二度も死にたいわけがない!
隣国の皇子の急な登場に、さざ波のような動揺が伝播していく。
終わった。転生ライフはここでおしまいだ。最悪の状況に、気絶でもできたらどんなに楽かと思う。
だって、わたしはさっき何をした? 命乞いどころか……自分の薔薇を手渡した!
だが彼は手にそれを持ったまま、迷いない足取りで向かってくる。
「返事も聞かずに立ち去ってしまうとは、随分とお転婆なお嬢様だな」
ぶつかった時の印象とは全然違う。くつくつと笑う様は妖艶で、どこか不遜ですらある。
いっそ倒れてしまいたいと願っているのに、堂々たるオーラと美しい姿に目が離せない。
心臓が大きな音を立てている。このまま破裂してしまうんじゃなかろうか。
すると、皇子はなぜかわたしに目配せ。これだけ艶やかな様を見せておきながら、サファイアの瞳には不思議と熱情に酔った色もない。
よく、わからないが――流れに任せてみるか?
「名前は?」
「フィ、フィオレっ……フィオレ・リースベル……」
「そう。では、フィオレ嬢」
……あの冷徹な皇帝となる男がわたしの前に跪いている。この数刻の間だけで、二度も!
黒の長衣が床に広がる。こんな場でも帯剣を欠かさないらしく、腰元の鞘が目に入った。片手をとった滑らかな指先は、氷のように冷たい。
「このシルヴィ・エルーシア。君の求婚、謹んでお受けしよう」
告げられた蕩けるような言葉と、手の甲への口付け。顔へと一気に血が上ったのを感じる。
違う、とは言えなかった。言った後が恐ろしかったのもあるが、混乱が頭を占めていて言葉も出なかったのだ。
なぜ? どうして断らない? 偶然ぶつかった相手に一目惚れ、なんて話もないだろう。あの皇帝シルヴィだぞ?
一拍遅れて周囲から歓声が上がる。
さすがに隣国の皇子相手では、王子も迂闊に手は出せなくなったか……なんて恐る恐る窺うと、驚くべきことに、当の本人も感動しきった様子で拍手しているじゃないか。
「ああ、素晴らしい! これぞ愛だね!」
ロマンチストな王子様をまじまじと見ていたら、隣からぶつかってくる衝撃。小さな悲鳴と共によろめけば、満面の笑みのジョセフィーヌが抱きついてきていたのだった。
「なんてことなの! あなたも隅に置けませんわね!」
喜んでくれているのなら、それはまあ、嬉しいのだが。どうやら、彼女に殺される理由はほぼ無くなったようだし。
シルヴィ皇子はさっさと立ち上がり、どきりとするほどの無表情で向こうの……帝国の貴族達を見ていた。先の笑みは見間違いかと思うほどだ。
そうだ、ルシュカ様は?!
彼が来ているということは、同じく皇子であるルシュカ様も参加している可能性が高い。だが視線を走らせるも姿は見えなかった。
それどころか。
遠目にもわかる。そこにはフィオレの周りとは対照的に、ひきつった顔と困惑を囁き合う姿が並んでいるばかりだった。
「失礼、素敵なお嬢様」
知人友人らしい貴族達に祝福の言葉を送られていると、やけにダンディな声がそれを遮った。
振り向くと、いかにも偉そうな髭のおじさんが数名の従者を連れて立っている。服の紋章がエルーシアのものと見るや、友人達はそそくさと散ってしまった。
「何かご用でしょうか?」
「貴女はシルヴィ殿下のお噂をご存知ないのですか?」
「噂?」
お偉いさんだか何だか知らないが、いきなり不躾なことだ。どことなく反発を覚え、こちらも名乗らないまま毅然と見上げる。
そういえば件の皇子様は、引き留める間もなくどこかに消えてしまっていた。
おじさんは目を細めながら髭を撫で付ける。
「ふむ、その様子だとやはりお聞き及びではないようだ。『親殺し』のことも」
親殺し……? 話しているのはシルヴィ皇子のことで合っているよな?
