茨の皇子
あの日のことが嘘だったかのように、ルシュカ様は普通に接してくる。こちらが気まずい思いをしないよう配慮してくれているのだとしたら、呆れるくらい本当に大人だと思う。
シルヴィには何を話した様子もなかったし、わたしも何となく黙っていた。
……でもシルヴィ本人は、もっとずっと前から察しがついていたのかもしれない。
気のせいじゃない。最近わたしを避けることが増えたのが、その証拠。
「お部屋にお邪魔してもいいですか?」
「悪い。今日は一人で作業したい」
今日は、と言いつつも何度もそんなやり取りが続く。
彼はわたしと顔を合わせることさえ避けているようで、時間をずらしているのか食事の席にも現れないし、部屋を訪ねてくるなんてもってのほか。いそいそと引きこもるばかりの日々が続く。
何度かそんなもどかしい思いを経て、わたしはとうとう強硬手段に出た。廊下で待ち伏せしたのである。
「シルヴィ!」
「フィオレ……」
執務室から続く一本道の廊下で呼び止める。別に無視されているわけではなかったから、彼は単に青い瞳を泳がせただけだった。
「ねえ見てください、これ」
強引に目の前に回り、両手を突き出す。
「買ってきたんです。前に、欲しいって言ってましたよね?」
それは革製の手袋。
馬に乗る時に使っていたグローブが古くなったのだと、少し前に漏らしていたのを覚えている。特に秋冬ともなれば、風を切り手綱を握る手はかなり冷えるはず。
「あなたにはその、こういう黒っぽい、締まった色が似合うかなと思って……油は塗り込んだんですけど、初めてでうまくできなくて……で、でも、使っているうちに柔らかくなりますからっ」
あの滑らかな手指が庇われるならば、とちょっとだけ奮発した。本革がこうもごわつくものだと知り、慌てて店主のおじさんに手入れの仕方を訊いたのだ。
少しでも身を守ってくれたら嬉しいと思う。きっと知らないところで、騎士様はたくさん大変な思いをしているのだろうから。
「また街へ出かけたのか」
嘆息し、呆れながらも目を細めてくれる。久しぶりの優しい表情に心が温かくなった。
「……もらっていいのか?」
「もちろん! だってわたしは馬に乗れませんもの」
小さく笑って更に差し出す。
シルヴィは少し迷ってから、ゆるりと手を伸ばし……
「そうか。ありが――」
「やあ、シルヴィ。それにフィオレ嬢も」
こうして兄弟が揃うのを見たのも久方ぶりだ。
通りがかった第一皇子は、昼下がりの陽光かのような笑みを向けてくれた。
「あ、ルシュカ様!」
この前の弱っていた様子は片鱗すらない。
春風を思わせるいつもの穏やかさを纏いながら、悪戯っぽく肩をすくめる。
「お邪魔だったかな?」
「そんなことないですよ。ね、シルヴィ?」
振り返ると。
「シルヴィ……?」
彼は強張った表情で一歩、二歩と後退りした。まるでわたし達から離れるかのように。
「あ……き、急用を思い出した」
「あっ、ちょっと……!」
言い終えたかどうか、すぐさま踵を返して自室の方向へと戻ってしまう。一瞬確認できた表情は、怯えたような固さ。
ただ呆然と立ち尽くすわたしの傍。いつの間にか近くに歩み寄っていたルシュカ様が、重々しいため息を吐き出した。
「これは思ったより……参ったな」
「参った、というのは……?」
「いや……君が気にすることではないよ」
ゆるゆると首を振る。何かを諦めたような、幼子をあやすかのような、切ない微笑は先日見たものに似ている。
「追いかけてやってくれるかい? 今のあの子には、君が必要だ」
「え、ええと、それは……はい……」
彼が去った方向とルシュカ様の顔と。交互に見比べて逡巡していると、そっと背中を押し出される。
困ったような表情は弟からは縁遠い柔らかさのはずなのに、血の繋がりを感じる面影に、胸が少しだけ痛んだ。
「あ……あの、ルシュカ様」
どうしてそんなことを言おうと思ったかはわからない。だけど、わたしの知るルシュカ・エルーシアという人は、ハッピーエンドから自分だけを除け者にしてしまう人だったから。
変な奴と思われても構わなかった。ただ、知って欲しかった。
親を失った弟へと向ける愛は、あまりに深く、強く、そして危うい。
「ルシュカ様にも幸せになって欲しいって周りが思っていること、忘れないでいてくださいね」
「……君がそれを言うのは酷だね」
言い訳や謝罪の暇もなかった。
わたしの髪の毛に――口付けを。
生前から大好きだった、でも今は兄のような存在の、愛情深く美しい皇子。
彼はくしゃりと髪を撫でると慈母のように微笑む。そんな顔をされたら、もう何も言えなくなってしまうのに。
「行っておいで。だけど困ったらいつでも相談して。何があっても、僕が君の味方であることは変わらないから」
◆
「待って……待ってください、シルヴィ!」
衆目も憚らず大声で呼び止めると、さすがに無視はできなかったらしい。
とはいえ周りに人はほとんどいない。彼の部屋は、そういう場所に位置している。
どうにか息を整えながら見上げると、困惑の滲む表情に応じられる。不自然な言動の自覚はあるらしく、サファイアの瞳が珍しく自信無さげに揺れていた。
「ど……どうして、逃げるんですか!」
「逃げてなんか、」
少し前まであんなにわたしのことを大切にして、甘やかしてくれたのに。
心情を表すように、シルヴィは再び一歩後退った。
「……兄上は」
「ルシュカ様が言ったんです、あなたのところへ行けと。変ですよシルヴィ。わたし、何かしましたか?」
ルシュカ様、と口にした時、一瞬だけ彼は白皙を歪ませた。泣き出しそうにすら見えた。
ゆらりと彼の影が揺らめく。光の加減では、多分、ない。
ようやくまともにこちらを見た瞳は悲しみに染まっていて。他人を拒絶するかのような、鋭い青色に息を呑む。
「兄上はお前に惚れている」
以前なら、何を馬鹿なと一蹴できた。しかし。
「……」
指摘されるまでもない。ルシュカ様が向ける情に、友愛以上のものが含まれていたのはいつからだったか。
自覚してしまえば押し黙るしかなかった。その反応は、更にシルヴィを傷付けるだけとわかっていたのに。
「で――でも、わたしはあなたの婚約者です」
「あんなもの口約束だろう」
はっと顔を上げる。あんなもの。わたしが今まで頼りにしていた絆を、たった一言で。
「そんな風に思ってたんですか……?」
見知らぬ世界で助けてくれた恩人。どうにか助けたくて、少しでも彼に笑っていてほしくて。
これまでの思い出を噛み締める。視界が滲んだ。
だって、そんなの。ひとりで舞い上がって馬鹿みたいじゃないか。
「わたしの気持ちはどうなるの……? あ、あなたの気持ちはっ?」
「俺の……心を出せば……」
涙ながらに声を上げれば、わずかにたじろぐ素振り。しかしながら、わたしの訴えは彼の気持ちを変えるには至らなかった。
何かを言おうとしていたシルヴィは、とうとう俯き、やがて諦めたように力無く首を振った。足元の影は動かない。花が咲くことも、もちろんない。
静寂の中、ぽつりと床に落ちた言葉が明確な一線を引く。
「もう、構わないでくれ。どうせ俺は『茨の皇子』なのだから」




