ぐと、海より青い空は茜色に染まりかけている。ひとまずベッドから下り、琴音と同じく草地に座る。
「いや、平気だ。それより、何故ここに居る。何処かに用向きがあったのではないか?」
「あ〜……うん。でも、ヨスガの様子が気になってリスケしたんだ」
「そうか。それは先方にも申し訳ないことをした」
他人行儀な返事で場を凌ぐ。片や胸中は、混乱と喜びが綯い交ぜになっていた。
行き先も伝えず出てきたというのに。何故この場だと分かったんだ? 幾つも湧き出る不毛な問いは音と成らず、代わりに口から抜け落ちる。
一方で琴音は俺の横に座り直し、スカートを巻き込むように膝を抱えた。そうして前を向いたまま、「ここ、空気がキレイで気持ちいいよね」などと前置きを話す。
「……ねえ、ヨスガ。どうして話してくれないの? 私、そんなに頼りない?」
「……それは」
「あ、もしかして「また危ない目に遭わせちゃうかも」って心配してくれてる? でも大丈夫! あの後受け身の練習して、簡単には怪我しないようにしたんだ」
「っ……違う。違うんだ」
消え入りそうな声。自分で発しておきながら、なんと情けないと顔を俯す。だがこのまま会話を続けてしまえば、いっそけりがつくだろうか。
「俺は、お前に――琴音に何の気兼ねもなく、今の生を謳歌してほしいんだ」
「今の生を謳歌、かぁ。ヨスガが言うと重みが違うね。でもそれって、なんだか私までそうみたいじゃん」