「あの、一体何を仰りたいのでしょうか?」
「いえいえ、皇子のお相手に名乗り出てくださったのはありがたいことだと思いましてな。ましてや、あの顔の傷だというのに。しかしそうですな、ただ一つだけ……」
ふっと笑う。嫌悪を感じるような、こちらを見下す視線。
「お嬢様の命の無事を願っておりますよ」
『わたし』としては思い当たる節がないではない。ぐっと言葉に詰まる。
「……ご忠告、感謝いたしますわ」
でも、それはこれから自分の目で確かめたって遅くはないだろう。思いっきり語気強く返してやる。余計なお世話だ。
丁度よく親に呼び寄せられて、苛立ちながら回れ右。ちぇっ、どこの世界にも嫌な奴っているんだな。
まあ……忙しい日々が続いたせいで、このお偉いさんのことはしばらく忘れてしまうのだが。
◆
それからのことは、正直ほとんど覚えていない。
ともかく早いうちに顔合わせを、とあっという間に帝国エルーシアへと連れて来られ、何だかんだとメイドさんや使用人さんに世話を焼かれた気もする。
身支度を整えられて案内されたのは、城のはずれにある応接室のような場所。
客人を招くための部屋がこんな位置にあるのは少し不思議だったが、優れた軍事力を持つ国ならではの防犯意識なのかもしれない、と思い直す。
「……」
だとしたら、もしわたしが暗殺者だったらどうするのだろう。何しろこの瞬間、第二皇子と二人きりにされているのだから。
婚約したのだ。あのシルヴィ・エルーシアと。
ようやく実感が沸いてくると共に、とんでもないことをしたと青ざめる。バッドエンドどころの話ではない。
帝国という形態をとっていれば、他国から貴族を娶るのはそこまで珍しい話でもないだろう。問題は相手が『あの』シルヴィ皇子であるということだ。
「で、どういうつもりだ?」
「こ、ここ、こちらの台詞ですがッ」
テーブルを挟んで座る男は、長い脚を組み頬杖をついて、ざっくばらんな口調で問いかけてきた。パーティーの時とはまるで別人だ。
「じゃあ訊くがお前、あの王子の申し出を受けるつもりだったのか?」
「そっそれは……」
「俺にも本気で求婚したわけじゃないんだろう」
特段、傷ついたような気配は感じなかった。淡々と口にする彼の心が読めない。
「で……ではなぜ、あの場で助けてくださったのですか?」
「……困っていたようだったから声をかけたまでだ。助ける、という言葉を使うのなら、あながち間違いではなかったということか」
「……」
「だからこれは返す。元より俺は、伴侶を持つ気など毛頭ない。帰っていいぞ」
つ、とテーブルの上に載せられた一輪の薔薇。ぶつかってしまった時に渡したもの。
帰っていいと言われても、だ。
あっさりと突き返され戸惑ってしまう。彼は本当はこんなに穏やかな人物だというのか? しかも、わたしが困っていたことに気付いてくれた? 偶然会ったに過ぎない小娘を助けるために、わざわざ大芝居をうつなんて。
……もし自国に帰れば、またベルトラン王子ルートに乗ってしまうかもしれない。待っているのはどのみちバッドエンドだ。
「しばらくは居心地の悪い思いをするかもしれないが、そんな評判はすぐに消えるだろう」
「でも、ええと、破談が噂になったら殿下こそ……」
「問題ないな。俺が社交的でないことなど皆が知っている。……兄上を失望させるのだけは、気が進まないが」
彼の兄、ルシュカ。
確か、異母兄弟という設定だった。微笑みの貴公子といった柔和な兄ルシュカ皇子に対し、シルヴィ皇子は息が詰まる美しさ、刃のような雰囲気を持っていた。
あまり似ていないと思っていたが、こうして静かに座っていれば、目の前の彼にも面影はある。ゲームでは、戦場での姿しか知らなかったから。
血と火の海の中、皆殺しを命じ、自らも容赦なく剣を振るっていた非道の皇帝。
彼ら兄弟のことは作中でほとんど語られない。確実なのはルシュカ・エルーシアが『無実の罪で殺され』、遺された弟が皇位を継ぐということ。
何が、この人を変えてしまったのだろう?
「あの、一応お訊きしたいのですが……殿下は、わたしがお嫌いでしょうか?」
「……は?」
思わず口をついて出た問いかけに、彼は初めて驚いたような表情を見せた。
「そんなこと……会ったばかりでわかるはずがないだろう」
「それなら少なくとも、希望はあるということですよね?」
「お前さっきから何を言って……」
ゲームではあり得ない、知らないルートに迷い込んでしまった。この先のことはわたしにもわからない。
でも。どうせ二回も死ぬのなら、他の誰かのせいではなく、自分の好奇心によっての方がまだましだ。
それに、これはチャンスだと思った。ここにいれば、もしかするとルシュカ様を助けられるかもしれない。シルヴィ皇子も国を滅ぼさないかもしれない。
全員を、ハッピーエンドに辿り着かせられるかもしれない!
「シルヴィ殿下、あなたに興味があります。その、お友達からで構わないので、お側に置いていただけませんか?」
「……馬鹿にしているのか? あれは演技だったと――」
その時だ。
「へ?」
張り詰めかけた空気の中、なんとも間抜けな声が出てしまった。
一瞬、アニメや漫画のエフェクトかと思った。が、違う。ふわりと漂う甘い香りと確かな質感。
彼が座る椅子の脚の近くに……花が咲いている?!