教えてジョセフィーヌ先生
結局、エルーシアに住むことになるのはまだ先の話らしかった。
定期的に通う必要はあれど、婚約者という立場はほんの口約束のようなものだそうだ。そこまで重く受け止めなくとも良い、とクレイアの家に帰ってから両親に言われた。
いくらなんでも隣国の皇子だぞと思わないではなかったが、当たり障りがなさそうな相手にとりあえず求婚しておく、というのはよくある話らしい。
貴族に必須の世渡り術なのかもしれない。愛は後からついてくるものよ、なんて母親は言っていた。フィオレの家も政略結婚か何かだったのかな?
だからきっと。
自分に素直に恋路を突っ走ることのできる、彼女のような存在の方が珍しい。
「ふうん、シルヴィ殿下が」
恋敵になりさえしなければ、ジョセフィーヌは本当に素晴らしい友人だった。
王子に相応しい令嬢であるための努力を惜しまない。勉学も社交のマナーも、もちろん美容に関しても。
そんな彼女にしてみれば、フィオレはどこかのんびり屋というか、かなりのマイペースに見えるらしい。王子のプロポーズを頓着なく断る少女は、確かにマイペースの極みだろう。
日常生活でも、母親のように先回りして世話を焼いてくれることが多かった。アラサーの中身としては少し恥ずかしいのだが、豊富な知識はありがたく利用させてもらっている。
「エルーシアに限らず、今は魔法を扱える方はあまりいないと聞きますけど」
ティースプーンでカップの中身をかき混ぜる。音は一切しない。
「そうなんだ。まあ、何でもかんでも魔法で治せたら、お医者様や薬草売りが困ってしまうものね」
「あら、あなたにしては珍しく察しがよろしいのね。それにしても、皇子様である上に剣も魔法も扱えるだなんて。素晴らしいじゃありませんの」
扇で口許を覆い、ころころと笑う。
「もちろん、ベルトラン様のほうが素晴らしいとは思ってますが。……魔法を怖がるのは、その御方が無知だからに過ぎませんことよ」
親友である彼女とは家も近いため、よくこうしてお茶会をする。他愛ない雑談は今回はやはり恋の話で持ちきりで、その流れで、魔法がどういうものかとちょっと訊ねてみたのだ。
ただし彼の気持ちを思い、花が咲くという話まではしなかった。
「何を食べたらあんな完璧超人に育つんだろう……」
「少なくとも、こぼすほどのクリームを一度に口に運んだりはしないでしょうね」
スコーンに塗りすぎたクリームが皿に落ちたのを見咎められる。おいしいから、つい……。
わたしなどが賞賛するまでもなく、あの兄弟は本当にハイスペックだった。
エルーシアにはいくつか騎士団があり、そのうちの一つをそれぞれが束ねていたはず。美形というだけでずるいのに、二人とも騎士団長の肩書きまで持っているのだ。政治的な理由もあろうが、要はスポーツ万能である。
幼い頃から学問も芸事も叩き込まれてきた、生粋のエリート。もはや羨望の気力も湧かない。
「でもあなた、魔法のお話をしてしまって良かったんですの? わたくしが存じ上げないくらいですもの、あまり公にされたくないのではと思いますけど……」
そ、そうなのか! てっきり周知の事実かと思っていた。
青ざめるわたしを見て、ジョセフィーヌは呆れたように微笑んだ。
「安心なさい。どこかのうっかり屋さんと違って、口は固いほうですのよ?」
「う。すみません……」
反省を示すと「まったく、シルヴィ殿下も苦労されますわ」なんて面白そうに返される。うう……。
「そ……そういえば、魔法って呪文を唱えて使うものよね?」
「普通はそうでしょうね。でも魔力が強いと『思わず』発動してしまうというお話も、先生から伺ったことがあります」
先生というのは、彼女の家で雇っている家庭教師のことだろう。
「思わず?」
「ええ。魔法は心で使うもの、感情の波が魔法の強さになる。だから魔力持ちと観劇はするな、なんて言われてますわ。あなたもお気をつけて」
「心で……」
だとすれば。もしやあの時、シルヴィは何かしら心を動かされたということになる?
花が咲いたのは何と言った時だった? そう、確か――
「し、知りたくなかったかも……」
熱い顔を覆って呟く。幸い、ジョセフィーヌの耳には届いていなかったようだ。
わたしと違い、彼はパーティーでの薔薇の意味だって知っていただろう。
待って、こんなはずじゃ。
高鳴る鼓動を抑えつけようと苦心する。あれだけ余裕ぶっておきながら、皇子の心って実は――ものすごく素直なんじゃなかろうか?
「とっ、ところでベルトラン様とは最近どうなの?」
これ以上、自分の手番が続くのは耐えられなかった。
紅茶をごくごくと飲んでから話を振ると、いつものように彼女はぱっと顔を輝かせ、いかに王子が素晴らしい人物かを語ってくれるのだった。
やはり王家と単なる貴族とでは、どれだけの爵位であっても関わる機会はあまり多くない。
だがこれからおよそ半年ほど、とある『シチュエーション』が訪れる。
「待ち遠しいですわ。ベルトラン様と毎日お会いできるなんて、夢みたい!」
この国では貴族の子女を王都に集め、共に一定期間の学園生活を送らせる。横の繋がりを強めようという意図と、これは邪推かもしれないが、地方貴族の忠義を育むためのものだろう。
招かれるのは王家も例外ではなく、身分が隔たるはずの王子とジョセフィーヌとフィオレが、同じ時間を過ごすことができる。
いよいよゲームの『本編』が始まるのだ。
そしてそこには、留学と称してルシュカ様もやってくる。
すなわち。本格的にわたしのハッピーエンド計画が始動するということも意味していた。
◆
ベッドに潜り込んでも、なかなか眠気は訪れてくれなかった。……少し紅茶を飲みすぎたかな?
まあ、それだけでないのはわかっている。
ずっと慌ただしくて考えないようにしていたけれど。
「死んじゃったんだよなぁ」
呟きは静寂に吸い込まれた。車の往来の音もビルの灯りもないのだ、この世界には。
こんなことなら、もっと好き勝手に生きればよかった。仕事を押し付けてくるわがままな同僚も、上司の嫌味も、こうなってしまうとほんの少しだけ恋しい。
お金はあったのに時間がなかった。
旅行に行きたかったな。
色々と食べたいものもあったのにな。最後の晩餐が栄養ドリンクだなんて、救世主様だってさすがに同情するに違いない。
これがいわゆる転生だとして。それなりに自立してからで良かったと思う。他人とのコミュニケーションを経験してきたことは、生きるための助けとなるだろう。
しがない会社員が急に魔王を倒せなんて言われたら無理だけど、自分と自分の周りの人くらいなら、少しは幸せにできたらいいと思う。それも傲慢なのかな。
でも、せっかくの新しい人生だ。わたしだって。
「幸せになりたいなぁ……」
今のところは順調とはいえ、周囲に馴染めるかいつも不安で仕方がない。今日のジョセフィーヌとの会話もそうだし、どこで道を踏み外してバッドエンドに向かってしまうかもわからないのだ。
鼻をすすって脳裏に浮かんだのは。
――シルヴィには、今度いつ会えるだろうか。
何せ、人生初のプロポーズだった。優雅な所作がサマになっていて、あんなものは堕ちない方が嘘に決まっている。
だがそれ以上に。演技だとしても、彼はわたしを助けてくれたのだ。怯え戸惑う見ず知らずのわたしに、損得勘定もなく手を差し伸べてくれた。
そうやってドキドキしそうになる度、戦場のシーンを思い出しては心を落ち着けようと努めているのだが。
忘れてはいけない。彼は悪逆皇帝となる可能性を秘めている。全身を返り血に染めながら、霜の降りた瞳でこちらを射貫くあの姿……
「……ん?」
いや、待て。
目尻を擦って寝返りを打つ。頭はすっかり冴えていた。
心が動くのは、何も喜びだけではない。悲しみや怒りだってそうだ。
もし、である。彼の魔力が無意識に溢れてしまうほど強いのだとしたら、国を滅ぼすほどの怒りや憎しみに、魔法が発動しないなんてことがあるだろうか?
クレイアに攻めてきた時、シルヴィ・エルーシアは魔法を一切使っていなかった。怪我も治癒せずそのままだったし、どれだけの人数を斬ろうと花が咲くところも見なかった。だからわたしも、彼が魔力持ちだとは知らなかったのだ。
ずっと彼は、心を殺すことが癖付いていたのだとしたら。
もうあの火の海の中では、何も感じていなかったのだとしたら。
想像すると勝手に泣けてきそうだった。そんなのあまりに……悲しすぎる。
やっぱり、ルシュカ様だけではだめなのだ。兄を助けただけではシルヴィの心は救われない。
あんな道に進んで欲しくはなかった。まだ皇帝になる前の彼のこと、きちんと知りたい。恩返しがしたい。
慎重に、独善的にならないように。決意を胸に目を閉じる。
もはやゲームの世界だろうと何だろうと関係なかった。このチャンス、わたしはわたしにできることをするべきだ。間違いなく『生きている』彼らのために。